第14話 龍を斬らず
山肌そのものが、龍の背として起き上がった。
杉の木々が鱗のように逆立つ。
岩が目となり、谷へ向かって開いた口から白い綾が吐き出された。
風ではない。
龍がひと息吐くだけで、尾根の石が砕け、吊り橋の残骸が宙へ舞った。
「全員、伏せろ!」
甚助が子どもたちを岩陰へ押し込む。
真白は負傷した弁円の前へ立ち、黒鞘で綾を払った。
一筋触れただけで、鞘の表面が裂ける。
「刀を抜け!」
弁円が叫ぶ。
真白の手が柄へ触れた。
刃には、まだ解の血が残っている。
ためらった瞬間、龍の尾が山道を薙いだ。
真白の体が浮く。
甚助が腰へ飛びつき、二人で斜面へ転がった。
「今度は俺が引く番だ!」
「甚助さん」
「子どもたちは任せろ。お前は、あれを何とかしろ!」
無茶な頼みだった。
山ほどある龍を、十六の少年一人でどうにかできるはずがない。
尾根の上で、結と解が手をつないでいる。
小指の赤い綾は、二人の胸へ深く食い込んでいた。
口から、白い息が出ている。
二人分の白が、一本の筋となって赤い綾へ集まり、その先で龍の心臓へつながっていた。
龍の右目が瞬くと、結の右目も閉じる。
前脚が地を掻けば、解の指が土をつかむ。
山を動かしているのは巨大な術ではない。二人の小さな体だ。
龍を斬れば、反った刃の痛みが姉妹へ返る。
首を落とせば、そのまま二人の命が落ちる。
大きく見えるものへ刃を向けるほど、本当に斬ってはいけないものを見失う。
「二人とも、綾を解いて!」
真白は叫んだ。
「もう遅い」
結が答える。
「龍脈へ命を渡した。龍が消えれば、私たちも死ぬ」
「なんで、そこまで」
解の顔は青白い。
それでも笑っていた。
「一人だけ残るより、いいから」
「よくありません!」
「あなたには分からないよ」
「分かりません。でも、死んでから社を建てても帰れない!」
龍が首をもたげた。
白い息の筋が短くなる。
人の呼吸と同じ速さではない。白い筋は龍の巨大な脈動に合わせ、三つの結び目を一つずつ飲み込んでいく。
一息目が始まる。
真白は斜面を駆け上がった。
龍の前脚が落ちる。
地面が割れ、土と石が噴き上がる。真白は横へ跳び、露出した根をつかむ。
根も綾でできていた。
指へ食い込み、血が滲む。
「真白!」
下で甚助が叫ぶ。
源氏の兵が山道へ並んでいた。
いつの間にか、義景が来ている。
烏羽の扇を開き、龍と姉妹を見上げていた。
「火矢を用意しろ」
兵へ命じる。
「兄上、待ってください!」
「あれは龍脈へつながっている。山ごと焼いて術者を断つ」
「二人が死にます」
「放置すれば、麓の村まで呑まれる」
義景の後ろには、油を背負った兵がいる。
龍の視線を引く囮だ。
「兵も巻き込むつもりですか」
「龍を姉妹から離すためだ」
「逃げられません!」
「全員は救えない」
火牛の夜と同じ言葉だった。
義景が扇を上げる。
油を背負った兵が山へ走り出した。
先頭の兵はまだ若かった。
油樽の紐を握る手が震え、唇だけが何度も故郷の名を形作っている。
命令だから走る。止まれば、隣の兵まで処罰される。
本人が選んだ死には見えなかった。
龍の頭が向く。
口の奥で綾の光が膨らんだ。
「やめろ!」
甚助が兵の一人へ体当たりした。
油樽が地へ落ちる。
「命令違反だぞ」
義景の護衛が甚助を押さえた。
「俺は一度、真白に拾われた命だ!」
甚助が叫ぶ。
「だから分かる。囮にされるために生き残ったんじゃない!」
「兵は命を差し出すと誓った」
義景の声は静かだった。
「命じられた場所で死ぬことまで、誓った覚えはない!」
甚助は護衛に腕をねじ上げられても、油樽を足で谷側へ蹴った。
「俺には帰ったら渡す文がある。助けられた日に、死んだことにされてた家族へ書いた文だ。まだ返事も聞いてない!」
若い兵が立ち止まる。
その一歩が、後ろの列も止めた。
龍を引きつけるはずの囮が散らず、白い光はまだ口の内へ留まっている。
甚助が稼いだのは、ほんの一呼吸。
真白には、それで足りた。
義景の目が細くなる。
真白は兄を見なかった。
龍でもない。
見るべきものを選ぶ。
結と解。
白い息。
二人の命を一つにしている、指ほどの赤い綾。
二息目。
龍が白い光を吐いた。
真白は刀を抜いた。
今度は、刃を恐れて止まらない。
綾の奔流を斜めに斬る。
すべては断てない。だが一瞬だけ、流れが左右へ分かれた。
その隙を走る。
龍の背へ跳び乗った。
木々と岩の間を縫い、尾根へ向かう。
足元は動き続ける。右へ傾き、次は谷へ沈む。
