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第11話 兄の手

 義景は真白へ、刀ではなく薬湯を差し出した。


「昔から、煙を吸うと熱を出す」


 燃える都から戻ったばかりの真白は、椀を受け取らなかった。


 夜明け前の空はまだ赤い。


 義景の背後では、六波羅から逃れてきた人々が野営している。泣き疲れた子ども。荷を失った老人。水を運ぶ源氏の兵。その中には、焼けた村の生存者もいた。


「なぜ、鈴を知っているんです」


「先に飲め」


「答えてください」


「熱が上がっている」


「兄上!」


 真白の声が響いた。


 近くの人々が振り返る。


 義景は困った弟を見るように息をつき、薬湯の椀を地へ置いた。


「平家の姫が鈴守であることは、院の記録にある。都落ちの最中、その姫だけが一刻ほど列から消えた。お前は夜明けに戻り、胸元をかばっている。難しい推測ではない」


「僕が瑠璃さんと会ったことまで知っているんですか」


「今、本人が教えてくれた」


 誘われた。


 真白は唇を噛む。


「記録の余白に、烏羽の印がありました」


「八咫烏は、院の命を受けて長く封印を調べている」


「村の地図にも、同じ印があった」


 義景の目から笑みが消えた。


「小夜が持ち出したのか」


「地図を見たことは否定しないんですね」


「私の荷にあったものなら、あるだろう」


「囮と書いたのも、兄上ですか」


 真白は看取り帳から写しを出した。


 義景の刀に添えられた短冊も並べる。


 真の字の最後が、同じように右へ跳ねている。


「村が襲われる前の日付です。白い息が七つ、救命が二つ。鈴は動かなかったと書いてある」


 義景は逃げなかった。


 写しを受け取り、一行ずつ読んだ。


「筆跡は私のものだ」


 認められたことに、真白の方が息を詰める。


「では」


「平家の間道を探るため、あの村を斥候の囮にした。襲撃を命じたのではない。鎌頭組が現れた後、報告を受けて白息と救命を書き足した」


「日付は前です」


「地図を作った日だ。追記した日ではない」


「烏羽の砂金で、鎌頭組が雇われていました」


「八咫烏を名乗る者は多い。烏羽の印も、砂金も、奪おうと思えば奪える」


「綾取姉妹を雇った御使は、三つの姿で同じ時刻に現れた」


「なら、私ではない」


 淀みのない答えだった。


「その夜、私はお前の熱を看ていた。覚えているだろう」


 覚えている。


 濡れた布を替え、夜が明けるまで手を握っていた。


 あの兄が別の場所で、姉妹へ砂金を渡すことはできない。


 式神が人の姿を借りることを、真白はまだ知らない。


 証拠はある。


 それでも、兄へ届く寸前で線が切れる。


「僕に、信じてほしいんですか」


「いや」


 義景は薬湯を拾い、もう一度差し出した。


「私を疑ってもいい。薬は飲め」


 真白はその手を見た。


 虐殺の記録を書いたかもしれない手。


 熱を出した弟の額へ、夜通し布を置いた手。


 どちらも同じだった。


「村の生存者には手を出さないでください」


「初めから、そのつもりだ」


「小夜にも」


「千代と会わせる。二人とも私が守る」


「言葉だけでは、信じられません」


「なら見ろ」


 義景は野営地へ向かった。


 真白も後を追う。


 焼けた村の生存者は、白い陣幕の内側に集められていた。千吉は火傷した脚を引きずりながら、年下の子へ粥を運んでいる。源兵衛の妻は、亡き夫の形見である鎌を抱いて座っていた。


