82:風の書(2)
(……起きないなぁ)
ティアは、何故か自身の膝の上に乗っている、蒼銀の頭を、不思議な気持ちで見下ろす。
それから、窓の方にふと視線を向けた。
いつの間にか庭を彩っていた色とりどりの花が消え、青々と茂っていた葉が、少しずつ鈍色に変化していく様子が窺える。
(……殿下、寒く無いかな?)
膝掛けを掛けたものの、身体の大きなオーケヌスにはとても足りるサイズではない。
(うーん)
アイリスを呼ぼうにも、このままでは動けない。
起こしてしまうのもなぁ。と悩む。
良い考えが浮かばないまま、再び机の上の風の書を読み始めた。
風乃本質:是、遙天残香
天空無限 並隣随行
汝、刻紋己身
汝、秘力顕示
汝、賭祈 為精霊
「……風の本質。遙天……流れる香り……? 天空を……」
「並隣随行は……隣に並び立つみたいなことだよね」
次の文章に、ティアは眉を顰める。
「……刻紋……己、身……」
本を抑えた手がカタカタと震える。
目を閉じて、頭を振り、浮かんでしまった思考を追い出そうと試みる。
昏い青紫の瞳、手を這う様に広がっていく、黒い紋様。
「や……」
両手に力が入り、叫びそうになる。
「――どうした?」
「え……」
声に気がつき、膝の上に視線を落とす。
そこには、ティアの顔を見上げ、不安そうに揺れる、蒼い瞳。
「い、いえ……」
「なんでもないとは言わせぬ」
ティアが思わず目を逸らすと、大きな手が伸びてきた。
「……起こしてしまっ……」
ごめんなさい、はオーケヌスの手によって阻まれる。
「謝罪も要らぬ」
「……」
オーケヌスは小さくため息をつくと、ゆっくりと身体を起こし、チラリと机に目を向ける。
風の書が開かれたままになっていた。
悔しいが、今のオーケヌスでは古代文字が読めない。ティアが何に気づき、恐れたのかも理解できない。
唯一方法があるとすれば、伶夜に問うということくらいだ。
(……肝心な時に役に立てぬとはな)
――汝、刻紋己身。……お前のその身に紋を刻め、と書かれている
(!)
唐突な伶夜の声に、オーケヌスはびくりと身体を震わせた。
――こんな物を、今のティアに解読させるなんて。……彼女を護れないのなら、今すぐ僕に身体を明け渡せ
いつもの様子とはまるで違う、体の芯から凍える様な声に、オーケヌスは戦慄する。
彼は本気だ。気を抜けば、取って代わられる。
万が一、ティアが恐怖のあまりに伶夜を頼り、その名を呼んだら。
オーケヌスの背に、冷たい汗が流れる。
(……断る)
たった一言。伶夜の意識に反抗の意を流した。
それから、俯いたままのティアの頭に、ぽんっと手をのせる。
ティアはゆるゆると顔を上げ、オーケヌスの方を向くと、震える唇でポツリと告げる。
「……紋を……刻む、と」
(ティアは、逃げずに立ち向かおうとしている。なら私は)
オーケヌスは、なるほど。と少し大袈裟に頷くと、昨日読んだ書の話をする。
「それは、刻印のことだろうか? ……それならば、昨日私が目を通した本にそれに関することが書かれていたが」
「……?」
呪についてのこと、精霊信仰について、それから、自らの身体に刻む、刻印のこと。
ティアは、震える身体を抑えるために両手を強く握り締め、必死に耳を傾けている。
「どうして、ミオティアル様が……まさか……」
悪い方向へ想像をしてしまったのか、ティアはふるふると首を振る。
オーケヌスはティアを安心させようと、できるだけ穏やかな表情と声を意識する。
「……大丈夫だ。怖がる必要はない。内容を見る限り、恐らくミオティアルは、刻印を消す方法を、探していた」
そう告げながら、自身に掛けられていた膝掛けを手にすると、ふわりとティアの身体を包んだ。
(このまま沈ませない。顔をあげていてくれ)
「……あの、それは」
「あの山のような資料の中にあった」
今日も持参している。と机の隅にチラリと視線を送った。
ティアは数回瞬きをした後、視線を彷徨わせながら、思考の海に沈んでいく。
(ミオティアル様は、誰かの刻印を消したかった……?)
誰のためなのか。何の刻印を消したかったのかはわからない。
ただ彼女が戻ってきた時のために、今の自分にできることをする。
(こんなところで下を向いていられない)
やがてオーケヌスの元に戻ったティアの瞳には、不安の色はもう無かった。
それを見たオーケヌスが、小さく頷く。
(そう……その顔だ)
目的が定まれば、彼女は強くいられる。
「殿下。古代文字の書は、わたくしが読み解きます。ですから殿下は――」
「ああ、それ以外の書を担当しよう。この世界の理については、私の方が詳しいからな」
オーケヌスは、そう言って机に向き直ると、持参した資料を手元に引き寄せた。
それを見たティアもまた、机に向き直る。
「ミオティアル様は、自分のためではなく、誰かのために研究をしていたのですね」
二人で並び、ぱらり、ぱらりと資料を捲る。
オーケヌスは、気づかれないようにちらりと右側を見る。
その横顔は真剣に、風の書を見つめていた。
時折、なにやら知らない言葉を呟いている。
きっと、彼女の世界の言語なのだろう、とオーケヌスは推測する。
(……君は本当に、ミオティアルと似ている)
誰かのために自分を捧げようとするところも、人の傷みを自分のものにしてしまうところも。
優しいままであって欲しいと願う反面、これ以上傷ついて欲しくないとも思う。
……女王アクエリアムは、婚約者をすげ替えることは許さないと言った。
だが何としても、優しい彼女を元の世界に帰すつもりだ。
いつも周囲に気遣いをし、自分のこととなると、途端に遠慮をする。でもここぞという時には、まごうことなき聖女の姿になる。
……でもその中身は、背伸びをした少女だ。
彼女が帰るその時を、見届けなくては。
――ふーん?
伶夜の面白くなさそうな声がする。
――そうやって、いつまで誤魔化すの?
(……なんだと?)
――まぁ、いいや。ティアが元気になったから、今回は許してあげるよ
(……そうか)
オーケヌスは伶夜を適当にあしらい視線を手元に戻すと、ミオティアルの研究ノートを再び読み始めた。
次回更新は木曜です。




