第12話 千綾の雪
一呼吸目、玄斎が真白を突き飛ばした。
綾の刃が、二人の間を走る。
玄斎の背を浅く裂き、白い花びらへ血が散った。
「先生!」
「立て!」
二呼吸目。
空を覆った白い綾が、雪のように降り始める。
一本一本が細い刃だった。
玄斎は木刀を振る。
最初の十本を払い、次の二十本を逸らす。だが千の綾は止まらない。肩が裂け、頬が切れ、白い花びらが次々と赤く染まった。
三呼吸目。
黒い息の縁が、完全に白くほどける。
死の筋は玄斎の背後ではなく、真白へ向かっていた。
「伏せろ!」
玄斎が真白をかばう。
綾で編まれた大槍が、老人の脇腹を貫いた。
時間が、止まった。
玄斎の口から血が落ちる。
それでも倒れず、木刀で槍の柄を折った。
「三つ、終わったぞ」
「まだです!」
真白は玄斎の体を支えた。
黒い息は消えていない。
白い縁も残っている。
死は、まだ来ている。
「傷を押さえます。弁円さんを呼べば」
「敵を見ろ」
玄斎の視線の先。
稽古場を囲む杉の枝に、結と解が立っていた。
黒髪の結は、両手へ赤い綾を巻いている。
白髪の解は、唇を噛んで真白を見ていた。
「また、あなたたちですか」
「今度は鈴も記録もいらない」
結が言った。
「依頼は、真白を本気で追い詰めること。庇う者が前へ出るまで、手を緩めるな」
「誰から」
「御使」
「姉様」
解の声が揺れた。
「この人たち、前は殺さなくていいって」
「条件が変わった。それだけだ」
「でも」
「社を取り戻す」
結は妹を見ず、指を動かした。
空中の綾が獣になる。
烏、狐、犬。
その数は、先日の比ではない。白い綾が降るたび、新しい式鬼が地へ降り立った。
どれにも息がない。
真白の三息は通じない。
それでも、先日の戦いとは違う。
真白は息を探すのをやめた。
烏の翼が縮めば急降下する。犬の肩が沈めば跳ぶ。狐の尾が右へ流れれば、左へ回り込む。
玄斎が何千回も打ち込んだ型と同じだった。
生き物をまねる以上、式鬼にも動く前の癖がある。
真白は鞘で犬の顎を上げ、その下を抜ける。続く狐の脚を払い、ほどけた綾を足で踏んだ。
「先生、下がってください。僕だけなら避けられます」
「弟子が少し学んだくらいで、師匠を隠居させるな」
「血が止まっていません!」
「口を動かす暇があるなら、右じゃ!」
真白は右を見ず、鞘を突き出す。
烏の嘴がぶつかり、砕けた。
「見なくても、先生の声なら信じられます」
「遅い。十年早く言え」
玄斎は笑った。
その笑みに、真白は一瞬だけ助かる未来を信じた。
ここを切り抜け、傷を縫い、また木刀で叩かれる日が来る。
だが黒い息は、薄くならない。
未来は真白の願いを見ず、玄斎が何を選ぶかだけを見ていた。
「僕を殺せば、社が戻るんですか」
「金があれば建て直せる」
「御使が焼いた社かもしれない」
結の指が一瞬止まる。
「口を閉じろ」
式鬼が一斉に駆けた。
玄斎は真白を押しのけ、前へ出る。
「先生、傷が!」
「今さら一つ増えても変わらん」
木刀が白い狐の額を打つ。
形が崩れ、綾へ戻る。
右から烏。左から犬。玄斎は振り向かずに払い落とした。
体は血を失っているのに、剣だけは若い頃へ戻ったようだった。
「よく見ろ、真白」
「見ています!」
「死の筋ではない。誰が、誰を守ろうとしているかじゃ」
真白は結と解を見る。
結は真白を狙い、解はその姉の背を守っている。
二人の小指を結ぶ赤い綾。
前回、そこを打ったとき、二人が同時に痛がった。
「命まで、つないでいる」
「気づくのが遅い」
結が赤い綾を引いた。
式鬼の群れが一つにまとまる。
巨大な顎となって、玄斎へ噛みついた。
真白は黒鞘で受ける。
膝が地につく。
「僕が相手です。先生から離れて!」
「初めから、そう言っている」
結の指が真白を指した。
綾の顎がほどけ、無数の針になる。
玄斎の黒い息から、白い筋が伸びた。
真白へ降る針の前へ折れている。
玄斎は、またかばう。
分かってしまった。
黒い息に固定された死は、攻撃の形ではない。
玄斎自身の選択だ。
真白を守ると決めたことが、死を逃れられなくしている。
「来ないで!」
「弟子に命令される師匠がおるか!」
玄斎が木刀を投げた。
白い綾の向こうで、解がためらっている。
「姉様。あの老人、もう死ぬよ」
「依頼は真白を追い詰めることだ」
「なら、避けて撃とう」
「避ければ、真白をかばう。何度でも」
「庇うって、御使は最初から……」
解の顔から色が消えた。
「あの老人が庇うと分かって、真白さんだけを狙うように言ったの?」
「わたしたちが手を緩めれば、社は取り戻せない」
結の声にも、もう確信はなかった。
「だからって」
「解。私たちも、生きるためにやっている」
結の声は冷静だった。
けれど小指の赤い綾が震えている。
姉も迷っていた。
迷いながら、それでも放つ。
生きるために誰かを殺す選択を、二人はもう何度もしてきたのだ。
