第四話 大陸鉄道ニテ
1918年12月27日 米国ネヴァダ州・大陸横断鉄道
窓の外では、さっきから同じ景色が続いている。雪をかぶった低い山と茶色い荒れ地が交互に流れていき、ときどき思い出したように電信柱が現れては後ろへ飛んでいく。サンフランシスコを出てから三日目になるが、アメリカという国の大きさを、地図ではなく座席の硬さで思い知らされていた。
現代なら飛行機で五時間ほどの距離を、この時代は汽車で五日かけて横断する。八幡光真の記憶はそれを当たり前のこととして受け入れているのに、もう一人の自分がいちいち計算してしまう。だから余計に長く感じるのかもしれない。
向かいの席では、重光さんがサンフランシスコで買った英字新聞を広げている。昨日から数えて、もう三度は読み返しているはずだ。
「重光さん、それまだ読むんですか」
「読むところが残ってるからな」
重光さんは紙面から目を上げずに答える。
私はしばらく窓の外を眺めてから、口を開いた。聞くなら今しかない。大西洋を渡ってロンドンに着いてしまえば、こうして座って話す暇はおそらくないだろう。
「ロシアのこと、どう見てます?」
「ボリシェヴィキか」
重光さんはようやく新聞を畳んで膝の上に置いた。
「勝つだろうな、あれは」
即答だった。こちらが続きを促す前に、重光さんはもう理由を並べ始めている。
「白軍は将軍が多すぎる。一つの軍に将軍が三人いたら、それはもう三つの軍だ。それに比べて赤軍はトロツキーが全部握ってる。しかもドイツと早々に手を打ったおかげで、兵隊をほとんど減らさずに内戦へ回せた。ポートランドの領事館には、シベリアから逃げてきたロシア人の毛皮商がしょっちゅう来てたんだがな、そいつらが口を揃えて言うんだよ。ペトログラードの連中は去年よりずっと元気だ、と。去年よりだぞ? 普通、革命から二年も経てば、どこの国でもくたびれてるもんだろう」
やはり、と言いかけて、私は口を閉じた。
私の知っている歴史では、ロシアは一九一八年の春まで東部戦線に縛りつけられ、そのあとは内戦で国中が焼けた。この世界のソヴィエトは、その「くたびれ」をまだ経験していないのだ。資料を読んで引っかかっていたことを、ポートランドの毛皮商の噂話が裏づけてしまった。
「なんだ、その顔は」
「いえ、思っていたよりずっと早いなと」
「何が早いんだ」
「世の中の動きがですかね」
重光さんは何か言いかけたが、ちょうど列車がカーブに差しかかり、車体が大きく傾いた。膝の上の新聞が滑り落ちそうになり、重光さんはそれを片手で押さえてから、しばらく黙って私の顔を見ていた。
「お前、ベルリンを出てから少し変わったな」
「そうですか?」
「前はもっと......まあいい。変わらん奴よりはましだ」
それだけ言うと、重光さんはまた新聞を広げた。
補給のために駅で列車が停まった。
駅といっても、木造の駅舎が一棟と給水塔があるだけで、そのまわりには何もない。ホームに降りると、乾いた冷たい風が頬を切った。重光さんは「足を伸ばしておけ。この先はまた長いぞ」と言って、ホームの端まで歩いていった。
線路の向こう側で、保線の工夫たちがつるはしを振るっていた。七、八人いて、皆、背が低く、黒い髪をしている。
一人がこちらに気づいて手を止めた。私たちの背広と、ホームに積まれていく全権団の大きな荷物とを見比べている。それから、おそるおそるといった様子で線路を渡ってきた。
「あの、日本の方で、ごぜえますか」
訛りの強い日本語だった。けれどその訛りには、聞き覚えがあった。八幡光真の記憶ではない。現代の、私のほうの記憶だ。お盆に帰省するたび、親戚の年寄りたちが話していたのと同じ抑揚だった。
「熊本出身なんですか」
「へえ、玉名です。旦那さんも九州で?」
「ええ、まあ」
嘘ではないと思う、少なくとも半分は。
男は森田と名乗った。十年前に出稼ぎで渡ってきて、サザン・パシフィック鉄道の保線区で働いているという。いつのまにか重光さんが戻ってきていて、私の隣で黙って話を聞いていた。
