第七話 吉田茂外交官
数時間ほど第八話を間違えてUPしていました、失礼いたしました。
明日、第八話は投稿し直す予定です。
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1919年1月11日 フランス・パリ ホテル・ブリストル
パリに着いて最初に思ったのは、思っていたより暗い街だということだ。四年も戦争をしていれば石炭が足りないのか、夕方の大通りのガス灯は一つおきにしか灯っていない。その下を、軍服の男たちがひっきりなしに行き来している。カーキ色の英国兵、同じカーキでも帽子の形が違うアメリカ兵、青灰色のフランス兵、それから見たこともない徽章をつけた男たち。講和会議のために世界中から人が集まっているのは頭では分かっていたが、これだけの軍服が一つの街に押し込められているのを見ると、戦争はまだ本当には終わっていないのではないかという気がしてくる。
ホテル・ブリストルはフォーブール・サントノレ通りに面した古いホテルで、日本全権団はその一角を借り切って本部にしている。借り切っていると言えば聞こえはいいが、実際には各国の代表団がパリ中のホテルを奪い合ったせいで日本に割り当てられた部屋は予定の三分の二ほどしかなかった。
おかげで到着したその日の夜から、ホテルの廊下は荷物置き場と化している。資料を詰めた木箱、暗号書の入った鍵付きの鞄、東京から持ってきた条約集の束、それからなぜか誰かの私物の漬物樽まで並んでいた。私はその木箱を番号順に各部屋へ運び込む係を仰せつかっていて、もう二時間近く同じ廊下を往復している。
「八幡君、ここにおいてあった箱はどこへ行った?」
「七番なら、さっき松井大使のところの書記官が持っていきましたよ」
「持っていかれたら困るんだよ。あれには南洋の地図が全部入ってるんだ」
庶務の男は頭を抱えて廊下の向こうへ走っていった。その背中を見送りながら、私は手元の目録にまた一つ書き込みを足す。現代ならバーコードを読み取れば一瞬で済む話だ。第一話で資料室に缶詰にされた日から、同じことをもう何度思ったか分からない。
木箱を運び終えると、次の仕事が待っている。英国代表団から届いた文書の翻訳だ。ところが、英文のタイプライターは全権団全体で四台しかなく、そのうち二台はすでに暗号電報の清書に取られていた。残りの二台を探して部屋を一つずつ覗いていくと、奥の一室の窓際で、葉巻をくゆらせている男と目が合った。
机の上には英文タイプライターが一台、その横の皿には食べかけのクロワッサンが載っている。
吉田茂。牧野次席の娘婿で、大陸の領事館勤めが長い四十過ぎの外交官だ。八幡光真の記憶の中では、口が悪いことで有名な人でもある。
「あの、それ、使ってもいいですか?」
「駄目だ」
理由の説明はなかった。吉田さんは葉巻を灰皿に置き、クロワッサンをつまみ上げて、それを親の仇でも見るような目で眺めた。
「君、これを見たまえ。これがこのホテルの朝飯だ。間食じゃない、朝飯として出てきたんだぞ。パンが一つとコーヒーが一杯、以上。卵もない、ベーコンもない、焼いたトマトもない。私はロンドンにいたとき、毎朝ちゃんと卵を二つ食べていたんだ。フランス人はこれで午前中の仕事ができると本気で思っているのかね。いや、できないからあの国は四年も塹壕から出られなかったんだろう。私は昨日から、朝飯のたびに腹が減ったままでな、この状態でタイプを打てと言われても指が動かん」
「打ってないなら、貸してもらえませんか」
「......駄目だ」
同じ答えが返ってきた。私は廊下に積んである翻訳待ちの文書のことを考えて、それからもう少しだけ粘ることにした。
「英国代表団からの文書を今夜中に訳して次席に上げないといけなくて」
「君、英語はどこで覚えた」
話が飛んだ。
「大学の頃に、エディンバラに留学していました」
「エディンバラか」
吉田さんはクロワッサンを皿に戻した。
「あそこの朝飯はまともだ。オートミールに燻製のニシンが付く。
......近くの店でニシンでも買ってくるか。タイプライターは持っていいっても構わん。ただし、明日の朝には返しに来い。私は明日、ロンドンの知り合いに朝飯がひどいという手紙を書かねばならん」
冗談なのか本気なのか分からない口調で言われ困惑しつつも、タイプライターを受け取った。
1919年1月13日 同
十二日から始まった米英仏伊の首脳会議に、翌日から日本の全権も加わることが決まった。それぞれ首相と外相の二人ずつ、五か国で十人。のちに十人会議と呼ばれるものだ。
その知らせが本部に届いたとき、廊下のあちこちから歓声が上がった。庶務の男たちは握手をして回り、誰かがどこからか葡萄酒を一本持ち出してきて、紙コップなどない時代なので、湯呑みで回し飲みを始めている。明治の初めには不平等条約に泣いていた国が、四十年かけて、世界を決める十人の席に座る。そう考えれば、浮かれるなと言うほうが無理な話だろう。
「浮かれてるな」
隣で湯呑みを受け取った重光さんが、中身を覗き込みながら言った。
「重光さんは浮かれないんですか?」
「浮かれたいところなんだが、この葡萄酒はおそらく料理用でな」
重光さんはそれでも律儀に一口飲んで、顔をしかめていた。
私は湯呑みを手の中で回しながら、周りの笑い声を聞いていた。この席は結局三月の終わりにはほとんど何の説明もなく外されることになる。それを知っているのが、この廊下で私一人だというのが、どうにも居心地が悪かった。




