92:名前
(私は、なんてことを……)
私室の扉に背中を預けたまま、オーケヌスはずるずると座り込む。
(……ティアは、信じてくれていたというのに)
女王を前に、何もできなかった。
まさか、あんな暴挙に出るとは思わなかった。
まさか、あの場にトゥエリラーテが立ち会うなどとも思っていなかった。
いつの間に、トゥエリラーテをあのように懐柔したのか……。
惨敗だった。
オーケヌスは自分の甘さを痛感する。
何よりも元の世界に帰りたがっている彼女を、意図的ではないとしても、この都に縛りつけることに手を貸してしまうという結果になってしまったのだ。
床に座り込んだまま、ぼんやりと窓の外を眺める。
雨が降るほどでもない、どんよりとした空。
まるでそれは、行き場のない自分の感情を写したよう。
(……信用を、失ってしまっただろうか)
――王子様?
「――っ」
今、一番聞きたくない声が、頭の中に響く。
――責めるつもりはないよ、僕らの完敗だ
(うるさい)
肝心な時に、出てこないくせに。と言いそうになるのを、オーケヌスはグッと堪える。
自分の手でティアを守ると言っておきながら、こんな事態になってしまったのだ。
そんなことを言う資格は自分には微塵もないことくらい、オーケヌスは理解していた。
――本当は、どうにかしたかったんだけど。あの場で僕が出るわけにはいかなかったんだ。もし僕が出てしまったら、王子様はその場で……
(……なんだと?)
――気をつけないと。クレイの話を聞いたでしょ? 僕の存在を、女王達は知っている。僕が表に出てくるように仕向けて、僕の存在を消すつもりかもしれない
(そんなことができるのか?)
――理論上はね。思い当たる方法が一つだけある。でも同時に、王子様自身も危険を伴う
(それは……)
オーケヌスは、その方法を聞こうとして、静かに首を振った。
……聞いてはいけない、そんな気がした。
伶夜は続ける。
――ティアが帰ったら、僕はいつでも消える覚悟はできているけれど……まだ消えるわけにはいかない
伶夜の言葉が、オーケヌスに突き刺さる。
(……私は、私の覚悟とはなんだ?)
◇◇◇
――貴女に、【名】を与えます。
輝く光 虹となり 希望をその身に
あらゆるものに 慈悲を 祈りを
『リュティシア=フォス=イーリス』
今日からこれが、貴女の【名】です
「……きもち、わるい」
部屋に戻り、正装から普段着に着替えさせてもらった後、ティアはその場に崩れるように座り込んだ。
まとわりついた光が侵蝕してくるような、ゾワリとした感覚が身体に残っていて、寒気のする両腕をさする。
「ティア様?」
アイリスがサッと跪き、ティアの身体を支える。
覗き込んだその顔は蒼白く、今にも倒れてしまいそうだ。
(……これはいけませんね)
面会へは、自分たち付き人が入ることは禁じられたため、実際に何が話されたのかは聞いていない。
しかし、部屋へと戻る道中、オーケヌスとティアの間に一言もなかったことを考えれば、何か重大なことがあったということは容易に想像ができた。
アイリスは、手近にあったケープを、震えるティアの肩に掛ける。
「ティア様、立てますか? ひとまず暖炉の前へ」
そう言って揺り椅子まで連れて行くと、ティアをそっと座らせた。
(……クレイ様に相談をしましょうか)
暖炉の火を調節しながら、この後のことを考える。
何があったのかわからない以上、自分たちにできることは限られている。
「……殿下は、呼ばないで」
(……え?)
