第17話 紅の託し
維紅は兵を連れず、長刀を地へ突き立てた。
「妹を返せ。さもなくば、妹の前でお前を斬る」
夜明けの峠に、赤い鎧だけが燃えて見えた。
背後には、兵も旗もない。
長刀の石突きが、山道の中央へ深く刺さっている。
一人で道を塞ぐという意思だった。
真白は瑠璃を背へ庇った。
「瑠璃さんは、返す物ではありません」
「貴様に聞いていない」
維紅の目は、真白を越えて妹へ向く。
「瑠璃。こちらへ来い」
命令する声。
だが、ほんの少しだけ震えていた。
北の砦を出てから半日。
義景は四人を止めなかった。
千代の傷へ薬を与え、源氏の陣へ来れば保護すると告げただけだった。
真白たちはその申し出を断り、小夜と千代を麓の尼寺へ預けた。
分かれる前、真白は看取り帳を小夜へ渡した。
「僕たちが戻らなければ、甚助さんへ届けてください」
小夜は受け取ろうとしなかった。
「うちは、それを売ったんやで」
「だから、次は届ける方を選んでください」
千代が妹の手を包み、二人で帳面を持った。
追手はない。
見逃されたのだ。
次の場所へ進ませるために。
その道の途中で、維紅が待っていた。
「兄上」
瑠璃は真白の後ろから出る。
「私は攫われていたの。真白に連れ去られたのではないわ」
「同じことだ。そいつのそばにいれば、お前の死は近づく」
「離れれば、遠ざかるの?」
維紅は答えない。
瑠璃の黒い息が、朝の光へたなびく。
いつもと同じ黒。
だが、真白には昨日までより濃く見えた。
残る封印は一つ。
兄が囁いた「あと一人」と、同じ色だった。
「義景に会ったな」
維紅が真白へ問う。
「はい」
「あの男は、戦を終わらせる者だ」
「人を並べて、死なせてですか」
「戦を終わらせる手は、どれも血に濡れる」
「だから、瑠璃さんまで差し出すんですか」
維紅の手が長刀の柄を握る。
白い息はない。
それでも、殺気だけで山鳥が飛び立った。
「口を慎め」
「慎みません」
真白も刀を抜く。
義景から贈られた刀。
初めは抜くことさえできなかった刃だ。
維紅に初めて敗れた日の記憶が、腕の奥へ戻る。
あの時は、維紅の長刀がどこから来たのかさえ見えなかった。
三息へ頼り、見えた死だけを避けようとして、四息目の柄に倒された。
今も力の差は埋まっていない。
変わったのは、勝つことだけを見なくなった自分の方だった。
勝つより、選ぶ方が難しい。
「僕は瑠璃さんを連れていきません。瑠璃さんが行く道を、一緒に歩きます」
「言葉を飾るな。守れぬ者の優しさは、見捨てるより残酷だ」
「なら、確かめてください」
維紅が長刀を抜いた。
地面の穴から小石が弾ける。
「望みどおりに」
一息目。
真白の視界から維紅が消えた。
右。
読んだ時には、長刀の刃が肩へ来ている。
真白は刀を立てた。
金属音が峠を割る。
両足が土を滑った。
二息目。
維紅は押し切らず、刃を引く。
長い柄の端が、真白の脇腹へ回った。
受ければ、上から刃が来る。
避ければ、足を払われる。
どちらを選んでも、三息目に地へ伏す。
真白は前へ踏み込んだ。
柄の内側へ入り、肩で受ける。
息が止まるほど痛い。
それでも倒れない。
三息目。
維紅の額へ、真白の刃が届く。
刃先が触れる寸前、赤い籠手が刀身を横から打った。
真白の刀が空へ飛ぶ。
長刀の切っ先が、喉へ止まる。
「三息見えて、その程度か」
「四息目も、立っています」
「負け惜しみを」
維紅が刃を引く。
真白は飛んだ刀へ走らず、素手で間合いへ入った。
拳が鎧へ当たる。
維紅の体は揺れもしない。
肘が真白の背へ落ちる。
地面が顔へ近づいた。
手をつき、横へ転がる。
長刀が土を裂いた。
死は見えない。
維紅は真白を殺さないよう、すべての刃を半寸ずつ外している。
その余裕が、力の差より恐ろしかった。
「兄上、やめて!」
「黙って見ていろ」
「私のことなのに?」
瑠璃の声で、維紅の刃が一瞬止まった。
真白はその隙を使わない。
落ちた刀を拾い、構え直す。
「なぜ斬らない」
「今のは、瑠璃さんが止めた一息です」
「戦場で譲るな」
「これは戦ではありません」
「俺に勝てなければ、妹は守れん」
「僕が勝たなければ、瑠璃さんは生きられないんですか」
「そうだ」
「それを決めたのは、誰です」
真白は刀を下げた。
維紅の眉が動く。
「拾え。まだ終わっていない」
「終わりです」
真白は刀を鞘へ納めず、道端へ置いた。
「あなたを倒して瑠璃さんを奪えば、義景と同じになる」
「あの男と同じだと?」
「大事な人のために、本人の声を聞かず、ほかの命を並べるところが」
