第10話 燃える都で一夜
炎に照らされた駕籠から、瑠璃が自分で飛び降りた。
「姫様!」
護衛の声が上がる。
瑠璃は振り返らない。
裾をつかみ、燃える六波羅の道を走った。
屋敷の屋根から火が噴き、夜空へ火の粉が昇っている。西へ向かう牛車と荷車が道を埋め、泣く子、怒鳴る兵、家財を抱えた女たちが互いを押しのけていた。
都を捨てる人の流れに逆らい、瑠璃は東へ走る。
「右です!」
路地の奥から真白が叫んだ。
瑠璃は迷わず曲がる。
背後で護衛が追ってきた。
真白は積まれた水桶の縄を鞘で打った。桶が崩れ、道へ水が広がる。兵の足が止まった隙に、瑠璃の手を取る。
「どうして、ここに」
「待っていました」
「私が駕籠を降りなかったら?」
「朝まで」
「朝になっても?」
「次の夜まで」
瑠璃が笑った。
息を切らし、火の粉を髪につけながら、それでもうれしそうに笑う。
「馬鹿ね」
「よく言われます」
二人は手をつないだまま走った。
黒い息が炎の中で揺れる。
白い縁は、まだない。
今夜、瑠璃は死なない。
それでもこのまま手を離せば、いつか海で刃を向ける日が来る。
「こちらへ」
真白は使われていない物見櫓へ瑠璃を導いた。
焼けた村の生存者を運ぶ兵に交じり、都へ入った後で見つけた場所だった。階段の半分は腐っているが、上から六波羅と西へ続く街道が見渡せる。
瑠璃が梯子へ足をかける。
大きな爆ぜる音がした。
すぐ近くの屋敷が崩れ、火の壁が路地を塞ぐ。
熱風が二人の背を押した。
真白は瑠璃をかばい、櫓の柱へ身を寄せる。
「熱くないですか」
「あなたの袖が焦げている」
瑠璃が手で火を払う。
「平気です」
「どうして男の人は、痛いときほど平気と言うの」
「あなたも怖いときほど平気な顔をします」
「似た者同士ということ?」
「たぶん」
「困ったわね」
二人は火が弱まるのを待ち、櫓へ上った。
◇
都が燃えていた。
火は六波羅の屋敷から隣へ移り、黒い夜を赤く染める。遠くでは、平家の車列が松明の川となって西へ延びている。
瑠璃は櫓の縁へ立った。
風が長い髪をさらう。
「あそこに、私を育てた乳母がいる。幼い従妹も、鈴を磨いてくれた女房も」
「はい」
「家が滅びるなら、一緒に滅びるのが正しいと皆が言う」
「瑠璃さんは?」
「正しいと思っていた」
過去の言葉だった。
「あなたに会うまでは」
瑠璃は襟元へ手を入れた。
取り出した鳴らさぬ鈴を、真白へ差し出す。
「持っていて」
「僕が?」
「平家の列には、鈴を探す者が紛れている。御使か、その手の者よ。私が持ったまま西へ行けば、残りの封印も向こうの望む場所で外される」
「でも、鈴守のあなたから離していいんですか」
「記録には、守り手の血が必要とはない。黒い息へ触れたあなたの手なら、鈴は拒まないはず」
真白は両手で受け取った。
金属は、初め冷たかった。
次の瞬間、掌の中で人肌のように温かくなる。
ちりん、と聞こえた気がした。
瑠璃には聞こえなかったらしい。
「どうしたの」
「温かい」
「私が持っていたからでしょう」
「違います。内側から」
鈴の四つの印のうち、一つが淡く赤く光った。
すぐに消える。
「これで、御使の筋書きから少し外れたでしょうか」
「そう願うわ」
瑠璃はもう一つ、巻物を渡した。
本物の封印記録だった。
「返さなくてよかったんですか」
「もう都へ戻る者はいない。燃える蔵へ返すくらいなら、あなたが持って」
真白は巻物を開いた。
墨で消された夢の最後。開いた左手。四つの鈴印。
写しと同じだ。
だが原本の余白に、見覚えのある小さな印があった。
一枚の烏羽。
「これは」
「蔵にはなかった印よ。盗み出した夜、部屋で気づいた」
「誰かが後から押した」
「ええ。それに、あの夜はおかしかった。鍵が開き、見張りは眠り、私が読むべき巻物だけ机に出ていた」
「盗ませた人がいる」
「私があなたを探すように」
真白の胸に、義景の声が蘇る。
お前は、お前にしか救えない者を救えばいい。
兄は最初から、瑠璃を救わせようとしていたのか。
維紅の警告どおり、真白は餌だった。
瑠璃もまた、鈴を運ぶための餌だったのかもしれない。
「義景の印?」
瑠璃が問う。
「同じ烏羽を、兄上の扇で見ました。でも、八咫烏の印なら、兄上だけのものとは限りません」
「まだ信じたいのね」
「信じたいです」
炎が真白の横顔を照らす。
「でも、信じたいことと、確かめないことは別です」
瑠璃はうなずいた。
「私も確かめる。なぜ歴代の夢の終わりが消されたのか。なぜ平家を、鈴と一緒に壇ノ浦へ向かわせるのか」
