第三章 6
去っていくトヨヒサの後姿をながめながら、マヒルは一抹のさびしさを覚えた。盾にされたり、逃げられたりしたが、最後にはお互い笑顔で別れられるような関係になった。
(ありがとうね、トヨヒサ)
胸の中でそうつぶやくマヒルの背に、ジュウセンの言葉が投げかけられた。
「あの方は?」
「あたしのボディーガード。……そんじゃ、行こう。ジュウセンさん!」
「はい。行きましょう」
二人は並んで歩き出した。
「いいタイミングで帰ってきましたね、マヒル」
「え? なにが?」
「実は今、このヨンノ村を作るのに協力してくれた方がきているんです」
「そんな人がいるって、初耳なんだけど」
「何を言っているんですか。出稼ぎ先の仕事を紹介してくれる方ですよ」
「ああ、ジュウセンさんの知り合いとかいう」
ジュウセンが慈愛に満ちた微笑を浮かべる。
「ええ。連邦戦争で生きる気力を失った人たちを助けたくて悩んでいたときに、私はその人と出会ったんです。そしてその人に困っている人を助けたいと話したら、資金や場を提供してくれたんです。そのおかげで、今のヨンノ村があるんですよ」
「そんな神様みたいな人がいるんですね」
「神様ではなく、私と同じ武士道を信仰する道者の方ですよ」
「あー、そうなんですか」
正直なところ、ジュウセンの知り合いに興味はなかった。
今のマヒルにとって重要なのは、盗賊に襲われたこと、そのせいで自分以外の友だちが死んだこと、そして自分をかくまってほしいという、この三点だった。
士道場は村の外れにあった。
荘厳な雰囲気をまとうその建物は、平屋に三角屋根をつけたような外観だった。その奥には、前にジュウセンと一緒に住んでいた離れの小屋が見えた。
「久しぶりだなー、ここ」
なんていいながら、五段ほどの階段を上がって、士道場の正面入り口から中に入る。
だだっ広い空間が広がっていた。そこは道者や道女が集まって、士道場を預かる道祖が『義・勇・仁・礼・誠・忠・名誉』の教えを説く講堂である。この士道場の管理者はジュウセンなので、つまりは彼女がここで道祖として村人に武士道の教えを説いている。
奥にはニトベ神像がおかれ、その頭上に銀十字刀がかかげられ、足元には分厚い道書がおいてある。前となんら変わりなかった。
なつかしさを覚えて講堂内を見回していると、ジュウセンが言った。
「では、呼んできますね」
「え、ちょっと」
ジュウセンは講堂を出て、離れの小屋に向かった。手を伸ばした体勢のままマヒルは動きを止め、ため息をついてから板張りの床に腰を下ろした。
(ま、あせってもしょうがないわね)
崩れつつあった着物の襟を合わせてから、マヒルは大あくびをする。
ぎぃ、と後ろで板のきしむ音がして、振り向いた。
ジュウセンがやさしい眼差しを、こちらに向けていた。
「マヒル。この方が、私の知り合いの――」
「ジュウセンさん、今すぐ、そいつから離れて」
マヒルの言葉に、ジュウセンの目が点になる。
説明しているひまはなかった。
心臓が、凍りつきそうだった。
「早く。何も言わずに、早く、離れて」
叫びだしそうな気持ちを抑えて、静かに告げる。
「そいつは、敵よ」
そういってマヒルはジュウセンの隣に立つ道者――ゲンジロウを指差した。
ゲンジロウが白ひげにおおわれた口をゆがめ、ふてぶてしく笑った。
「ずいぶんと、ずいぶんと怖い顔じゃあないか、実験体」
「なんであんたが、ここにいるのよ」
「今、このジュウセン殿が言ったろう? わしがこの村を作ったと。それは事実だ」
「うそよっ!」
立ち上がったマヒルは、ダンッ、と床を強く踏んだ。
するとゲンジロウは白ひげをさすりながら、
「うそではない。連邦戦争がおわり、我が主君は腹を切った。その瞬間をわしは目撃し、トクナガに対する憎悪を覚え、必ずや恨みを晴らそうと決めた。そのためには力が必要だった。だからわしは一度、道者として身を隠してから、イシダ家の武士の残党を集めた。しかしそれだけではトクナガを倒すには力が足りぬ。そこで竜人を大量に精製しようと考えた。逆鱗は、セキガ平原にある大量に竜の死骸から調達すればよかったが……竜人となる人間が圧倒的に足りなかった。だからわしは人間を集めるために――村を作った」
