六章『彼女はただひたすらに彼を想う(3)』
――4日後。
男はベッドから音も立てずに起き上がった。まだ身体は痛むが、歩けないほどではない。包帯や薬も数日分は手に入れたので、なんとかなると言い聞かせる。今日を逃せば機会はない。今が絶好の機会なのだ。
「それでは、お元気で」
隣のベッドから声が聞こえた。
「はい。だいちも」
「ええ」
そうして、だいちはうそ臭く寝息を立て始めた。自分は眠っていた、と苦しい言い訳をするらしい彼は、それ以降一言も言葉を発しなかった。
病室の窓をそっと開けると、風が吹き込んできた。さほど冷たくはない。飛び降りるには彼の病室がある階は高すぎた。そこで、ひなたは外に出て壁伝いに下に下りていく。人間業とは思えない行為だが、彼はひょいひょいと降りていく。5階分の壁を下り終えて地面に着地すると、そこでは見慣れたバイクと小さな影が待っていた。
「お待たせしました」
「うん。待った」
「手厳しいですね」
ひなたはユキナの代わりにバイクに手をかけるとそれに乗った。病院の周りは政府の役人たちが交代で番をしているらしい。ここからは強行突破である。いつかのように作戦は、ない。
「だいちの立場を考えても、これ以上は手伝っていただくわけにはいきません」
「うん」「ああ」
ユキナがひなたの後ろに座り、ハム吉が彼女のポケットに入り込む。
「ですから、全速力で突っ切ります。よろしいですね?」
「任せる」「任せた」
「忘れ物は、ございませんか?」
ひなたの腰には一振りの刀が、そして、ユキナの腰には例の短剣が。荷物の中には包帯と薬を加えた。忘れ物は、ない。
「行きましょう」
エンジン音が夜の病院に響き渡った。それに反応して、辺りがざわめき始める。そんなことはお構いなしに、ひなたはバイクを発進させた。
猛スピードで走るバイクは番人をあっという間に追い抜いていく。途中、何人かを跳ね飛ばしながらバイクは進む。追っ手は、こない。
彼らは“無事”に逃走を成功させた。
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「本当にあれでよろしかったんですか?」
とある病室の闇の中、1人の男の声がした。
「ああ。どうせ罰を受けるならとことん、だ」
眠っていたはずの男が、空になった隣のベッドに視線を向けながら言う。
「ここで彼を捕まえてしまうよりも、彼の力を使って他の“化け物たち”を捕らえる方が都合が良い」
「それはそうですが……。上手く行きますか?」
月に照らされただいちの顔が、部下の目に映る。薄く笑っただいちの顔は、自信に溢れていたといっても過言ではない。
「もちろん、こちらでも最善を尽くす。とにかく私は彼に賭けた。それだけだ」
「……」
「彼を逃がしたことで君らにも何らかの罰が下るかもしれんが、そのときは私が全ての責任を負うことで解決してやる。安心しろ」
だいちはそう言ってゆっくりと起き上がると、棚からロープを取り出しながら付け加えた。
「むしろ、私も含めて君たち全員が昇格するような結末を迎えさせてやる」
神妙な面持ちで聞いていた部下は、表情を緩ませると深く頭を下げた。
「我々はあなたの部下ですから。あなたの指示に従うだけです」
それを聞いて笑みを浮かべただいちは、取り出したロープを部下に手渡しながら言った。
「さて、ここからだ重要だ。予定通り“舞台”を整えよう。“演技”の稽古は充分か?」
事実として、だいち側の策略の中で、ひなたたちは“無事”に逃走を成功させたのであった。
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さて、そんなだいちの思惑を知らぬ一行は依然として猛スピードでバイクを走らせていた。
「どこに向かう気だ?」
強い風をユキナのポケットで避けながらハム吉が問う。
「アンフォールへ帰ります」
「は?」
ひなたの返答にハム吉が答えた。ユキナはひなたにしがみつくのに必死で、口を開くこともままならない。
「かなり腕のいい医者がいます。僕の怪我の件もありますし、うまくいけばフブキを元に戻す薬についても知恵を借りられるかもしれません」
「なるほど」
「ただ……」
ひなたはそこで一旦、言葉を区切った。微妙な沈黙が間に流れた。
「帰るのか」
その独り言は、誰にも聞こえなかった。言葉はその場に取り残され、バイクは前へ進んでいく。
ひなたの2つ目の故郷、アンフォールへ向けて。