「壇ノ浦へは行かせません」
「また簡単に言う」
「今度は、何度でも言います」
「私が西へ行けば、あなたは敵になる」
「もう敵です」
「そうだったわね」
瑠璃が笑う。
次の言葉まで、長い沈黙があった。
「今、私が一緒に逃げてと言ったら?」
「逃げます」
「源氏も、兄も、師も捨てて?」
真白は答えようとした。
瑠璃が首を振る。
「すぐ答えないで。答えられたら、私はきっと頼んでしまう」
彼女は燃える都を見下ろした。
「私、生きたい。でも、あの列にいる人たちを置いて、自分だけ逃げたいわけではないの」
「分かっています」
「分かった顔をしないで。あなたと行きたい気持ちも、本当だから」
黒い息が震えた。
瑠璃は死を恐れている。
家族を捨てることも恐れている。
どちらかを選べば、もう片方を裏切る。
真白は彼女の手を取った。
「生きたいと言ってください」
「生きたい」
「僕と行きたいとも」
「あなたと行きたい」
「家族のところへ戻りたいとも」
瑠璃の目から、一粒だけ涙が落ちた。
「戻りたい」
「全部、本当でいいんです」
「欲張りね」
「生きる人は、欲張りでいい」
真白は瑠璃の涙へ指を伸ばし、途中で止めた。
彼女の方から、指先へ頬を寄せる。
「あなたは、私が生きたいと言う声を、いつまで聞くの」
「黒い息が消えても」
「その後は?」
「息の色を見なくてよくなっても、聞きたいです」
「それ、告白のつもり?」
「たぶん」
「たぶんでは困るわ」
瑠璃が一歩近づく。
燃える風の中で、彼女の髪だけが夜の色を残していた。
真白は頬へ添えた手を動かせない。
互いの息が触れる。
あと少しで、唇が重なる。
そのとき、西の街道から法螺貝が鳴った。
平家の出立を告げる音だった。
瑠璃が目を閉じる。
逃げたい心を、自分でしまう顔だった。
「行かなくては」
「はい」
「連れ去らないの」
責める声ではなかった。
そうしてほしいと願う声でもあった。
真白は手を離さなかった。
「あなたが戻ると決めたなら」
指を絡め、強く握る。
「でも、死ぬ場所までは選ばせない」
「勝手な人」
「あなたほどではありません」
瑠璃は泣きながら笑った。
「次に会ったら、たぶんの続きを聞かせて」
「必ず」
◇
櫓を下りると、炎の向こうに赤い鎧が立っていた。
維紅だった。
夕凪の刃が、火を映している。
「兄様」
瑠璃が真白の前へ出た。
「この人には手を出さないで」
「退け」
「嫌」
「お前を連れ去る男だ」
「連れ去らなかったわ」
維紅の赤い目が、真白へ向く。
「それが余計に気に入らん」
「僕も、そう思います」
「口を挟むな」
夕凪がわずかに上がった。
瑠璃は動かない。
「兄様。私は戻る。平家の皆と西へ行く。でも鈴は真白へ預けた」
「何をしたか分かっているのか」
「初めて、自分で決めた」
維紅の刃が止まった。
妹の意思を前にすると命令できない。
強い男の、たった一つの弱さだった。
「夢の男へ、命を預けるのか」
「命は預けない。運命を調べる役目を半分、渡しただけ」
「同じことだ」
「違うわ」
兄妹はしばらく見つめ合った。
維紅が先に刃を下ろす。
「車列が出る。急げ」
瑠璃はうなずき、真白を見た。
別れの言葉はなかった。
言えば、本当の別れになりそうだった。
彼女は維紅と並び、炎の向こうへ歩いていく。
一度だけ振り返る。
真白は胸元の鈴へ手を当てた。
瑠璃も、鈴があった場所へ手を置く。
二人の間を燃える梁が崩れ、姿を隠した。
◇
夜明け前、真白は都の外れへ戻った。
火の勢いは弱まらず、東の空まで赤い。
鈴は懐で温かいままだった。
歩くたび胸へ当たるのに、音はしない。
これまで瑠璃は、この沈黙を一人で身につけていた。家の滅びと、自分の死と、封じた怪物。そのすべてを小さな鈴へ押し込み、平気な顔で歩いていた。
今は重さの半分が、真白の胸にある。
守るだけでは足りない。
彼女が戻る場所を残したまま、生きる道を探す。
それが共犯者として受け取った約束だった。
兄を問い詰める証拠もある。
だが今夜は、瑠璃から託された未来を玄斎へ見せたかった。
焼けた門をくぐる。
その先に、義景が待っていた。
一人だった。
黒髪にも衣にも、火の粉一つついていない。
烏羽を挿した扇を閉じ、真白の胸元を見ている。
鈴は衣の内側に隠してある。
形さえ見えないはずだった。
義景は、帰りの遅い弟を迎えるように微笑んだ。
「その鈴を、よく持ってこられたな」