ポツリと呟かれた言葉に、アイリスは思わず振り返る。
ティアは、俯いていた。
「……わたくしは、大丈夫、ですから。……殿下に、ご迷惑をおかけしては、いけません」
一言一言、自分に言い聞かせるような言葉。
着替えたばかりの部屋着を、両手で強く握り締めているその姿は、あまりに痛々しく見えた。
優しいティアは、自分のことは我慢してしまう。
辛ければ辛いほど、隠してしまう。
そうして、我慢できなくなった時に、溢れ出す。
(どうしましょうか)
「……一人に、してもらえますか」
アイリスは、ゆっくりとティアの元へ戻り、目の前に跪き、冷たくなってしまっているその手を取る。
「かしこまりました。……ですが、わたくし達がいることを、お忘れにならないでくださいね」
ティアが小さく頷くのを確認して、アイリスはその場を後にする。
パタリ、と扉が閉まる音がして、ティアは一人きりになった。
少しだけ顔を上げる。
暖炉の火がゆらゆらと揺れ、時折パチ、と音が鳴る。
ぼんやりとした頭で、先ほどの謁見の間での出来事を思い出す。
女王の凛とした声と、こちらへ近寄る靴音、衣擦れの音。意味ありげな視線と笑み。
トゥエリラーテ姫のふわふわと揺れる髪、謝罪と、祝福の言葉。
……オーケヌスの、痛そうな、顔。
「……殿下、大丈夫かな」
ポツリと出たのは、オーケヌスを心配する言葉だった。
(さっきは女王様の前で、聖女である自分を演じることに必死だった)
考えれば考えるほど、オーケヌスの表情が、動揺が思い出される。
(殿下にとっても今日の面会の出来事は、想定外だったはず)
相手は女王だ。
そもそも、本来必要のなくなった面会をわざわざするということ自体、何か裏がある可能性を考えておかなければならなかったのだ。
女王の言葉を思い出す。
――ごめんなさいね。我が愚息の我儘で、貴女をこの地に縛りつけることになる
――オーケヌスとの婚約の儀を行うことにより、貴女の望みは、断たれることになります
(私の望みは、那月と共に元の世界に帰ること)
――オーケヌス。貴方は全ての責を負うと、言いましたね?
(【責】って、どういう意味?)
――彼女には説明したのかしら
――そんなものまで渡しているというのに
ティアは頭に手をやり、そっと髪飾りを外す。
アクセサリーはアイリスが管理している。
きちんと見るのはこれが初めてだった。
目を見張るほどの緻密な細工がなされた銀細工の、目立つところに蒼い紋章。
(どこかで見たことがある……)
ティアは揺り椅子から立ち上がると、ライティングデスクへ向かう。
引き出しを開け、薬草図鑑の最後のページに挟んであった、オーケヌスからの手紙を取り出す。
封蝋印を確認すると、髪飾りの紋章と同じ意匠。
確かこれと同じ模様の印が、返信用の便箋にも押されていた。
(……どうして……)
――ここへ来るまでに、覚悟は決めてきたのですよね? それとも、彼女には一切を伏せて、ここへ連れてきたのかしら?
(覚悟……? 一体何の?)
――わたくしは、条件を出しました。たとえミオティアルが戻ってきたとしても、婚約者をすげ替えることは許さない、と
(殿下は、隠していた? それとも、言えなかった?)
ティアの心に、疑念が湧く。
信じていた。信じてくれていると思っていた。
それなのに。
――とっておきの贈り物を用意したの。貴女が、我が息子の伴侶となる、そのために
(オーケヌス殿下の伴侶は、ミオティアル様で)
なぜ、どうして、私はいずれ帰るのに。
ティアの心に、不安と、戸惑いと……何か他にも、わからない感情が渦巻く。
――貴方は下がっていなさい
――です、が……っ
――大人しくしていられないのなら、去りなさい
(……ちがう)
あの時、足を踏み出しかけたオーケヌス。
(殿下は、止めようとしていた)
それと、女王の言葉は、誰に向けたものであったのか。
ティアの頭の中に、次々と疑問が湧き、通り過ぎていく。
(私に名を与えた、真実の意味は……?)
怖い考えが浮かび、頭を振る。
(殿下は、何も悪くない……きっと、私以上に傷ついているはず)
オーケヌスは不器用だとティアは知っている。
彼のあの反応を見れば、こんなことになるなんて予想もしていなかったのだとわかる。
まして、自分を騙そうなんてこと、するはずがない。
……家族であるはずの母と妹に、出し抜かれたのだ。
どれ程の傷を負ったか。
元々異分子である自分が、騙されて利用されるのは仕方ない。でも、オーケヌスが傷付くのは違うと、ティアは両手を握りしめる。
本当はすぐにでも部屋を訪れ、私は大丈夫だからと告げたい。
でも今はきっと、心を落ち着けたいはずだ。
そのためには、自分は少し離れた方がいい。
オーケヌスの気持ちが冷静になるまで待とうと、ティアは決めた。
(少しでも、力になりたい。……私は、何があっても殿下を信じていると、伝えたい)
ティアは立ちあがると、アイリスを呼ぶ。
それから、今できる精一杯を、彼女に託した。
お読みいただきありがとうございます。
女王との面会での出来事が、
二人の間に影を落とします。
オーケヌスは、霧の中を迷い、俯き、
ティアは迷いながらも、わずかな光を求めて、
手を伸ばし続けます。
果たして二人はもう一度手を取り合えるのでしょうか。
次回更新は木曜夜です。




