第五話 復活祭迄二
1919年1月8日 英国・ロンドン 在英日本大使館
リヴァプールに上陸し、そこから汽車でロンドンに入ったのは昨日の夕方のことだ。
駅を出た瞬間に、石炭の煙で喉の奥がざらついた。何百万という家の暖炉と工場の煙突が一斉に煙を吐き出していて、そこに冬の霧が混ざり合い、空気そのものが薄く黄ばんでいる。八幡光真はこの匂いを「ロンドンの冬」として懐かしがっているのに、現代の自分は反射的に、これは身体に悪いだろうと思ってしまう。同じ鼻で嗅いでいるのに感想が二つ出てくるのが、我ながら妙だった。
大使館では、牧野次席以下の一行を珍田大使が出迎えた。
珍田捨巳。駐英大使で、今回の講和会議では全権の一人に名を連ねている。二年前、ロンドンで外交官補をしていた八幡光真の上司でもあった人だ。
牧野次席との挨拶は、廊下で聞いているだけでも長かった。航海の労いから始まり、東京の近況、それから西園寺主席の健康の心配と、一つずつ順番を守って進んでいく。ようやく一行が応接室へ移り始めたところで、珍田大使が足を止め、私のほうを振り返った。
「八幡君か」
「はい。ご無沙汰しております」
「……痩せたな」
それだけ言って、珍田大使はまた歩き出した。これで挨拶は終わりなのだろうかと思っていると、三歩ほど進んだところで、背中越しに声が続いた。
「アシュトンという男がいただろう。ロンドンにいた頃、よく一緒に飯を食っていた」
「フランク・アシュトンですか?」
「その男が、君が一行にいるなら会いたいと、わざわざ私に言ってきた。向こうの外務省の人間から正式に頼まれた以上、伝えないわけにはいかん。今夜、ホワイトホールの裏の、いつもの店だそうだ」
「いつもの店、ですか」
「私は知らん。君が知っているだろう」
珍田大使は振り返らないまま、応接室の扉の向こうへ消えていった。
同日夜 パブ「ザ・レッド・ライオン」
いつもの店は、確かに私の中の八幡光真が知っていた。扉を押し開けた瞬間に、奥から二番目の柱の陰になったテーブルへ足が勝手に向かっていく。
その席に、フランク・アシュトンはもう座っていた。
「遅いぞ、ヤハタ。日本人は時間に正確だって、うちの大使館の報告書には書いてあるのに」
アシュトンは立ち上がりもせず、手に持ったビールのグラスを軽く掲げた。二十半ばの、背が高くて肩の薄い男だ。極東部の若手で、地図を眺めるのが何より好きな変わり者でもある。
「牧野次席の随員なんだ。夜に抜け出すのも簡単じゃない」
「知ってるさ。だから珍田閣下にお願いしたんじゃないか」
向かいに座ると、給仕が黙ってビールを置いていった。記憶の中では、ここでいつもこの銘柄を飲んでいたらしい。現代の自分にとって、ぬるいビールはあまり口に合わない。
アシュトンはしばらく、戦争が終わってロンドンがどれほど浮かれているかをまくし立てた。休戦の日にはトラファルガー広場で知らない女にキスされたこと。帰還兵で汽車が満員なこと。砂糖の配給がまだ終わらないこと。先週はフォークストンの港で、復員が遅いのに腹を立てた兵隊たちがフランス行きの船に乗るのを拒んで、隊列を組んで町を練り歩いたこと。
「四年も塹壕にいて、やっと休戦になったのに、まだ向こうに戻れと言われるんだぞ。そりゃ怒るさ。新聞は反乱だなんだと騒いでたが、パブで聞いたら、十人が十人とも兵隊の味方だった」
アシュトンはそこでグラスを置いた。
「で、お前らはいつパリだ」
「来週だ」
「いいなあ。俺も行きたいって部長に頼んだんだが、お前はロンドンで電報を捌いてろ、だとさ。まあ、そのうち呼ばれるだろう。あそこは人手がいくらあっても足りないらしいから」
「ロンドンでは、パリの話はどう言われてるんだ」
「どうもこうも、毎日新聞の一面だよ。ただ、みんなが知りたいことは二つしかない。カイザーをいつ吊るすのか、ドイツにいくら払わせるのか。先月の選挙でうちの首相はその二つを約束して勝ったんだ。ゲデスなんか演説で、ドイツというレモンを種がきしむまで絞ってやる、とまで言った。下宿のおかみさんはそれを新聞で読んで拍手してたよ。息子を二人ソンムで亡くしてるからな」
「ウィルソンは?」
「ああ、クリスマスにはこっちに来てたな。バッキンガム宮殿のバルコニーに国王陛下と並んで、下の群衆が帽子を投げてた。俺も見に行ったよ。みんな、あの男を救世主か何かだと思ってる。もう二度と戦争が起きないように、世界中の国が集まって約束をする。国際連盟だ。……いい話だろう。俺もいい話だと思う」
アシュトンは指先でグラスの縁をなぞった。
「ただな、その晩ここで隣のじいさんに連盟の話をしたら、じいさんは黙って聞いて、最後に『それで、ドイツはいくら払うんだ』と聞いてきた。それだけだ。みんな、両方欲しいんだよ。ドイツを絞り上げることも、もう二度と戦争が起きないことも。それが一緒に手に入ると思ってる」
「手に入らないのか」
「入るかもしれんし、入らんかもしれん。そういうことはパリの偉い連中が考えるんだ。下宿のおかみさんや演説を聞いてるじいさんが考えることじゃない」
そう言って、アシュトンはビールをあおった。
「まあ、復活祭までには片がつくってみんな言ってるよ。夏には条約ができて、兵隊はみんな家に帰って、砂糖も好きなだけ買えるようになる。それでおしまいだ。うちの部長も同じことを言ってる」
私は黙ってグラスを傾けた。
史実で条約が調印されるのは、復活祭よりずっと後の六月の終わりのはずだ。ドイツは払いきれない額を背負わされ、連盟を言い出したウィルソンの国は、結局その連盟に入らない。そして欧州では、もう一度戦争が始まることになる。




