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第16話 盤上の救出

瑠璃の牢は開いているのに、千代の首へ刃が落ちるまで三呼吸しかない。


 一呼吸目。


 処刑役の腕が上がる。


 千代の口から、細い白い息が伸びた。


「姉ちゃん!」


 小夜が北の砦の塀から飛び降りる。


 真白はその襟をつかみ、落下を止めた。


「離して!」


「そのまま行けば、間に合いません」


 中庭を挟んだ向こう側に、千代は膝をつかされている。


 首の後ろには、両手で大刀を構えた男。


 手前の牢では、格子戸が開いていた。


 瑠璃は縄も掛けられず、石床へ座っている。


 見張りは一人もいない。


 助けてくれと言っているような、あまりに綺麗な空白だった。


 真白たちは夜明け前に北壁へ着いていた。けれど、早く入ろうとするたび、排水口の黒糸が千代の首へつながった。正面門も、南の堀も同じ。申の刻の番钟が鳴るまで、処刑場へ通じる道は一つも開かなかった。


 間に合ったのではない。


 この刻まで待たされたのだ。


「真白、私のところへ来ないで!」


 瑠璃が立ち上がる。


「この牢は、初めから開いていた。千代を見なさい!」


 二呼吸目。


 大刀が、夕日を反した。


 真白は塀から身を投げた。


 着地と同時に、足元から黒い糸が噴き出す。


 息のない烏の式神。


 待っていた罠だ。


 刀を抜き、糸を斬る。


 一本を断つ間に三本が手首へ絡む。


「にいやん!」


 小夜の短刀が糸を裂いた。


「うちはええ。姉ちゃんを!」


 真白は走る。


 中庭まで、まだ二十歩。


 三息目。


 処刑役の大刀が落ちる。


 間に合わない。


 そう見えるように、距離まで測ってある。


 真白は腰の鞘を投げた。


 黒鞘が石畳を滑り、処刑役の足首へ当たる。


 男の膝が崩れた。


 大刀の軌道が、わずかに外れる。


 千代の肩を掠め、石畳へ火花を散らした。


 白い息は消えない。


 処刑役が柄を返す。


 今度は横薙ぎに、千代の喉を断つ。


「伏せて!」


 瑠璃が牢の水桶を蹴った。


 水が石畳へ広がる。


 処刑役の草履が滑った。


 真白は残りの距離を飛び、千代の体を抱いて刃の下を転がる。


 背で風が鳴った。


 大刀は真白の銀髪を数本だけ奪った。


 千代の白い息が、途切れる。


「姉ちゃん!」


 小夜が二人のもとへ駆け寄る。


 千代の肩から血が流れている。


 だが浅い。


 息をしている。


「小夜……」


「姉ちゃん。姉ちゃん!」


 小夜は姉へしがみついた。


 千代の手が、恐る恐る妹の背へ回る。


「大きくなったね」


「遅い。言うんが、遅いわ」


 泣きながら怒る声を聞いた瞬間、真白の胸で鈴が鳴った。


 ちりん。


 砦の石壁が、その小さな音を幾重にも返す。


 鈴の表面へ、三本目の亀裂が走った。


 四つの印のうち、三つ目が空になる。


「しまった」


 救えた安堵より先に、言葉がこぼれた。


 小夜が顔を上げる。


「なんで。姉ちゃん、生きとるのに」


「だからです」


 真白の掌で、鳴らさぬ鈴が熱を持つ。


 遠い祠が見えた。


 二匹の鈴虫のうち、一匹が羽を閉じる。


 闇の奥で、丸い耳と太い尾を持つ影が立ち上がった。


 猿の面。


 蛇の面。


 その間から、笑っているような狸の面が覗く。


 真白が瞬くと、幻は消えた。


 残った印は、一つだけだった。


「分かっていたのに」


 罠だと見抜いた。


 処刑時刻も、侵入路も、開いた牢も、すべて真白に千代を救わせるための盤面だった。


 夜を徹して辿った道にも、今なら意味が見える。


 荷車の轍は分かれ道のたび、北へ向かう方だけが深く残されていた。


 崩れた北壁には足場になる石が積まれ、見張りの交代を告げる鐘は小夜が聞かされた時刻どおりに鳴った。


 塀を越えるまで、一人の兵とも会わなかった。


 潜り込んだのではない。


 招き入れられたのだ。


 盤の外から敵を出し抜いたつもりで、最初から決められた升目を進んでいた。


 それでも、白い息を見た瞬間、体は動いた。


「それでええ」


 小夜が千代を抱いたまま言う。


「罠やからって、姉ちゃんを死なせるにいやんやったら、うちはもっと嫌いや」


「勝たせた相手が、誰でもですか」


「姉ちゃんが死ぬよりええ」


 迷いのない答えだった。


 千代が妹の肩を押し、顔を正面から見る。


「小夜。私を助けるためにしたことを、なかったことにはしないよ」


 小夜の顔が強張る。


「分かっとる」


「真白さんたちを売ったことも、私のためだったと言えば許されることではない」


「分かっとるって!」


「でも、私が生きたかったことも嘘にしないで」


 千代は妹の頬についた土を拭う。


「私を守るために自分まで悪い人にならないで。これから何を返すか、一緒に考えよう」


 小夜は唇を震わせ、何度もうなずいた。


 真白は目を逸らさなかった。


