第三話 巴里講和会議日本全権委員団
1918年12月20日 太平洋外洋・地洋丸 パリ講和会議日本全権委員団第一陣
甲板から見渡せば、どこまでも続く太平洋と、雲一つない青空が広がっている。景色だけを見れば、これ以上ないほど穏やかな航海だった。
しかし現代のようなスタビライザーなどないので船の揺れは、思っていた以上に大きい。波を受けるたびに船体が左右へ傾き、そのたびに身体も持っていかれる。
一応、八幡光真としては、この程度の揺れには慣れているらしい。
これまでにも何度か船には乗ってきたのだろう。
だが、現代の自分からすれば、船がここまで揺れるということ自体が久しぶりだった。
現代の自分、という言い方も、もう少し妙な感じがする。あの蔵で気を失ってから、もう何日経っただろうか。八幡光真としての記憶は、少しずつ俺の中に馴染んできていて、外務省での仕事もまるで最初から自分が経験してきたことだったかのように思えてくる。
それでも、まだ時々ただの大学生だったんだよなと思ってしまう。
そんなことを考えながら、海を眺めていた。
日本を発つ前のことも、ときどき思い出す。八幡光真はこの十二月に、許嫁と祝言を挙げることになっていた。随員に決まって、延期を詫びる手紙を書いたのは私だ。八幡としては書きながらひどく申し訳ながっていたのに、私の方はどこかで少しほっとしていた。
そして、もう一つずっと引っかかっていることがあった。
ずっと引っかかっていることがあった。
日本を出てから、暇さえあれば資料を読んだり、記憶を漁っていたときにどうしても説明のつかない違いを見つけていた。
ロシアだ。
自分の知っている歴史では、ロシア帝国は東部戦線でドイツ軍と激しく戦い続け、莫大な人的・物的損害を出した。その末に1917年に二度の革命が起こり、ボリシェヴィキが政権を握り、ドイツとの講和へ向かうはずだった。
この世界のロシアは、1916年の初頭には事実上、第一次世界大戦から離脱する方向へ動いていた。しかも、その後の資料を見る限り、ロシア――いや、革命後のソヴィエトが受けた損害は、俺が知っている歴史より明らかに少ない。
自分が体験した現代とこの世界は違う世界線なのか。それともソ連に......
「八幡君」
背後から声を掛けられ、振り返ると牧野次席が立っていた。
「少し時間をもらえるかね」
「もちろんです」
牧野に呼ばれ、甲板を後にする。牧野全権団次席は航海中の間、随員一人ひとりと話をしているらしい。
西園寺主席全権は高齢であり、体調も万全ではない。そのため第二陣に乗船する。実質的には牧野次席が今回の講和会議における日本側の中心となることは、八幡も理解していた。
船内の一室に入ると、牧野は椅子を勧めた。
「八幡光真君だね」
「はい」
「君はパリだけではなく、ドイツでの勤務経験もあると聞いている」
「はい。欧州大戦の直前までベルリンの大使館に勤務しておりました」
「今回の講和会議でも、その経験を生かしてもらいたい。期待しているぞ」
「はっ、ありがたいお言葉です」
こういう時の受け答えも、八幡光真としての記憶が勝手に出てくる。自分でも不思議なくらい自然だった。牧野は一度頷くと、机の雑多な書類の中から大きめの封筒を取り出す。
「それから、これを」
受け取って見ると、封筒には丸で囲まれた文字で極秘と書かれており、中に入っていたのは
『講和ニ関スル方針』と題された書類だった。
「今後の日本政府の大まかな方針だ。今のうちに目を通してくれ」
「承知しました」
紙をめくっていくが書かれていた内容は、概ね予想していたものだった。
まず第一に、講和会議において十分な発言権を確保したうえで基本的には連合国、特に英国と歩調を合わせていく。
ウィルソンが提唱した十四箇条は、秘密外交や海洋の自由、経済障壁の撤廃といった部分については消極的だが、その他は概ね追随するらしい。
そして日本にとって最も重要な問題の一つが、山東だった。ドイツが中国に持っていた権益について、必ずしも租借地そのものに固執するわけではなく鉄道や鉱山などの利権を確保し、実質的な権益を維持する。
南洋諸島については、完全な領有を目指したうえで、ドイツ系の民間企業が持つ権益についても、日本側へ移管する方針らしい。
他に特筆すべきなのは国際連盟の設立に関連して、人種差別に関する問題を取り上げる。大まかにまとめれば、そんなところだった。
概ね史実と変わらない主張だとは思うが、山東を始めとして大陸政策を続行するのはアメリカに警戒されるという点で慎重になるべきだとは思う。中国も形式上は連合国側であり戦勝国なのだ。
「読んだか?」
牧野の声で我に返った。
「はい、大体は読み終わりました」
「そうか」
牧野は満足そうに頷いた。
「私としても若い官僚には期待している。この大戦が終わった後の国際秩序を、我々は守っていかなければならない」
「はい」
「頑張ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
12月24日 アメリカ合衆国・サンフランシスコ港
アメリカ西海岸の大都市、朝霧が晴れたばかりの港には、無数のマストが立ち並んでいてその間を縫うように蒸気船が行き交い、煙突から黒い煙を吐き出している。
ようやく船から降りられたが、まだ少し身体に船酔いが残っている気がする。
港に足を下ろすと全権団を迎えるため、アメリカの大使館や領事館から派遣された外交官たちが集まっている。
その中には、見覚えのある顔もあった。
「久しぶりだな。ドイツ以来か」
「......重光さん?」
「おう」
重光葵。
ベルリンの大使館で一緒に仕事をしていた外交官だ。1914年、開戦直前までドイツで勤務していた。その後、日独の国交が断絶して中立国を経由して日本へ戻ったところまで一緒だったのだ。
「ご無沙汰しています。確か、重光さんはアメリカで領事をされていたんでしたっけ?」
「ああ、そうだ」
重光は懐かしそうに笑った。
「ただ今回の全権団には、お前と同じでドイツや欧州をよく知っていて、ドイツ語を話せる人間が欲しかったらしい。そこで俺も呼ばれたってところだ」
「なるほど」
「お前も本省にいたら指名されたんだろ?」
「どちらかといえば頼み込んだんですけどね」
「こんな随員なんて面倒だろうによく志願したな」
そう答えながら、少し妙な気分になる。
重光葵は自分が知っている歴史では、後に外務大臣にまで登り詰める人物だ。そんな人物が、今は目の前で普通に話している友人なのだ。
これもまた、八幡光真としての人生なのだろう。
「今回の講和会議、どう見ます?」
自分が尋ねると、重光は少し考えた。
港の向こうを眺めながら、口を開く。
「去年発表されたウィルソンの十四箇条があっただろう
アメリカは、概ねあれに従うつもりらしい」
やはり。
「とはいえドイツが猛反発しているし、それに連合国の中で完全に意見が一致しているわけでもない」
重光は苦笑した。
「まあ、面倒なことにはなるだろうな。
その辺は、本省で情報を集めていたお前の方が詳しいんじゃないか?」
「うーん......どうでしょうね」
思わず曖昧に答えてしまう。
「まあ、積もる話もあるだろう」
重光が笑う。
「歓迎会と、アメリカ側との会議を挟んだら、おそらく大陸横断鉄道に一緒に乗ることになる」
「そうですね」
「その時にゆっくり話そうじゃないか」
「ええ、ぜひ」




