第15話 小夜の値段
「これが、鈴より効く人質です」
小夜は真白の看取り帳を差し出した。
真白は崩れた石垣の陰で、息を止めた。
山道に残された小さな足跡を追い、都外れの関所跡まで来た。屋根は半分落ち、門柱には黒い烏羽が三本刺さっている。
中には、小夜と覆面の男が四人。
奥の柱へ、一人の娘が縛られていた。
小夜より長い髪。よく似た目。手首には、片方を失った紅の組紐がある。
千代だ。
「なぜ、この帳面が人質になる」
覆面の男が問う。
「にいやんは、死んだ人を数にせんために名前を書いとる。これを燃やすって言えば、絶対に来る」
「鈴はどこだ」
「にいやんが持っとる。胸の内側。寝るときも外さん」
真白の指が石垣へ食い込んだ。
知っているのは小夜だけではない。
それでも、その口から聞くと胸が裂けた。
「ほかに何を伝えた」
「居場所。次に行く道。瑠璃さんと会った夜。鈴虫が一匹、鳴かんくなったこと」
「よく働いた」
「約束や。姉ちゃんを返して」
男は看取り帳をめくった。
玄斎の名で指を止める。
「新しい名が増えたな」
「姉ちゃんを!」
小夜が男の袖をつかむ。
振り払われ、地へ倒れた。
「条件が変わった。鈴も持ってこい」
「話が違う!」
「御使の命は、昨日と今日で変わる」
「ずっと言うとおりにした! 村から出てから、にいやんが誰と話したか、どこへ行ったか、全部!」
「だから姉は生きている」
千代が顔を上げた。
「小夜、もういい」
「よくない!」
「私のために、その人を売らないで」
「売ったんやない。返してもらうだけや!」
「何を返すの」
千代の声は静かだった。
「真白さんの大事なものを差し出して、私を返してもらったら、同じでしょう」
「姉ちゃんまで、そんなこと言うな」
小夜の顔が歪む。
真白は飛び出しかけた。
だが関所の梁に、細い黒い糸が見える。
息のない式神が、何十体も屋根裏で待っていた。
今、動けば千代の首へ刃が落ちる。
白い息は、まだ出ていない。
助ける時を間違えれば、死を呼ぶ。
真白は刀の柄を握り、待った。
「では、私ならどう?」
関所の反対側から、女の声がした。
旅装の頭巾を外し、瑠璃が姿を現す。
「瑠璃さん!」
真白と小夜の声が重なった。
覆面の男たちが一斉に刀へ手をかける。
「平家の姫が、なぜここに」
「この子から文が届いた。姉を返すため、鈴守の秘密を売りたいと」
瑠璃は小夜を見た。
責める目ではない。
自分も同じ場所へ立つと告げる目だった。
「その娘を放しなさい。代わりに私が行く」
「鈴を持っていない姫に、何の値がある」
「鈴の使い方を知っている。封印記録も、夢の最後も」
「夢の最後は墨で消されている」
瑠璃の瞳が鋭くなる。
「なぜ、それを知っているの」
男は答えなかった。
義景へ続く答えを、沈黙で隠した。
「それに、私は平家の姫。生かしておけば、いくらでも使い道があるでしょう」
「自分を売るのか」
「この子と同じよ。家族を取り戻したいだけ」
瑠璃の黒い息が関所の暗がりへ流れる。
真白は動けなかった。
彼女は壇ノ浦の死へ、自分から近づこうとしている。
止めなくてはならない。
同時に、瑠璃が自分で選んだ交渉を壊せば、千代が死ぬ。
救う側の傲慢さを、弁円に教えられたばかりだった。
「先に娘を放せ」
瑠璃が命じる。
覆面の男が千代の縄を切った。
「こちらへ来い」
千代が歩き出す。
瑠璃とすれ違う瞬間、手の中へ何かを押し込んだ。
小さな髪飾りだった。
「門を出たら割って」
瑠璃が囁く。
千代はうなずき、走った。
門まで、あと五歩。
瑠璃が男の前へ立つ。
四歩。
男が瑠璃の両腕をつかむ。
三歩。
千代が髪飾りを地へ投げた。
白い煙が弾ける。
二歩。
「今、走って!」
瑠璃が小夜を突き飛ばした。
真白も石垣から飛び出す。
一歩。
千代の目の前へ、黒い網が落ちた。
息のない烏が何十羽もほどけ、一枚の網になった。
千代の体を包み、地へ引き倒す。
「約束が違う!」
瑠璃が男の手へ噛みついた。
振りほどかれ、柱へ叩きつけられる。
真白は刀を抜いた。
最初の男の刃を受け、手首を返して刀を落とす。
二人目の足を鞘で払う。
三人目は瑠璃の喉へ短刀を当てた。
「そこまでだ」
真白の動きが止まる。
「鈴を渡せ」
「先に二人を放してください」
「交渉できる立場か」
瑠璃の黒い息に、白い縁はない。
今すぐ殺すつもりではない。
千代の息も白くない。
真白は刃を下ろさなかった。
「殺せば、鈴の使い方は分からないままです」