赤い鎧が軋んだ。
長刀の切っ先が真白の胸へ向く。
「もう一度言ってみろ」
「兄上!」
瑠璃が二人の間へ入った。
切っ先が、瑠璃の喉元で止まる。
維紅の腕なら、止められる距離ではなかった。
妹が動くと知っていたから、最初から止める準備をしていたのだ。
「どけ」
「嫌です」
「そいつはお前を救えん」
「兄上なら救えるの?」
「平家の船へ戻れ。俺のそばにいろ。壇ノ浦へは行かせん」
「一門が西へ落ちるのに、私だけ残れと言うの」
「生きろと言っている」
「籠の中で?」
瑠璃は長刀の切っ先へ指を添え、ゆっくり下ろした。
「兄上は、私が幼い頃から夢を信じてくれた。海が怖い夜も、朝まで隣にいてくれた。だから分かってほしい」
「何をだ」
「私は、守られる場所を選びたいんじゃない。生きた先で何をするかを、自分で選びたい」
維紅の目が揺れる。
「その先に死がある」
「どの道にもあるわ」
「そいつが、お前を斬る」
「夢ではね」
瑠璃は真白を振り返った。
「でも、夢の真白は、斬ったあとに刀を持っていない」
「瑠璃さん?」
「兄上にも話していなかったことがあるの」
瑠璃は自分の左手を開く。
「夢の最後。真白の左手は開いている。私へ向けて、何かを差し出すように」
瑠璃と初めて夜道を歩いた時、黒い息の奥で見えた断片。
海。
自分の刃。
瑠璃の胸を染める赤。
その先だけが、いつも闇に隠れていた。
「記録の墨消しに残っていた輪郭です」
真白が言う。
「斬ることが、最後ではない」
「希望で夢を読み替えるな」
維紅は吐き捨てる。
だが長刀は上がらない。
「なら、私に聞いて」
瑠璃が兄の目を見た。
「平家へ戻るか。真白と行くか。それとも一人で逃げるか。私に聞いて」
維紅の唇が動かない。
命令なら、幾つでも言える。
妹の答えを聞く問いだけが、出てこない。
「兄上」
「……どこへ行く」
ようやく絞り出した声だった。
「義景のところへ」
瑠璃の答えに、真白も驚いた。
「逃げるだけでは、また誰かが盤へ置かれる。本人の口から、何を起こすつもりか聞く」
「殺されるぞ」
「それでも行く」
「真白と?」
「ええ」
「そいつを選ぶのか」
「そいつではないわ」
瑠璃は少し怒った顔をした。
「真白を選ぶの」
黒い息が朝日へ流れる。
真白の胸の奥で、恐怖とは違う痛みが走った。
維紅は目を閉じた。
長い沈黙のあと、道へ刺していた鞘を抜く。
自分の長刀を納めた。
「俺の負けだ」
「兄上は、負けていない」
「妹の言うことを聞けず、敵に教えられた。十分な敗北だ」
維紅は道の端へ退いた。
鎧の肩から、深紅の飾り紐を外す。
幼い瑠璃が海を怖がった夜、兄の袖へ結んだものだった。
「まだ持っていたの」
「捨てれば、お前が泣くだろう」
「もう泣かないわ」
「今にも泣きそうな顔で言うな」
維紅は紐を真白へ渡しかけ、途中で手を止めた。
瑠璃へ直接、差し出す。
「これはお前のものだ。誰かに預けず、自分で持て」
瑠璃は両手で受け取り、手首へ結んだ。
「私を、真白に託さないの?」
「人を荷のように託すなと、今教えられたばかりだ」
維紅は苦い顔で真白を見る。
「だが、こいつが道を誤れば斬る。それは変わらん」
「その前に私が叱るわ」
「なら、任せる」
それは真白へ妹を渡す言葉ではなかった。
妹が自分で選んだ道を、妹自身へ任せる言葉だった。
「行け」
瑠璃の顔が泣きそうに歪む。
それでも兄へ抱きつかない。
自分で選んだ道を、最初の一歩から歩く。
「兄上も一緒に」
「俺には守る兵がいる。家がある」
「家のためなら、死ぬの?」
「死ぬ場所くらいは選ぶ」
弁円と同じ言葉を、違う覚悟で言った。
「けれど」
維紅は真白へ近づく。
殴られると思った。
赤い籠手は、真白の肩へ置かれた。
「妹を殺すな。殺せるなら、運命の方を殺せ」
「はい」
「軽く答えるな」
「軽くありません」
「なら、その目を逸らすな」
維紅は真白の瞳を確かめる。
「黒い息の先に何がいても、瑠璃が生きると言ったことを忘れるな」
「忘れません」
肩の手が離れた。
真白は道端の刀を拾う。
義景から贈られた刃が、朝日を冷たく返す。
次に兄と会う時、この刀を返す。
それが決別になると分かっていた。
瑠璃と並んで峠を下りる。
十歩進んだところで、維紅が呼び止めた。
「真白」
振り返る。
赤い武者はもう道を塞いでいない。
妹を送り出す兄として、一人で立っていた。
維紅の顔に、敵意より深い哀れみが浮かぶ。
「お前の兄は、お前を愛している。だから止まらない」