真白は責める言葉を失った。
だからこそ、止めなくてはならない。
回転した木刀が綾の束を割り、雪のような糸が左右へ流れる。
空いた道を、玄斎が走った。
傷を負った老人とは思えない速さだった。
結の眼前へ踏み込み、手刀で綾を操る指を打つ。
解が姉をかばう。
玄斎は刃を持たない手で、二人の小指を結ぶ赤い綾をつかんだ。
「真白! 斬れ!」
「できません!」
「綾をじゃ!」
真白は義景にもらった刀を抜いた。
初めて、すべての刃が鞘から出る。
朝日を受け、白く光った。
赤い綾へ振り下ろす。
結が腕を引いた。
解が姉を押す。
綾の結び目が、白い少女の腕の後ろへ隠れる。
止めれば、玄斎へ綾の槍が届く。
振り切れば、人を斬る。
三息はもう終わっている。
選ぶ時間は、自分で作るしかない。
真白は刃を止めなかった。
解の腕を斬った。
血が、白い綾へ散る。
「ああっ!」
解の叫びと同時に、結も同じ腕を押さえた。
千の式鬼が形を失う。
空から落ちた綾が、稽古場を白く覆った。
本物の雪のように静かだった。
真白の刀から、血が一滴落ちる。
手が震える。
人を斬った。
守るためだと分かっていても、腕に残った感触は消えない。
「解!」
結が妹を抱き留める。
自分の帯を裂き、傷を縛った。
「逃げるよ」
「姉様、あの人」
解は玄斎を見た。
責める目ではなかった。
自分たちが何をしたか、今になって理解した目だった。
「仕事は終わっていない」
「終わりだ」
結は妹を背負い、赤い綾を杉の上へ放った。
二人の姿が白い糸の向こうへ消える。
真白は追わなかった。
刀を捨て、玄斎へ駆け寄る。
「先生」
玄斎は白い綾の上へ仰向けに倒れていた。
脇腹の傷から、もう押さえきれないほど血が出ている。
「今、止めます」
真白は両手を当てた。
温かい血が指の間からあふれる。
「大丈夫です。白い息は、まだ」
「嘘が下手じゃのう」
「助けます」
「鈴を、もう一度鳴らすか」
「鳴ってもいい!」
叫んだ。
「鵺が起きても、僕が止めます。だから」
「わしの息は白ではない」
黒い息の縁が、さらに白く崩れる。
「大きな誓いに結ばれた死は、お前一人の手では曲がらん」
「そんなの、やってみなければ」
「もう、やった」
玄斎の手が、真白の血まみれの手へ重なる。
「お前を守った。わしが選んだ」
「僕は選んでいません」
「三息は救うためではない。誰と生きるか選ぶ目じゃ」
玄斎の声が弱くなる。
「なら、先生と」
「わしと生きた時間は、もうある」
玄斎は笑った。
「十分じゃ」
「十分じゃありません」
「欲張りめ」
真白の目から涙が落ちた。
玄斎の頬へ落ち、血と混じる。
「母上は、何を救ったんです」
今、聞くことではない。
分かっているのに、聞かずにはいられなかった。
この人がいなくなれば、答えも消える。
「お前の母は、お前を――」
言葉は、そこで途切れた。
黒い息が薄くなる。
白い縁から、朝の空気へ溶けていく。
四度目の呼吸は来なかった。
真白は玄斎の胸へ耳を当てた。
何も聞こえない。
「先生」
呼べば、遅いと叱られる気がした。
「次は避けます。息だけじゃなく、肩も足も見ます」
返事はない。
「刀も抜きました。人を、斬りました」
言葉にした途端、震えが戻った。
玄斎なら何と言うだろう。
泣くのは後じゃ。
相手の傷を先に見ろ。
そんな声が聞こえた気がした。
真白は解が倒れていた場所へ目を向けた。
血の跡はある。
量は多くない。結がすぐ縛った。腕は動かなくなっても、命までは失わないはずだ。
安堵した自分を、玄斎はきっと笑う。
人を斬った後でも、相手の命を心配できるなら、まだ戻れると。
◇
真白は玄斎の傷を洗った。
白い綾を一枚裂き、血を拭う。斬られた衣を整え、投げられた木刀を胸の上へ置く。
初めて会った日のことを思い出した。
母を失い、誰の声にも答えなくなった真白へ、玄斎はいきなり木刀を投げてきた。
「受けろ」と言った。
受けられず、額にたんこぶができた。
翌日も、その翌日も同じだった。
十日目に初めて受けると、玄斎は褒めずに二本目を投げた。
やさしい言葉は少なかった。
その代わり、朝になれば必ずいた。
熱を出せば薬草を煮て、悪夢を見れば部屋の外で酒を飲んでいた。
家族という言葉を使わず、家族でいてくれた。
日が傾くまで、真白は動けなかった。
白い綾の上に座り、玄斎の木刀を膝へ置いていた。
看取り帳を開く。
源兵衛たちの名の下へ、墨を置く。
鬼庭玄斎。
字が滲んだ。
書き直そうとして、やめた。
泣いて書いたことも、忘れたくなかった。
帳面の横へ、玄斎から預かった木札を置く。
薄い名が、夕日に浮かんだ。
「先生が覚えていた人も、僕が覚えます」
返事の代わりに、白い花が一枚、木札へ落ちた。
背後で、衣が擦れる音がした。
「ごめん、にいやん」
小夜の声だった。
振り返る。
少女の手に、烏羽印の短刀があった。




