第13話 死に場所を選ぶ
小夜の短刀は真白ではなく、背後の式神の目へ刺さった。
赤い綾で編まれた大烏が、嘴を開いたまま崩れる。
糸へ戻った翼が、玄斎の亡骸の上へ落ちた。
「走って、にいやん!」
「小夜、その刀は」
「今は聞くな!」
小夜が短刀を引き抜く。
柄に、烏羽の印が刻まれていた。
真白は立てなかった。
玄斎の名を書いたばかりの看取り帳。血の乾いていない刀。膝の上の木刀。
何一つ置いていけない気がした。
「玄斎さんを連れて逃げるのは無理や!」
「置いていけません」
「死んだ人より、生きとるにいやんを選べって言うたやろ!」
玄斎の声と重なった。
誰と生きるか選ぶ目。
真白は看取り帳と木刀を抱え、立ち上がった。
白い綾の山から、二体目の式神が起きる。
小夜は懐から油の小瓶を出し、残った篝火へ投げた。
炎が走る。
綾の獣が火を避けた隙に、二人は稽古場を出た。
「誰に、その短刀をもらったんです」
「拾った」
「小夜」
「今は走れ!」
山道を下る。
真白の胸で鳴らさぬ鈴が揺れる。音はない。それでも、玄斎を置いてくる一歩ごとに責められているようだった。
背後で、何かが木々を渡る。
式神ではない。
小さな黒い烏だった。
生きた鳥にも見えるが、羽ばたく音がない。
小夜の肩へ降り、耳元で人の声を出した。
「千代」
それだけだった。
小夜の顔が変わる。
「姉ちゃんに何をした!」
黒い烏は飛び立ち、山の北へ消えた。
小夜が追おうとする。
真白は手首をつかんだ。
「罠です」
「離して!」
「一人で行けば、二人とも捕まる」
「にいやんには関係ない!」
「小夜の姉なら、僕にも関係があります」
「知らんくせに!」
小夜は真白の手へ噛みついた。
痛みに指がゆるむ。
その拍子に、少女の懐から小さな紙片が落ちた。
烏羽で縁取られた紙に、墨で時刻と道順が並んでいる。
――稽古場。辰の終わり。
今日、真白と玄斎がいた場所と時刻だった。
真白が拾おうとすると、小夜は先に紙片を踏みつけた。
「違う。うちは、殺せなんて言うてへん」
「では、誰に居場所を」
「聞かんといて」
声は、短刀より震えていた。
玄斎を斬った姉妹が、なぜあの時刻に稽古場を襲えたのか。
答えは足元にある。
けれど、小夜の目は裏切った者の目だけではなかった。何かを奪われ、奪い返す道を一つしか残されなかった者の目だった。
真白は問いを重ねられなかった。
「ごめん」
すれ違いざま、小夜の手が真白の帯の内側へ触れた。紙が擦れる小さな音に気づいたときには、看取り帳は少女の懐へ消えていた。
真白が取り戻すより早く、小夜は木々の間へ飛び込んだ。
「小夜!」
追いかけようとした真白の前へ、赤い綾が降る。
道を縫うように張られ、壁になった。
結の声が山へ響く。
「次は、邪魔をさせない」
姿は見えない。
真白は刀へ手をかけた。
刃に残った解の血を思い出し、指が固まる。
今度は抜ける。
抜けるからこそ、怖かった。
「真白!」
下から弁円が駆け上がってきた。
片耳の欠けた大男は、背の鉄杖と大盾を同時に構えている。その後ろには、戦火を逃れてきた子どもたちが五人いた。
弁円の左袖は裂け、腕に浅い傷が幾つも走っている。子どもを庇いながら、綾の獣を抜けてきたのだろう。
裸足の子を背負い、泣く子には鉄杖を握らせて歩かせたらしい。武器を持てば少し強くなった気がするから、と年長の少年が教えた。
「玄斎殿は」
真白の顔を見て、続きの問いを飲み込んだ。
「……そうか」
「先生を、連れて帰ってください」
「お前は」
「小夜を追います」
「その前に、こいつらを谷の向こうへ渡す」
弁円は子どもたちを振り返った。
都から逃げる途中で親とはぐれたらしい。年長でも十ほど。いちばん小さな子は、裸足だった。
「橋まで行けば、甚助たちがいる。お前は先頭を頼む」
真白はうなずいた。
「弁円さんは、いつも先に逃げ道を決めているんですね」
「昔は逆だった」
弁円は子どもたちに聞こえない声で言った。
「命じられた敵だけを追い、助けを呼ぶ村を背にした。戻った時には、寺も家も灰だった」
欠けた耳へ手を触れる。
「あれから、戦う場所より先に、逃がす道を見ることにした」
「だから先生は、弁円さんに僕を頼んだんでしょうか」
「あの爺は、頼むという言葉を知らん。勝手に押しつけただけだ」
乱暴な答えの奥に、玄斎を悼む静けさがあった。
真白は振り返らなかった。
今戻れば、亡骸の隣から動けなくなる。
生きている五人を、まず向こう岸へ運ぶ。それが、木札を持たせた師への返事だった。
◇
橋は細い吊り橋だった。
下には雪解け水ではなく、夏の雨で増えた濁流が走っている。
子どもを一人ずつ渡らせる。