つまり――そういうことなのか。
マヒルの背中を、冷たい汗が伝う。
「まさ、か」
「そのとおり。その村が、ヨンノ村よ」
「まさか、出稼ぎの掟って」
「あれはわしらの研究所に人間を送るために定めたものだ。そして盗賊を装ったのは、万が一バレた時に、わしが手引きしていると感づかれないようにするためだ。こうやって道者を装うのと同じ理由だ。もっとも、武士道はきっちり信仰しておるがな」
こっこっこ、とのどに詰まったような笑い声を発するゲンジロウ。
すると事態についていけずに、目を白黒させていたジュウセンが、
「ど、どういうことですか。ゲンジロウ殿。あなたは――」
「ジュウセン殿。こういうことです。善人というのは、人に好かれやすく、そして騙しやすい。悪巧みをするには、あなたのような愚か者はちょうどいいカモなんですよ」
ジュウセンが落雷を食らったかのように、愕然とする。唇が震え、目じりが大きく吊りあがった。自らの善意を利用されて、憤慨しているのだろう。
それから彼女はゲンジロウから離れ、かばうようにマヒルの前に立った。自らが信じる者の背中が近くにあることに、マヒルは少しだけ安堵した。
するとゲンジロウが指を一本、立てた。
「そこで一つ提案があるのですが。実は研究所のほうがなくなってしまったので、新しい研究所を構える必要がある。そこで、このヨンノ村にそれを作ろうと思ってな。人間は豊富だから設備を整えれば、すぐにでも研究が再開できる。というわけで、これからもその善意をもって素材を集めてくれますかな? ジュウセン殿」
「協力すると思いますか?」
「んー、できればあなたに協力してもらいたいんですよ。あなたは美しい上に善人。人にも慕われやすい。羊飼いとしては、かなり優秀な部類だ。ダメですか?」
「わたしは、あなたの思惑通りには動きません」
強気にジュウセンは反論した。その気高さに、マヒルは思わずぐっと拳をにぎる。
だが――まるでそう答えることを見抜いていたように、ジュウセンが微笑んだ。
やさしく、毒々しい笑顔だった。
「では、爪をはがされ、指を折られ、肘を折られ、肩も折られ、足を折られ、脛を砕かれ、尾てい骨を粉砕され、肋骨を削られ、胸骨を抜かれ、目玉を貫かれ、鼓膜を割られ、最後に蛙のように解剖されたあとも、同じことが言えますかな?」
淡々と語るゲンジロウ。変に抑揚をつけないところが、逆に恐ろしかった。
想像してしまったのか、ジュウセンの顔から脂汗が流れる。
そして悪意に満ちた老人は、美しき道女がかばうものを指差した。
「どれぐらいの痛みかは――あなたの背後にいる子に聞いてみてくだされ」
ジュウセンがこちらを向いた。
どれくらいの痛みか、と言われ、抑え込んでいた記憶があふれ出してくる。ゲンジロウが述べたこと、すべてが無形の斬撃となって、少女の全身を切り刻んだ。
マヒルは思わず自分の身体を抱く。身体中の傷がうずきだし、今にも血が流れてきそうだった。
記憶の苦痛に苛まれるマヒルを、ジュウセンは唇をかみしめながら見下ろしていた。
「ジュウセン殿。それでもなお、協力はしてくれないと?」
ゲンジロウの改めての問いに、ジュウセンは先ほどのように突っぱねず、葛藤するように眉根を寄せて、まぶたを閉じた。
しばらくして、彼女は目を開けた。
その顔に浮かぶ表情は、絶望とあきらめの混じった負の感情に満ちていた。それからゆっくりと――ジュウセンは、首を縦に振ってしまった。
「これからもよろしくお願いいたしますぞ、ジュウセン殿」
ゲンジロウが満足そうにうなずいた。
(ああ…ジュウセンさん)
仕方ないことなのだ。マヒルにも、それはわかっている。
誰もが強いわけではない。
誰もがかっこよく生きられるわけではない。
人間はその弱さゆえ、尊厳を捨ててしまうこともある。保身して、逃げることは、決してめずらしいことではない。人ならば誰しもが陥ることだ。
だからマヒルは、ジュウセンに対して、失望することはなかった。
するとゲンジロウの視線が、マヒルを射抜いた。
