第一話 独墺土トノ休戦条約締結ノ件
1918年11月11日 東京・霞が関 外務省政務局第二課
あたりがなんだかうるさい。そんなことを思いながら、重たいまぶたをゆっくりと開けた。
最初に目に入ったのは、見知らぬ天井だった。少し視線を動かすと、古びたレンガ造りの壁が見え、その下に年季の入った木の机がいくつも並んでいる。机の上には書類が山のように積まれていて、紙は今まで触ったこともないほどざらついており、ところどころに外国語らしき文字が並んでいた。
何よりおかしいのは、周りにいる人間だった。皆が妙に古臭い背広を着ている。いや、古臭いというのは失礼か。私が知っている現代のスーツとは、仕立ても着こなしも何もかもが違うのだ。部屋の隅には、黒い箱から何本も線が伸びた奇妙な機械が置かれていて、ときおりカタカタと音を立てている。
「電信......?」
思わず口に出した、その瞬間だった。
――そうだ。私は八幡光真だ。
その名前と一緒に、外務省で働いてきた記憶が堰を切ったように蘇ってくる。入省した年のこと、昔に赴任していたベルリンの大使館の階段の軋み、ロンドンの下宿の女主人の顔。ところが、ついさっきまで九州の蔵で整理をしていた大学一年生の記憶も、同じくらいはっきりと自分のものとして残っていた。
では、今の私は何なのだ。八幡光真として外務省に勤めてきた記憶が本来のもので、大学生だった自分のほうが夢なのか。それとも、あの勲章を触ったせいで過去に飛ばされたのか。あるいは、未来の誰かの記憶が、この男の頭の中に入り込んでしまったのか。考えれば考えるほど分からなくなる。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「八幡先輩!」
飛び込んできたのは若い男だった。背広は乱れ、髪も崩れたまま、肩で息をしている。その顔を見た瞬間、また頭の中に名前が浮かんだ。高輪貞昌。同じ第二課にいる後輩だ。
「聞きましたか、八幡先輩!」
「......」
「先輩!」
「ちょっと待て。寝ぼけてるみたいで頭が痛いんだ。だから叫ばないでくれ」
「そんなこと言ってる場合じゃないっすよ!」
高輪は私の机に両手をつき、息を切らしながら言った。
「ドイツが休戦したんですよ! 今さっき電報が来たんです!」
電報、という言葉に一瞬引っかかって、それからすぐに納得した。インターネットはおろか、電話すらろくに普及していない時代なのだ。
「ドイツが、休戦?」
「そうです! 欧州大戦が、ついに終わったんですよ!」
欧州大戦。そう呟きながら机の上の書類を一枚手に取ると、右上に大正七年十一月十一日と書かれている。
「......第一次世界大戦のことか!」
「だ、第一次?」
高輪が首を傾げた。
「いや、そんな大げさなもんじゃないですけど」
その言葉を聞いて、背筋が寒くなった。私の知っている歴史では、この戦争は「第一次世界大戦」と呼ばれている。けれど、この時代の人間にとっては、まだただの「欧州大戦」なのだ。二度目があることを、ここにいる誰も知らない。
「待て。ということは、日本は戦争に勝ったのか?」
「一応も何も、大勝ですよ。ドイツの租借地も、南洋の島々も占領したじゃないですか」
高輪は当たり前のことのように言う。日英同盟を理由にドイツへ宣戦し、青島を攻め落とし、赤道以北の南洋諸島を占領した。そのドイツが敗れて、日本は戦勝国の側に立った。その歴史が今まさに目の前で起きているのだ。
「.....そうか」
思わず呟いた私を置いていくように、高輪は話を続けた。
「だから先輩、早く動いてください!」
「え?」
「戦後処理ですよ。ドイツとの講和もあるでしょうし、これから講和会議も開かれる。日本としてどうするのか、早く指針を決めて動かなきゃいけないんですから」
「いやいやいや」
私は思わず両手を上げた。
「そんなこと言われても、指針を決めるなんて私にできるわけが――
「何言ってるんですか。先輩が決めるんじゃないですよ。原首相とか内田外相とか、そういう上の人たちが決めるんです。俺たちは、そのための材料を集めるんでしょうが」
呆れたように言われて、ようやく思い出した。そうだった。八幡光真はただの事務官で、政策を決める立場にはない。
「ほら先輩、ぼーっとしてないで」
「ちょっと待て。何を集めるんだ?」
高輪が目を丸くする。
「そりゃあ、各在外公館から届いた電報、欧州各国の新聞、これまでの欧州大戦の調査報告書、国際法の条文、それから――
「待て待て待て」
聞けば聞くほど頭が痛くなってくる。
「それを、今から全部?」
「今から全部です」
「嘘だろ」
「嘘じゃないっすよ。ほら!」
高輪は私の腕を掴んで、そのまま引っ張った。
「おい、引っ張るな!」
「仕事です、仕事!」
半ば強引に部屋から連れ出され、その日は結局、十数時間にわたって資料室の棚と格闘することになった。棚の上から下まで綴じ込みを引っ張り出し、目当ての電報を一枚ずつ探していく。
電子化されていれば、こんなに時間はかからないのに。




