第二話 臨時外交調査会ノコト
1918年11月13日 東京・霞が関 外務省政務局第二課
今ごろ、首相や外務大臣を中心とした臨時外交調査会が開かれているはずだ。ドイツの休戦受諾は、欧州で四年以上続いた戦争の終わりを意味すると同時に、これから始まる新しい国際秩序の始まりでもある。日本政府もまた、そのために動き始めていた。そして、その動きのいちばん下で土台を支えているのが、この第二課だった。
中央に置かれた大机の周りには、私や高輪、課長を含めた官僚が数名と、庶務が十数名。数日前まで元気に廊下を走り回っていた男たちが、今は死体のように椅子や床に転がっている。
「つ、疲れた......」
「もう紙を見たくない」
「昨日だけで、何枚書いたんだ......」
誰も彼もが疲れ切っていた。かくいう私も、机に突っ伏したまま起き上がれずにいる。この数日間、ひたすら資料を集め、読み、整理し、必要な部分を抜き出して、会議用の資料にまとめ続けた。赤色革命とシベリア出兵。アメリカ大統領ウィルソンの十四か条。日英同盟。青島と山東の問題。どれもこれも、今後の日本外交を考えるうえで無視できないものばかりだ。現代なら検索欄に単語を打ち込めば数秒で出てくる情報も、ここでは一枚一枚紙をめくって探すしかない。右手の中指には、ペンだこが一つ増えていた。
ようやく皆の顔が少しずつ上がってきたころ、武田課長がゆっくりと立ち上がった。
「まずは資料集めと会議資料の作成、ご苦労だった」
その一言で、部屋の空気が少しだけ緩む。
「まだ始まったばかりだがな」
次の一言で、全員の顔が曇った。
「私の見立てでは、おそらく米英仏を中心に、パリで講和会議が開かれることになるだろう。日本も当然参加して、アジアでの利権を確保しようと動くはずだ」
武田課長は机の上の資料を一枚手に取った。
「ドイツとの講和だけではない。戦争で生じた領土の問題、植民地の問題、それに戦後の国際秩序まで議題になる可能性がある」
私は黙って聞いていた。これから始まるのは、後世の歴史の教科書にも載るパリ講和会議だ。日本はそこで山東の権益を引き継ぎ、南洋諸島を委任統治領として手に入れると、少なくとも私の知っている歴史ではそうなる。
「これから我々は、会議の結果を踏まえて講和の草案作り、使節団の人選、渡航その他の手配、各国への連絡や根回しを担当することになる。それを覚悟したうえで、各自休養を取ってくれ」
「はい......」
力のない返事がいくつか返った。
「では、今日は解散」
その言葉とともに、部屋にいた者たちが一斉にのろのろと動き始めた。ようやく休める。
「八幡先輩、飯行きましょうよ」
高輪に声をかけられて、私は重い腰を上げた。
役所の近くの食堂で向かい合って飯を食べていると、高輪が箸を止めて、大きなため息をついた。
「うえぇ、仕事が増えますね」
「そうだな」
「これから忙しくなりますよ」
「......そうだな」
「こんな大きな戦争、今までなかったっすからね。講和会議なんて、何をするのか全然見当がつきませんよ。先輩はどう思います?」
「ん?」
「いや、講和会議のことっすよ」
「すまん、別のことを考えていた」
私は味噌汁の椀を置いて、少し考えてから口を開いた。
「イギリスもフランスも、戦費は馬鹿にならないはずだ。だから中央同盟国から賠償金をふんだくろうと躍起になるだろうな」
「イギリスなんかはアメリカや日本から相当借りてましたしね」
「とはいえ、ドイツやオーストリア=ハンガリーだけじゃ到底返せない額になる。払わされる側は不満を募らせるし、そこからさらに話がこじれそうな気がする」
「考えただけで嫌になる予測っすね。俺なら、あんな戦争が終わったら、もう戦争なんてしたくないと思いますけど」
「みんながみんな、そうだといいんだがな」
―――
1918年11月下旬 同
数日後、早くもパリへ向かう全権団の随員の選定や持って行く書類の整理が始まり、外務省は忙しさを取り戻していた。その合間を縫って、私は武田課長の執務室を訪ねた。
「お願いがあるのですが」
「珍しいな。言ってみろ」
「全権団のことですが......」
一瞬、言葉に詰まる。
「私も、行きたいです」
武田課長は黙った。書類をめくっていた手が止まっている。
「お前は若いだろう」
「確かに、そうですが」
「二十八だぞ」
「はい」
「講和会議だ。遊びに行くわけではない」
「承知しています。私はこれまで、イギリスとドイツで勤務してきました」
言いながら、自分の記憶を探る。ベルリンの大使館で過ごした日々、ロンドンで外交官補をしていた頃のこと。どれも、たしかにこの身体が経験してきたことだった。
「現地の外交官や各国の情勢について、多少なりとも知識があります。講和会議では、そうした経験も役に立つと思います」
「......続けろ」
そこで私はベルリンで先輩だった重光葵の顔を浮かべる。記憶が正しければまだ31歳だったはずだ。
「それに、先発団の名簿には、在米の重光領事など若い外交官の名前もありました。私だけが若すぎるということでもないでしょう」
武田課長はしばらく私の顔を見ていた。やがて小さく息を吐いて、机の上の書類に目を落とす。
「たしかにな。一応、局長あたりには話しておいてやる」
「では......!」
「ただし、連れていけるとは限らんぞ」
思わず顔が緩んだ。
「ありがとうございます!」
「礼を言うのはまだ早い」
武田課長は苦笑した。
「お前は仕事ができる。だからこそ私としてはもう少し手元で成長するところを見ていたかったんだがな」
その言葉に、胸が少しだけ痛んだ。この人は八幡光真を評価してくれている。けれど、それは記憶の中の八幡光真が何年もかけて積み重ねてきたもので、私が蔵で気を失ったついでに手に入れたものではない。ならば、せめてそれに見合うだけの働きはしなければならない。
「必ず、役に立ってみせます」
「その意気だ」
武田課長は、少しだけ笑った。
こうして、パリ講和会議への道がほんの少しだけ開いた。