「では、実験体。設備が整う日まで、また牢屋に入ってもらおうか」
「マヒルに……なにをするつもりですか」
力なく、ジュウセンが問いかけた。
「少し手伝ってもらうだけだ。わしらの研究の、な」
また実験されるのは、あの痛みを味わうのは嫌だった。
マヒルは逃げ出そうとして――糸状の力場に身体をがんじがらめにされた。
それを成したのは、ゲンジロウではなく、いつの間にか士道場の正面入り口に立っていた金髪の男――ユルヨだった。彼の思念に引っ張られて、マヒルは難なくその胸の中におさまった。トヨヒサやジュウセンの胸とちがって、ユルヨの胸の中は居心地が悪かった。
もがこうとしていると、ジュウセンと目があった。
マヒルとしては助けを求めるつもりはなかった。トヨヒサならまだしも、ジュウセンではどうしようもないから。彼女はただの道女。決して侍でも、竜人でもない。
だがしかし、ジュウセンのほうはまるで心臓に杭を立てられたかのように、苦しそうな表情で目を伏せる。必要以上の罪悪感で、身を焦がしているのかもしれない。
だめだ。ちがう。そんな気持ちで、自らの心を傷つけ、殺すことはない。
だからマヒルは、笑った。
「あたしだったら大丈夫だから。ジュウセンさん、大丈夫だよ」
彼女の心を少しでもやわらげたくて、そういった。ジュウセンはうつむいたまま、顔を両手でおおう。どんな表情をしているのか、マヒルからは見えなくなった。
するとかたわらのユルヨが、
「シマヅはどうした」
「さあね。知らないわよ」
「それは困るな。奴がいないと、私の死に場所がなくなる」
「死にたいなら今すぐ自分の手で死ねば? それと、どうせ死ぬならその前にジジイを斬っておいて。邪魔くさいからさ」
「検討しておこう」
ユルヨが素っ気なく答えた。
そのおり、士道場の外から、頭の中に響く甲高い音が聞こえた。
火の見やぐらの鐘の音だ。それは火の手が上がったり、外敵がきたりしたと知らせる鐘であり――つまり、村に対して危機が訪れたときに鳴る。
「何事だ? いったい――」
ゲンジロウのつぶやきを、最後まで聞くことができなかった。
耳を聾する音を立てて、天井が崩落したのだ。
降り注ぐ屋根の破片に潰される前に、ユルヨに抱えられてマヒルは外に飛び出した。ほぼ同時にゲンジロウも外に出て――ジュウセン一人だけが、取り残されていた。
「ジュウセンさんっ!」
ジュウセンがこちらを向いた。
彼女は申し訳なさそうな顔で、何事か言おうとして――瓦礫の下に消えた。
あまりにも唐突で、あっけない終わりに、マヒルは言葉を失う。
こんなのって――あんまりだ。
あんまりすぎるじゃないか……!
鼻の奥から何かが突き上げてきて、それが碧眼から流れ落ちそうになった。
だが、今のマヒルには泣くひますら与えられなかった。
いくつもの瓦礫が折り重なる崩れた士道場に、舞い降りる人影が一つ。その女は黒髪を束ね上げ、病的なほどに白い肌の上に、胸元の開いた黒色の振袖をまとっていた。
デピュル。マヒルの母を名乗り、そしてマヒルにとって母同然のジュウセンを殺した女がいた。ユルヨが刻んだはずの脇腹の傷は、すっかり治っていた。
そして彼女は右手に肌色の棒を持っていた。腕である。大きさから言って、子供の。
マヒルたちが見ている前で、デピュルは口を開け、その腕を丸のみする。そしてぼりぼりと咀嚼してから、ごくりと飲み込んだ。
あまりの事態に頭の追いつかないマヒルをよそに、
「不味い」
そうつぶやいてから、口周りの血をぬぐうデピュル。
「愛しの娘を、返してもらおう」
「よく追ってきた。これで残るはあと一人だ」
するとユルヨが青竜刀を抜き放ち、マヒルをゲンジロウに押しつけた。マヒルを受け取ったゲンジロウが念力を放出。ユルヨのそれよりもゆるめの糸で、マヒルを拘束する。それでも竜の力を自在に扱えないマヒルには、身体を動かすことができなかった。
「ここは任せたぞ、ユルヨ」
言いながら、マヒルを脇に抱えて、ゲンジロウがセキガ平原方面に走り出した。
ユルヨとデピュルがにらみ合う。
「失せよ、人間」
「死に場所ができるまで、がんばって耐えてくれよ?」
そういって――二人は疾走した。