九章『彼女は涙を、彼は血を流す(1)』
「化け物がっ!」
左の太ももから血を流し、軽く足を引きずりながら歩く男はそう悪態をついて唾を吐いた。
前方には優雅に歩く化け物、フブキが歩いている。手を伸ばせば届きそうな距離にいる、それはすなわち、いつでも殺せる距離にいるのであったが、フブキは危機感のまるでない足取りで、怪我をした男、みかげの前をのんきに歩いていた。
それがみかげには屈辱であった。殺すならば、いっそのこと殺して欲しかったし、勝負が終わったというのなら、さっさと自分の前から姿を消して欲しかった。
「いったい手前は何を考えてやがる!」
返事はない。フブキは一定のペースで歩を進める。みかげは頭をかきむしって苛立ちを表すが、それは全く無意味な行為であった。
「くそっ」
悪態をつき続けるみかげに対して、沈黙を守るフブキは唐突に足を止め、後ろを振り返った。突然の行動にみかげは身構える。しかし、フブキはみかげなどまるでそこに存在していないかのように彼の遥か後方をじっと見つめた。
自分が無視されていることは不本意極まりなかったが、いったい目の前の“化け物”は何を見ているのだろうと思い、みかげは後ろを振り返った。
「……何も、ねぇな」
そうつぶやいて、前に向き直る。そして、彼は驚きのあまり絶句した。
「おいおい」
先ほどまで目の前にいたはずの男が、いまや遥か彼方に小さく見えるだけになっていたのだ。
「待てよ、こら!」
みかげは足が痛いのも忘れて必死に彼の背中を追いかける。追いつけるかどうかは分からなかったが、ここで見逃す気など彼にはさらさらなかった。
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「気づかれました」
「そのようだな」
茂みからフブキとみかげの様子を観察していた一団はその姿を現すと、目から双眼鏡を外した。
「とにかく追うとしよう。絶好の機会のようだし、それにどうやら、この任務は私の首がかかった最後のチャンスらしい」
にやっと笑ったのは政府の役人であった。制服をきちんと着こなし、姿勢も良い。几帳面さが身体中から滲み出ているような部隊の隊長と思しき人物、だいちは全体に命令する。
「最優先はフブキの確保だ。無いとは思うが、もしも精神と身体に余裕があればみかげも捕縛する」
ざっと数十人はいるであろう一団は各々小さな塊になって車に乗り込んだ。
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「……これは」
ユキナとみなみの握り合いを終え、改めて車を発進させたひなたたちが見つけたのは廃墟と化した町だった。全ての家は崩れ、どうしようもないくらいに荒れ果てている。
「時間の経過や自然災害というよりは、人為的って感じね」
そう感想を漏らしたさくらは瓦礫を手にとって、悲しそうに目を伏せた。瓦礫の状態からみて、ここが壊されてから時間はそれほど経っていないらしい。
「つまり、あれか。これはフブキの?」
「と、見るのが妥当でしょう」
車の中に残されたユキナとみなみをちらりと見て、ひなたが頷いた。壊された家や石壁に見られる独特な剣の跡を見て、彼は難しそうに顔をゆがめた。
「これ、全部1人でやったのか?」
「はい。そうだと思います」
「人間じゃねぇな、おい」
「ですね」
ハム吉が言うのは最もだった。この光景を1人で作り出したのならば、それは人間業ではない。神かはたまた悪魔か。
「そういや死体もないな?」
「いえ、見えないだけできっと家の下敷きになっているだけだと思います。基本的に彼が活動するのは夜ですから。住民が寝静まったころを狙ったのではないでしょうか」
「ああ、そうだった。奴は夜行性の化け物だったな」
ハム吉が頷き、ひなたは近くにあった家だったものをかきわけ、う、と漏らした。できれば一生見たくない人間の悲惨な姿を目撃したからだ。
「さくら」
「何?」
別の場所で、しゃがみこんで瓦礫を見つめていたさくらにひなたは声をかけた。
「ひとまず、墓でも作るべきだと思う」
「そうね。そうしましょう」
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「これ、フブキがやったんだと思う」
「え?」
ひなたにここで待っていろ、と言われ、素直に従った2人は外にいる彼らの様子を窺いながら会話を始めた。
「ひとりでこれをやったとしたら、っていう前提がいるけどね。こんなことができるのって限られてるもん。フブキかみかげか、あるいはひな兄か……」
「……」
黙りこくったユキナにちらりと視線を向け、すぐに逸らすとみなみは言葉を続けた。
「ひな兄のはずはないし、みかげは基本的に壊した町は燃やし尽くす狂人らしいから違う。だったら消去法でフブキ、ということになるでしょ」
「…………そうかもね」
ユキナは硬い表情のまま同意の言葉を発した。みなみは、ため息と共に車の窓に頭を乗せた。
「いいじゃん、あんたは」
「え?」
ユキナはそんな予想外の言葉にみなみの方に顔を向けた。どこか寂しそうで、悲しそうな顔で微笑むみなみが、そこにいた。
「本当のお兄ちゃんがいてさ」
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「なんだっつーんだよぉ!」
距離の縮まらないフブキを追いかけながらみかげは叫ぶ。左足は限界を訴えており、白い包帯が徐々に赤に染まる。
「フブキぃ!」
その叫び声のせいか、それとも別の理由か、フブキは足をとめると後ろを振り返った。その行動にみかげはにやりと笑い、それと同時に妙な音に気がついた。
それは後ろから迫る機械的な音で、みかげは思わず振り向いた。そして、大きく目を見開くことになる。
確かにみかげの前方にいたはずのフブキが、彼が振り返ったときには既に彼の前にいたのだ。
「おいおい」
続いてみかげは気づく。後方から10台近い数の車が迫ってきていることに。フブキはその先頭車両を容赦なくぶった切ると、すぐさま残りの車に攻撃を開始した。
「ありゃあ、だいちの野郎か?」
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「まずいな」
そうつぶやいたのは、先頭車に乗るだいちだった。運転席に座る男がその言葉の意味を図りかねて首をかしげる。
「どうかされましたか?」
「距離を詰めすぎた。これでは、殺られる」
そして、その言葉通りのことがすぐに起こった。だいちたちから見て、だいぶ先にみかげ、そして、そのまただいぶ先にフブキがいた。いたはずだった。が、次の瞬間、フブキが目の前数百メートルの場所に現れ、そして――。
「“化け物”が」
だいちの乗る車が真っ二つに切り裂かれた。悲鳴をあげる暇さえなかった。
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「さて、先を急ぎましょう」
「先って?」
墓作りを終えて町を出たひなたは、しばらく車に戻らずにあちこちをうろちょろしてから、ようやく車に戻ってきた。随分と車内で待たされた、ユキナやみなみ、一足先に車に戻らされたさくらまでもが不機嫌な顔で彼を迎えた。
「血の跡を見つけた。それを辿ってみようと思う」
「血?」
不吉な言葉にユキナは顔をゆがめ、みなみは目を閉じる。聞き返したのはさくらであり、彼は強く頷いた。
「みかげとフブキが今も尚戦い続けているなら、あの血はみかげのものと判断するのが妥当だ」
「ま、どうせ手がかりはねぇんだ、行ってみようぜ」
ハム吉が笑い、ひなたも釣られて笑みを浮かべる。
「そうですね」
鈍いエンジン音がして車が走り始める。
間もなく、全てが一同に会する。