「パリの、戦争の後始末の会議に行かれるとですか」
「そうです」
「そりゃあ、えらかことで」
森田さんは帽子を取って、深々と頭を下げた。後ろの工夫たちも、遠くから同じように頭を下げている。私はどうしていいか分からず、同じだけ頭を下げ返した。
「旦那さんがた、ひとつだけお願いのあります」
顔を上げた森田さんは、帽子を両手で握りしめていた。
「こっちじゃ、日本人は土地ば持たれんとです。カリフォルニアでは法律でそう決まって、こんどはほかの州でもそげんなるかもしれんて、みんな言いよります。わしはよか。どうせいつかは国に帰る身ですけん。ばってん、サクラメントにおる女房の実家に、去年、坊主の生まれたとです」
森田さんは懐から写真を一枚取り出した。くたびれた台紙の上で、白い産着の赤ん坊が、こちらを睨むような目で写っている。
「この子は、こっちで生まれたけん、アメリカ人です。アメリカ人として、ちゃんと扱うてもらえるごつ......そういう話も、パリでしてもらえたら、ありがたかです」
私は写真から目を離せなかった。
去年生まれたのなら、この子は二十四歳で一九四二年を迎え排日移民法が適用されるだろう。その年、西海岸の日系人はアメリカ国籍を持つ者も含めて、全員が家を追われる。わずかな荷物だけを持たされて、こことよく似た荒れ地の真ん中に建てられた収容所へ送られるのだ。この子が着ていくのは、たぶん白い産着ではなく、よそ行きの背広だろう。
「......話の出る場は、あると思います」
私に言えたのは、それだけだった。確かに日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃の一文を入れようとするはずだが、それは通らない。
「おお、そりゃあよかった」
森田さんは顔をくしゃくしゃにして笑い、写真を大事そうに懐へしまった。汽笛が鳴った。森田さんはもう一度頭を下げてから線路を渡って戻り、また、つるはしを振り上げた。
動き出した列車の窓から振り返ると、工夫たちは手を止めて、こちらに帽子を振っていた。その姿が荒れ地の色に紛れて見えなくなるまで、私は窓に額を押しつけていた。
「人種の問題か」
向かいの席で重光さんがぽつりと言った。
「あの男の頼みは、正しい。正しいが、こっちの会議で決まるような話じゃない。アメリカの州の法律は、アメリカの州議会が決める。俺たちがパリで何を言おうが、カリフォルニアの農民は聞いちゃくれんよ」
「分かっています」
「なら、いい」
重光さんはそれ以上何も言わなかったが、新聞を広げはしなかった。
その夜、寝台車の上段で、私はいつまでも眠れずにいた。下の寝台で、重光さんが寝返りを打つ気配がする。夕方、揺れる食堂車への通路を、重光さんは手すりにも掴まらずにスタスタと歩いていった。十三年後、上海で失うはずの右脚で。
蔵で気を失ってから一か月半、私は八幡光真の仕事を借りているだけだと思ってきた。この先に何が起きるかは知っている。けれど、それは知っているだけで、私がどうこうする話ではない、と。
だが、この世界のロシアは、私の知っているロシアより元気だという。歴史はもう、私の知っているとおりには進まない。何もしないということは、知っている結末を見送ることではなくなった。知らない結末に向かって、目をつぶって進むということだ。
欧州のことは、たぶん私にはどうにもならない。二度目の大戦も、私が何をしようが起きてしまうのかもしれない。けれど、日本がそこへ自分から飛び込んでいくかどうかは、私が決められるかもしれない。
あの甲板に、この人を杖で上がらせたくない。あの赤ん坊に、背広を着せて砂漠へ行かせたくない。
書類は書けるし、電報も読める。八幡光真が三十年弱かけて身につけたものと、私が知っている約百年分の結末。その二つを合わせれば、何もできないということはないはずだ。
――少なくとも、目をつぶって進むのはやめよう
列車はユタに入り、窓の外の雪が少しずつ深くなっていった。