杉の枝が横から襲う。
真白は幹へ刀を立てず、身を沈めてくぐった。
岩の顎が閉じる。
刃を差し込み、噛み合う一瞬だけを止めて抜ける。
斬れるものを斬らないために、刃を使う。
玄斎なら「やっと木刀の振り方を覚えたか」と笑うだろう。
胸の痛みを、足へ変えた。
三息では龍の動きは読めない。
息がないからだ。
代わりに、結と解の視線を見る。
姉が右を見れば、龍の爪が右へ来る。
妹が真白を追えば、尾が背後から上がる。
二人は式神の目だった。
真白は右へ行くふりをし、左へ跳んだ。
巨大な爪が空を切る。
尾根まで、あと十歩。
結が赤い綾を強く引く。
「来るな!」
「嫌です!」
「私は、お前の師を殺した!」
「知っています!」
「妹を斬った!」
「それも忘れません!」
「なら、見捨てろ!」
「許せないことと、死んでいいことは別です!」
解の瞳が揺れた。
「姉様、もう」
「黙れ!」
三息目。
二人の白い息が、赤い綾へ吸い込まれる。
龍の心臓が大きく脈打った。
真白は跳んだ。
結でも、解でもない。
山を覆う龍でもない。
二人の小指の間にある、指ほどの結び目へ刃を振る。
赤い綾が切れた。
音は、しなかった。
巨大な龍の体が動きを止める。
岩の目から光が消えた。
杉の鱗が山へ戻り、白い綾が空から崩れ落ちる。
結と解の体が左右へ倒れた。
真白は二人の襟をつかみ、尾根へ引き戻す。
白い息が消えた。
二人とも、生きている。
その瞬間。
真白の懐で、鳴らさぬ鈴が鳴った。
ちりん。
今度は、はっきり聞こえた。
鈴の表面へ、二本目の亀裂が走る。
冷たい何かが真白の左腕を抜け、遠い祠へ飛んでいった。
山のどこかで、一匹の鈴虫が沈黙する。
鈴の亀裂へ、黒い光が一瞬だけ溜まった。
磨かれた金の面が水鏡のように揺れ、遠い祠を映す。
四本の杭のうち、二本目から縄が落ちた。
闇の中で長い影が身じろぎする。
猿の面の隣に、濡れた鱗のような光が浮かび、すぐに消えた。
真白が瞬くと、手の中にはひび割れた鈴だけが残っていた。
「二つ目……」
助けた。
同時に、封印を一つ外した。
喜びと恐怖が、胸の中で同じ形をしていた。
斜面の下を見る。
義景が、真白を見上げている。
龍を失った男の顔ではない。
計画が成功した者のように、静かに笑っていた。
兵を焼く策を止められた怒りも、敵を救われた焦りもない。
その笑みが向いているのは、倒れた姉妹ではなく真白の胸元だった。
鈴が鳴ることを、最初から待っていた。
そう考えた瞬間、龍の爪より冷たいものが背を走った。
「兄上……」
声は届かない。
義景は扇を閉じ、兵へ撤収を命じた。
甚助だけが護衛を振り切り、尾根へ上がってくる。
「無事か!」
「二人をお願いします」
「お前は」
「鈴を確かめます」
真白が取り出すと、四つの印のうち二つが空になっていた。
残り、二つ。
◇
日が落ちるころ、結と解は目を覚ました。
解の斬られた腕は、真白が縫った。結の同じ腕にあった痛みも、赤い綾が切れた後は薄れている。
「命の結び目だけを斬った」
結が呟く。
「優しい剣は、遅れて誰かを殺すと言ったでしょう」
真白は答えた。
「遅れた分、ほかの道を探しました」
「私たちは、お前の師を殺した」
「はい」
「なぜ助けた」
「死んでいい理由にはならないからです」
結は目を伏せた。
「借りは龍で返す」
「次も龍は困ります」
「敵へ向けるという意味だ」
解が弱く笑う。
「次は敵じゃないといいね」
「僕も、そう思います」
二人は赤い綾の切れ端を半分ずつ持ち、夜の山へ去った。
去り際、結が足を止めた。
「烏羽の男に気をつけろ。私たちへ、お前が稽古場へ来る時刻を渡した者だ」
「顔を見たんですか」
「面をしていた。だが命令書の筆は、さっき山の下にいた将のものと似ていた」
解が姉の袖を引く。
「姉様。それ以上は、まだ証がない」
「だから借りの一部として教えた。信じるかは、お前が選べ」
二人の影は綾の霧へ溶けた。
真白は追わなかった。
弁円は麓の寺へ運ばれ、命に別状はないという。甚助は子どもたちを避難先へ送り届けた。
勝てたはずだった。
それなのに胸騒ぎが消えない。
「小夜を見ませんでしたか」
甚助が首を振る。
「橋の前から見ていない」
小夜の寝床へ行く。
衣も、鈴の欠片もなくなっていた。
枕の上に、一枚の紙がある。
――千代を返してもらう。
短い一文。
真の字はない。
それでも、返の最後が右へ小さく跳ねている。
義景の筆跡だった。