 義景は一人ずつ名を呼んだ。


「千吉の薬は三日ごとに替える。おつねの家族には西の空き家を。源兵衛の田は、戻れる日まで近隣の者に耕させる」


 兵が命令を書き取る。


 ただ生かしておくだけではない。


 冬を越し、村へ戻る先まで用意していた。


「いつ調べたんです」


「お前が看取り帳へ名を書いていた夜だ。死んだ者だけでなく、残った者の名も必要だと思った」


「兄上は、名前まで覚えないと言った」


「覚えれば命令が遅れる。だから紙へ書き、ほかの者にも覚えさせる」


 義景は源兵衛の妻の前へ膝をついた。


「夫君を救えなかった」


「あなた様のせいでは」


「私の軍が近くにいながら、間に合わなかった。必要なものは遠慮なく言ってほしい」


 女は頭を下げた。


 真白は兄の横顔を見た。


 もし村を襲わせたのが義景なら、このやさしさは何なのか。


 罪を隠すための芝居には見えない。


 死者を数にする男が、生き残った者の明日をここまで細かく考える理由も分からない。


 愛情と加害が、一つの手の中にある。


 それが何より恐ろしかった。


「瑠璃さんは」


 義景の指がわずかに止まった。


「敵方の姫だ」


「答えになっていません」


「お前を壇ノ浦へ連れていく者を、守るとは言えない」


「僕が彼女を守ります」


 義景の目に、怒りではなく痛みが浮かんだ。


「お前は、そう言うと思った」


 真白は薬湯を受け取った。


 飲んだのは兄を信じたからではない。


 疑うためにも、立っていなくてはならないからだ。


 薬はひどく苦かった。


「栗餅もある」


「今はいりません」


「そうか」


 義景は少し寂しそうに笑った。


 その顔を見て胸が痛む自分を、真白は嫌いになりそうだった。


 ◇


 結局、真白はその日の夕方から熱を出した。


 煙と疲れと、維紅に打たれた傷。薬湯だけで抑えられるはずがなかった。


 目を開けるたび、義景がいた。


 額の布を替え、傷へ薬を塗り、粥を少しずつ食べさせる。兵が呼びに来ても、急ぎでなければ弟のそばを離れなかった。


「兄上は、戦を終わらせると言いました」


 夜半、真白は尋ねた。


「ああ」


「何人死ねば、終わりますか」


「数で答えれば、お前は私を嫌うだろう」


「答えなくても、嫌いになるかもしれません」


「それでもよい」


 義景は粥の椀を置いた。


「お前が生きて、誰も斬らずに済むなら」


「僕以外は?」


「真白」


「僕以外の人が斬るのは、構わないんですか」


 義景は答えなかった。


 沈黙が答えだった。


 熱が上がる。


 真白の視界が暗くなり、燃える舟が見えた。


 その前に、もっと古い夜が混じった。


 都の屋敷。母がまだ生きていたころ。


 まだ少年だった義景が、幼い真白の手を握っている。


 九条家へ養子に入る前夜だった。


「なぜ行くの」


 幼い真白が尋ねる。


「強くなるためだ」


「玄斎先生より?」


「剣ではない。母上とお前を、命令一つで守れるくらいに」


「帰ってくる?」


「迎えに来る」


 義景はそう約束した。


 長い歳月がかかった。


 迎えに来た夜、村は燃えていた。


 真白は夢の中で兄の手を握り返そうとする。


 その手が墨に変わり、地図へ囮の字を書く。


 振り払いたいのに、幼い自分が離さない。


「兄上」


 寝言が漏れた。


「ここにいる」


 現実の義景が、同じ手を握った。


 指先に剣だこのない、書を扱う人の手だった。


 それでも真白より強く、熱の震えを包み込む。


 黒い海。沈む赤い旗。濡れた瑠璃。


 右手には刀。


 左手は――。


「開いたままだ」


 義景の声がした。


 真白は目を開けた。


「何が」


「夢の中で、お前の左手だけは開いている」


 熱が一瞬で引いたように感じた。


「どうして知っているんです」


「昔から、お前は悪夢を見ると左手を伸ばす」


「違います。壇ノ浦の夢です」


 義景は黙った。


「僕は、左手のことを話していない」


「寝言で言った」


「いつ」


「今夜だ」


「僕は今、初めて夢を見ました」


 義景の指が、濡れた布の上で止まった。


 ほんの一瞬。


 けれど真白は見逃さなかった。


「鈴守の記録を、兄上も読んだんですね」


「院の記録を調べたと言っただろう」


「瑠璃さんが盗んだ原本の、墨で消された部分まで?」


「話は、熱が下がってからだ」


 義景は布を真白の額へ置いた。


 冷たく、やさしい手だった。


 真白は払いのけられなかった。


 ◇


 三日後。


 熱が下がると、玄斎は真白を寺の裏の稽古場へ連れ出した。


 都から離れた山には、季節外れの白い花が咲いている。風が吹くたび、花びらが雪のように舞った。


「病み上がりに稽古ですか」


「死ぬ者は、こちらの具合を待ってくれん」


 玄斎の息は黒いままだった。


 まだ縁に白はない。


「先生は、自分の死を知っているんですか」


「お前の顔を見れば分かる」


「なら逃げてください」


「どこへ」


「僕から離れた場所へ」


「それで死が消えると?」


「試す価値はあります」


「お前を一人にする価値はない」


 玄斎は木刀を構えた。


「抜け」


「人は斬れません」


「鞘のままでよい。今日は目の稽古じゃ」


 打ち込みが来る。


 真白は玄斎の息を見る。


 黒い。


 方向も速度も読めない。


 肩を打たれた。


「息を見るな。わしを見ろ」


 二撃目。


 肘の角度。足の向き。視線。


 鞘で受ける。


「三息は、死の答えではない。三つの間に、お前が何を見るかを決める時間じゃ」


 三撃目が足元へ来る。


 真白は跳ばず、一歩前へ出た。


 玄斎の懐へ入り、鞘を胸へ当てる。


「そうじゃ」


 玄斎が笑った。


「斬るための目から、選ぶための目へ変えろ」


「先生。僕はあなたを選びます」


「疑う相手に愛されていることが、一番厄介じゃ」


「兄上の話ではありません」


「同じじゃよ。お前はわしを愛しておる。だから、わしが選んだ死を奪おうとする」


「死を選ばないでください」


「選ぶのは、生き方じゃ。死は後からついてくる」


「先生は、どんな生き方を選んだんです」


「剣で人を守れると信じ、守れなかった者の名から逃げる生き方じゃ」


「僕に帳面を書けと言ったのに」


「自分にできなかったことほど、弟子へ教えたくなる」


 玄斎は懐から、古い木札を出した。


 表には、読めないほど薄くなった名がいくつも刻まれている。


「わしの看取り帳じゃ。紙へ書く勇気がなく、酒を飲んでは一つ刻んだ」


「先生も覚えていたんですね」


「忘れられるものか」


 玄斎は木札を真白へ渡した。


「お前の帳面の隣へ置いてくれ」


「自分で置いてください」


「そうできればよいな」


 冗談のように笑ったが、黒い息は笑わなかった。


 黒い息が、玄斎の口からほどけた。


 その縁に、白い光が走る。


 真白の心臓が止まりかけた。


「先生!」


 玄斎の背後。


 白い花びらの間から、綾でできた刃が現れた。


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