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第六話 地図ノ外

「日本のことは、何か言われてるのか」


「日本?」


アシュトンは少し考えてから、首を振った。


「正直に言うとな、誰も何も言ってない。地中海に駆逐艦を出してくれたのを覚えてる奴はいるが、そのくらいだ。極東のことを気にしてるのは、ホワイトホールでもうちの部の十人くらいだよ。山東なんて、パブで聞いたら十人のうち九……いや、全員どこにあるか知らんな。悪く言ってるんじゃないぞ。誰も気にしてないってことは、誰も反対しないってことだ。お前の国は約束どおり、ドイツが持ってた島と山東をもらって、それで済むだろう。うちの政府もそう約束してるしな」


そう思いたいが、山東はこの会議でいちばん揉める問題の一つになるはずだ。どこにあるかも知らないパブの連中も、来月にはその名前を新聞で毎日読むことになる。


「ああ、いや」


アシュトンが、思い出したように顔を上げた。


「一つだけあった。日本の話をしてる連中が。大蔵省だ」


「大蔵省?」


「大蔵省証券だよ。日本が買ってるやつ。戦争中はありがたく売ってたのに、戦争が終わってもまだ買い続けるそうじゃないか。先週、大蔵省の知り合いと飯を食ったら、ずっとその話をしてた。ありがたいのは確かだ、アメリカに頭を下げるよりはずっとましだ。だが、極東の同盟国に首根っこを掴まれていくのは気分が悪い、とさ。あいつ、スープが冷めるまでその話をしてたぞ」


私はグラスを置いた。


日本が戦時中に英国の証券を引き受けていたことは、私の知っている歴史でも起きている。ただ、それは戦争が終われば細っていく話のはずだった。


「……それは、本省の決めることだから」


「そう言うと思った。お前はいつもそうだ」


アシュトンは肩をすくめて、指でテーブルの木目をなぞり始めた。何かを描いているらしい。


「家に帰れない連中もいるんだ。ここがアルハンゲリスク、ここが白海、で、こっちがモスクワ。うちの兵隊は今、この辺りの森の中にいる。冬の北ロシアだぞ。昼が四時間しかない。うちの兄貴がその森の中にいるんだ」


アシュトンの指が、白海の岸のあたりで少し止まった。


「政府は、春に氷が溶けたら引き揚げると言ってる。兄貴の手紙にもそう書いてあった。みんなその日を指折り数えてるってな。それはいいんだ。ただ、最後の一行が気になってる。赤軍の連中は、去年の夏にはろくに銃も揃ってなかったのに、今は砲兵まで連れてくる。『連中は俺たちよりこの戦争に慣れてる』と書いてあった。慣れてるんだとさ。ドイツとまともに戦いもしないで降りた連中が、だ」


私はアシュトンの指先を見ていた。


この世界のロシアは、私の知っている歴史と違って、一九一六年の初めにはもう戦争から降りかけていた。その分だけ兵を減らさずに内戦を戦っているのなら、アシュトンの兄が森の中で見ている赤軍は、私が教科書で知っている赤軍とは別物なのかもしれない。


「こっちが帰りたがってることくらい、向こうも知ってるだろう」


アシュトンは、独り言のように言った。


「知ってて、黙って見送ってくれるような連中ならいいんだがな。……パリの偉い連中は、ロシアのことは何も決めないよ。ロシアは会議に呼ばれてないんだから。呼ばれてない国は地図の外だ」


木目の上の地図は、そこで途切れていた。アシュトンの指はアルハンゲリスクのあたりで止まったまま動かない。


そのとき、入口のほうで大きな笑い声が上がった。カーキ色の軍服を着た男たちが四、五人、どやどやと入ってきたところだった。帽子のつばを片側だけ折り上げた、独特のかぶり方をしている。


「オーストラリア兵だ。帰りの船を待ってるんだよ。ロンドン中にいる」


アシュトンが言い終わらないうちに、その一団の一人がこちらのテーブルに気づき、隣の仲間の肩を叩いた。


「おい、ジャップ! 赤道から南の島は一つもやらねえぞ。ドイツ野郎からもぎ取ったのは俺たちだ。聞こえてんのか!」


アシュトンは表情を変えないまま、ビールを一口飲んだ。


「気にするな」


「……分かってる」


「いや、分かってないな。すまんな、あれはイギリス本国の意見じゃない。だが、パリに行けば、あれと同じことをもっと上等な英語で言う男がいる。ビリー・ヒューズだ。オーストラリアの首相で、今はロンドンにいて、毎日帝国戦時内閣でうちの首相と怒鳴り合ってる。あの男は赤道より南の島を一つでも日本に渡すくらいなら、議場で椅子を投げるぞ。うちの首相もあいつには手を焼いてる。自治領の連中は、自分たちが本国と同じ席に座れるようになったのを、何か勘違いしてるんだ」


私は入口のオーストラリア兵たちをもう一度見る。彼らはもうこちらに興味をなくして、カウンターで酒を頼んでいる。


「ヤハタ?」


「ああ、すまん。椅子を投げられたら困るなと思って」


「ははっ、たしかにな」


アシュトンは満足そうに笑って、給仕に二杯目を頼んだ。


店を出ると、霧はさっきよりも濃くなっていた。私は襟を立てて、大使館への道を歩き出した。

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