 救われた者は、救った者の罪を消す道具ではない。


 命が残ったからこそ、謝る時間も、償う時間も残る。


 自分が千代を抱いて刃から外した意味は、それだけでも失われない。


 玄斎も同じことを言うだろうか。


 誰と生きるか選ぶ目だと。


 けれど、選んだ一命の先で、何が目覚める。


「真白、後ろ!」


 瑠璃の声が飛ぶ。


 処刑役が再び大刀を振り上げていた。


 真白は千代を小夜へ押し、刃を受ける。


 重い。


 膝が石へつく。


 男の口元から白い息は出ない。


 生きた人間なのに、何も見えなかった。


 仮面の隙間から覗く目が、濡れた紙のように動かない。


「式神です!」


 瑠璃が開いた牢から走ってくる。


 壁に掛けられていた松明を抜き、処刑役の背へ押し当てた。


 衣が燃える。


 男は叫ばず、真白だけを斬ろうと刃を押し込む。


 小夜が膝裏へ短刀を刺す。


 千代は落ちた黒鞘を拾い、男の手首を打った。


 三人分の力で、大刀が外れる。


 千代は武器を持つ手を震わせながらも、黒鞘を離さなかった。


「牢で毎日、音を数えていました。見張りが鍵を回す音。荷車が来る音。処刑役が刀を引きずる音」


 式神の足元へ黒鞘を差し入れる。


「生きて帰って、小夜に話すために」


 真白が鞘の上から刃を踏みつける。


 瑠璃は燃えた衣を松明でさらに巻き上げた。


 誰か一人に救われるのではない。


 四人がそれぞれ生きる方へ動き、ようやく式神の力を上回った。


 真白は男の胸へ足を入れ、蹴り離した。


 燃えた体が地へ落ちる。


 皮膚が黒い紙へ変わり、無数の烏になって散った。


「瑠璃さん」


 真白はようやく彼女へ手を伸ばした。


 瑠璃はその手をつかまず、先に真白の肩と腹を確かめる。


「斬られていない?」


「はい」


「嘘をつく顔ではないわね」


「瑠璃さんこそ」


「私は、驚くほど丁重に扱われたわ」


 瑠璃は開いた牢を振り返った。


「食事も水もあった。格子の鍵は、私が目を覚ました時から開いていた。逃げれば千代を殺すと書かれた札だけが置いてあった」


「最初から、瑠璃さんは囚人ではなかった」


「餌でもない。見届け役ね」


 真白が誰を選ぶか。


 瑠璃にも、それを見せるために置かれた。


「私を先に助けていたら、千代は死んでいた」


「選べと言われても、選びません」


「ええ。あなたなら、そう言うと思った」


 瑠璃の手が、今度こそ真白の手へ重なる。


 黒い息は、まだ消えていない。


 残る一つの印が、鈴の上で瑠璃の息と同じ色に見えた。


 砦の外で、蹄の音がした。


 多い。


 門から源氏の兵が入ってくる。


 先頭の馬だけが、ゆっくり中庭へ進んだ。


 烏羽を挿した扇。


 黒い髪。


「無事だったか、真白」


 義景は、息を切らしてもいなかった。


「遅くなった。八咫烏の砦がここにあると、今しがた報せを受けた」


「今しがた」


 真白は立ち上がる。


「なのに、門が開くことも、中庭に式神がいることも、千代さんがどの柱に座らされていたかも知っているんですね」


 義景の視線が、千代へ一度だけ動いた。


 左から三本目の柱。


 その位置を確かめるように。


「兵に調べさせた」


「兵は、まだ門を越えたばかりです」


 瑠璃が真白の隣へ立つ。


 小夜は千代を背へ庇い、烏羽の短刀を地へ投げた。


「御使」


 義景を、そう呼んだ。


 兵たちがざわめく。


 義景だけは表情を変えない。


「誰に教えられた」


「あんたが、うちに教えたんや」


「私はお前を救った」


「姉ちゃんを縛って、うちを使うためにな」


 義景は否定しなかった。


 馬から降りる。


 一歩近づくたび、真白の鈴が熱くなった。


 義景の足元へ、太い尾を持つ狸の影が伸びる。


 夕日の向きと合わない。


 真白は刀を構えた。


「助けたのに、あなたに勝たせた」


「命を数で見ないところが、お前の美点だ」


「褒めないでください」


「なぜだ。私は心から誇っている」


 義景の声には、嘘がなかった。


 だからこそ、真白は確信した。


 兄は、自分の善意を知り尽くしている。


 白い息を見れば必ず走ることも。


 誰かを見捨てて封印を守る道を選べないことも。


 愛しているから、正確に使えるのだ。


「村も、先生も、千代さんも。全部、兄上が置いたんですね」


「ここで話すことではない」


「答えてください」


「疲れている。まず傷を見せろ」


 義景の手が伸びる。


 幼い頃、熱を出した真白の額へ触れた手。


 煙を吸った夜、一晩中薬を替えてくれた手。


 真白は避けられなかった。


 義景の指が頬の切り傷をなぞる。


「あと少しだ」


 兄は安堵したように笑った。


 その肩越しに、三つの獣の影が揺れる。


 義景が真白の肩を抱く。


 逃げ道を塞ぐ抱擁だった。


 耳元へ口を寄せる。


「あと一人だ」


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