「御使は知っている」
男が口を滑らせた。
瑠璃と真白の目が合う。
義景は、鈴の使い方を知っている。
「真白、鈴を渡さないで」
瑠璃が言った。
「私たちを追って」
男が短刀の柄で瑠璃の首を打つ。
体から力が抜けた。
「やめろ!」
真白が踏み込む。
地面の黒い糸が一斉に跳ねた。
足首、手首、刀へ巻きつく。
息のない式神。
三息は見えない。
刃で切っても、次の糸が絡む。
小夜が烏羽の短刀で糸へ飛びついた。
「姉ちゃんを返せ!」
男の一人が小夜を蹴る。
小さな体が石壁へぶつかった。
その間に、瑠璃と千代は黒い網ごと荷車へ載せられる。
「待って!」
真白は綾を斬り、走った。
荷車はすでに門を出ている。
追いつけない速さではない。
だが前へ出れば、黒い烏が戻って足元を邪魔する。
離れすぎれば、荷車は速度を落とす。
まるで、一定の距離を保っている。
「真白!」
瑠璃が荷台から顔を上げた。
「必ず、来て!」
覆面の男が布をかぶせる。
荷車は林の向こうへ消えた。
地面に、看取り帳だけが落ちていた。
◇
小夜は石壁の下でうずくまっていた。
真白は看取り帳を拾い、少女の前へ立つ。
「いつからですか」
自分でも驚くほど、冷たい声だった。
「村を出た日から」
「僕の居場所を、ずっと」
「うん」
「瑠璃さんのことも」
「うん」
「玄斎先生が死んだ場所も?」
小夜の肩が震える。
「そこまでは言ってない。でも、にいやんが稽古場へ行く時刻は伝えた」
真白は目を閉じた。
怒鳴ればいい。
責めればいい。
それなのに、声が出ない。
「井戸へ入れた人は、八咫烏だったんですね」
「生き残らせて、にいやんのそばへ置くためやった」
「最初から」
「うちも、囮やった」
小夜は烏羽の短刀を鞘ごと地へ置いた。
「井戸の底で、面の男に言われた。泣いて助けを待て、鈴守が来たら恩を返すふりをして離れるなって」
「それで、僕のそばに」
「最初は逃げるつもりやった。でも、にいやんは食べ物を半分くれた。怖い夢で起きた夜も、何も聞かんかった」
声が掠れた。
「報せる文には、嘘も混ぜた。瑠璃さんと会う場所を一度ずらした。弁円さんが寺へ戻る道も書かんかった。でも、向こうは何でも知っとった。嘘をつくたび、千代の髪を一房ずつ送ってきた」
小夜は懐から、細い布包みを出した。
中には長さの違う髪が三束、紅い糸で縛られている。
「最後に、稽古場へ行く時刻だけは本当を書けって。書かんかったら、次は指やって」
真白は髪から目を逸らせなかった。
裏切りは一度の決断ではない。
守りたいものを少しずつ削られ、引き返す場所まで失っていく道だった。
小夜が顔を上げる。
涙と土で汚れていた。
「姉ちゃんを預かっとるって言われた。言うこと聞けば会わせるって。にいやんを裏切りたくなかった。でも姉ちゃんも、もう失くしたくなかった」
「だから、両方を売ったんですか」
「そうや」
言い訳をしなかった。
真白は、その方がつらかった。
「僕は今、小夜を許せません」
「うん」
「顔を見ると、先生が死んだ場所を思い出す」
「うん」
「それでも、千代さんと瑠璃さんを助けたい」
小夜が短刀を握り直した。
「道、分かる」
「また罠かもしれない」
「罠や」
「なぜ分かるんです」
「明日の申の刻、北の砦で千代を斬るって言われた。逃げ道も、見張りの交代も、全部教えられた」
「正確すぎる」
砦まで普通に走れば半日。今からなら、夜明け前に着く。
処刑までには余りすぎるほど時間がある。
見張りが薄くなる刻、崩れた北壁、堀の浅い場所。
助けに来る者が欲しがる情報だけが、綺麗に揃っていた。
偶然漏れた処刑ではない。
真白に間に合わせるために作られた処刑だ。
「にいやんを連れてこいってことや」
「御使は誰です」
小夜は唇を噛んだ。
「言ってください」
「御使は、にいやんが一番信じたい人だよ」
答えは、名前より重かった。
真白は小夜へ手を差し出さなかった。
「案内してください」
それだけ言った。
小夜は自分で立ち上がる。
二人は荷車の跡を追った。
轍は深く、枝には黒い布が一定の間隔で残されている。
見失わせる気がない。
刺客は、真白が追いつける速さで進んでいた。
北の砦。申の刻。千代の処刑。
すべてが、次の三息を待っている。
真白は足を止めた。
「どうしたん」
遠ざかる轍と、胸の鈴を見比べる。
ようやく気づいた。
「追っているんじゃない」
鳴らさぬ鈴が、衣の内側で熱を持つ。
「追わせられている」