三人目が橋の中央へ来たとき、山肌から白い綾が噴き出した。
千の糸が空を覆う。
「伏せろ!」
弁円が大盾を立てる。
綾の雨が盾へ当たり、金属のような音を立てた。
年長の少年が、裸足の子を抱いて橋板へ伏せる。
ほかの子も互いの衣をつかんだ。弁円が教えた通り、泣いても手だけは離していない。
真白は橋の揺れに合わせて進み、一人の襟をつかんでは向こう岸へ押し出した。
式神には息がない。
三息先を探しても、綾の雨の向きは見えない。
だから目を見る。
空を飛ぶ烏ではなく、遠い尾根に立つ結と解の目を。
結が吊り縄を見る。次に烏が縄を狙う。
解が子どもへ目を落とす。地を這う綾が橋板の隙間から伸びる。
真白は先に鞘を差し込み、綾を絡め取った。
玄斎の最後の教えが、まだ耳に残っている。
見るのは死ではない。誰と生きるかを選ぶための目だ。
「結と解です!」
「懲りん姉妹だ!」
真白は子どもを抱え、橋の先へ走る。
綾の烏が吊り縄へ嘴を立てた。
「縄を切らせないで!」
弁円が鉄杖を投げる。
烏が砕ける。
しかし別の綾が、大盾の下から弁円の脚へ巻きついた。
白い息が出る。
冬の朝のような白が、弁円の口から伸びた。
一息目。
綾が大男の脚を引く。
弁円の背が盾から離れる。
二息目。
盾に守られていた橋の床へ、刃の雨が落ちる。
いちばん小さな子が、向こう岸の手前で座り込んだ。
三息目に、弁円は谷へ落ちる。
同時に、子どもへ綾が届く。
真白は弁円へ手を伸ばした。
大きな掌が、その手を叩き落とす。
「子どもを先に助けろ!」
「でも、弁円さんの息が」
「俺の死に場所まで、お前が決めるな!」
弁円は脚へ絡んだ綾を両手でつかんだ。
自分から橋の外へ身を投げる。
重い体が綾を引き、空の式鬼が一斉に谷へ傾いた。
三息目。
真白は子どもへ走った。
降る刃の下へ滑り込み、小さな体を抱えて転がる。
白い息はない。
まだ死は、その子を選んでいなかった。
真白が先に選んだ。
背後で吊り縄が切れる。
橋が大きく揺れた。
「弁円さん!」
谷をのぞく。
弁円は落ちていなかった。
橋の下の横木へ片腕をかけ、もう一方の手で綾を握っている。脚は血に濡れ、肩には刃が刺さっていた。
「早く、引け!」
向こう岸にいた甚助たちが縄を投げた。
真白は飛びつこうとした。
「来るな!」
弁円が怒鳴る。
「お前が触れば、鈴が鳴るかもしれん!」
「でも」
「俺はまだ死んどらん。自分で上がる!」
甚助が縄を弁円の腕へかける。
兵たちが引く。
真白は手を伸ばさず、見ているしかなかった。
助けたい。
触れれば早い。
それでも、弁円が選んだ生き方を奪わないため、拳を握った。
大男の体が、少しずつ岸へ上がる。
白い息が薄くなった。
やがて、消えた。
真白は膝から力が抜けそうになるのを堪えた。
死が消えたのは、奇跡ではない。
弁円が綾へ飛びつく道を選び、甚助が縄を投げ、兵たちが同時に引いた。そのどれか一つでも欠ければ、白い息は消えなかった。
自分が触れなかったから助かったのでもない。
一人で救わなかったから、生き残れたのだ。
鈴は鳴らない。
弁円は土の上へ転がり、荒い息を吐いた。
「ほら見ろ。生きとる」
「無茶です」
「お前に言われたくない」
真白は泣きそうになりながら笑った。
「傷を見せてください」
「それは許す。救われる側にも、選ぶ権利があるからな」
止血をしながら、真白は初めて理解した。
救うとは、相手の命を自分のものにすることではない。
差し出す手を、つかむかどうかまで相手から奪ってはいけない。
弁円の肩から刃を抜き、焼いた布を傷へ押し当てる。
大男は歯を食いしばったが、一度も手を払わなかった。
「これは、僕が決めてもいいんですか」
「手当てを頼んだのは俺だ。だからいい」
「難しいですね」
「簡単なら、玄斎殿は山に籠もっとらん」
その名を聞いた途端、真白の指が止まった。
弁円は何も慰めず、傷の上から真白の手を押さえた。
「泣くのは後でいい。忘れるのは、いつまでも後にしろ」
真白はうなずき、布を強く結んだ。
「俺はしばらく動けん」
「寺へ戻ってください」
「小夜を追うなら、甚助を連れていけ。だが今は」
弁円が空を見上げる。
千の綾が、山の頂へ集まっていた。
赤い一本を芯にして、白い糸が渦を巻く。
結と解が尾根に立っている。
解の斬られた腕には白布が巻かれ、結の同じ腕にも血が滲んでいた。
二人は向かい合い、小指の赤い綾を互いの胸へ結び直す。
「姉様。これなら、一人だけ残らないね」
「ああ。命を一つにする」
山が鳴った。
地中を走る根と岩が、綾に引かれて持ち上がる。
巨大な頭が雲の下へ現れた。
龍だった。
結と解の声が、同時に落ちてくる。
「次は二人で死ぬ」




