第十二話 道義上ノ威信
1919年2月14日 同
翌日の午後、ウィルソン大統領は総会で連盟規約の草案を読み上げ、その夜のうちにパリを発った。議会の会期末に合わせて、一か月ほどアメリカに戻るのだという。
ウィルソン大統領のいないパリは、少し気の抜けた空気になった。大きな決定は、彼が戻ってくる三月の半ばまで持ち越しになる。つまり、今から一か月は、東京と電報をやり取りする時間があるということだ。
書き上がった意見書を、どうやって牧野次席まで届けるか。一介の外交官が全権に直接紙を渡すのは、筋が違う。とはいえ牧野次席の側近に渡しても止められるだけかもしれない。一晩考えた末に、私は牧野次席の娘婿の部屋の扉を叩いた。
吉田さんは相変わらず窓際で葉巻をくわえていたが、今日はタイプライターではなく、ロンドンから届いたらしい缶詰のラベルを眺めていた。
「何だね」
「これを、次席に読んでいただきたいんです」
吉田さんは紙の束を受け取ると、最初の一枚をめくり、二枚目をめくり、三枚目の途中で手を止めた。
「長い」
「すみません」
「それからこんな提案、陸軍が怒るに決まっとるだろう」
吉田さんは紙束を膝の上に置いて、葉巻を灰皿に戻した。
「ただ陸軍が怒るなら、これは正しいってことだな......持っていってやる。ただし、義父が読んで破り捨てても、私は知らんぞ」
それだけ言うと、吉田さんはまた缶詰のラベルに目を戻した。どうやら中身は、英国風の燻製ニシンらしかった。
1919年2月16日 同
牧野次席から呼び出しがあったのは、それから二日後の夕方のことだ。
次席の部屋は、本部の中では一番広い部屋だが、それでも書類の山のせいで狭く見える。机の上には、私の意見書が置かれていた。何か所かに、鉛筆で細い線が引いてある。
「掛けたまえ」
言われるままに椅子に座ると、牧野次席はしばらく黙って、意見書の最後の一枚を眺めていた。
「これは、君が一人で書いたのかね」
「細かい部分は重光さんに教わりました」
「そうか」
牧野次席は意見書を机に置き、両手を組んだ。
「八幡君は、アメリカに行ったことはあるかね」
「移動のためにサンフランシスコから、汽車で横断しただけです」
「私は子供の頃に、向こうで暮らしていた。岩倉公の使節団にくっついて海を渡ってね。十一の歳だった。そのままフィラデルフィアの学校に入れられて、しばらく向こうの子供たちと一緒に勉強した。英語もろくに話せない、髷を落としたばかりの東洋の子供だ。どういう扱いを受けたか、想像はつくだろう。石を投げられたこともあるし、校長先生に家に招かれて、ずいぶん親切にしてもらったこともある。同じ町の、同じ週の出来事だ。私は子供心に、あの国の人たちは、嫌いになるには親切すぎるし、好きになるには少々乱暴すぎると思ったものだよ。それから五十年近く経つが、あの国については、今でも同じことを思っている」
牧野次席はそこで一度言葉を切り、窓の外に目を向けた。私は何も言わなかった。言うべきことが見つからなかった。
「人種の平等というのはね、八幡君。東京の多くの人間にとっては、アメリカやオーストラリアで日本の移民が締め出されている問題のことだ。無論それも大事だが、私にとっては、もう少し別のものなのだよ。長いことそんな理想論には実利がないと思っていたが......君の紙には、道義上の威信と書いてあった。」
「......出過ぎたことを書きました」
「出過ぎてはいない」
牧野次席は私の意見書を手に取り、鉛筆の線が引かれた箇所を指でなぞった。
「一つ聞こう。君は、原さんがこれを呑むと思うかね」
原敬。平民宰相と呼ばれる、今の首相だ。現代の教科書では、日本で初めての本格的な政党内閣を率いた人物として、太字で載っている。そして、三年後の十一月に東京駅で刺される人でもある。
「呑むと思います」
「理由は?」
「原首相は、アメリカとの関係を比較的重く見ている方だと聞いています。それに、陸軍の言いなりになる方ではない。代価を取って、国内に説明が立つなら、たぶん損得で判断されると思います」
牧野次席は、しばらく私の顔を見ていた。それから、ほんの少しだけ口の端を緩めた。
「損得で判断される、か。原さんが聞いたら、たぶん喜ぶだろう」
牧野次席は意見書を揃えて、机の端に置いた。
「ウィルソンが戻るまで、一か月ある。その間に、東京の腹を決めてもらわねばならん......電報の文案は私が書く。君は、この紙から数字と条件だけを抜き出して、一枚にまとめておいてくれたまえ。鉄道の代価の見積もりは、専門の者に計算させる。それから」
牧野次席は、少しだけ声を落とした。
「この意見書が君の書いたものだということは、当分、私と重光君の他には言わないように。君のためだ」
「はい」
部屋を出て廊下を歩きながら、私は自分の手が少し震えているのに気がついた。
1919年2月19日 同
その朝、ホテル・ブリストルの廊下を、誰かが叫びながら走っていった。
「クレマンソーが撃たれた!」
食堂にいた全員が立ち上がった。自宅を出たところを、若い男に拳銃で撃たれただの、車の中にいたところに何発も撃ち込まれただの、一発が胸の近くに入っただの、けれど命に別状はないらしいだの、分からないだの、情報が錯綜している。
アナーキストの仕業だという話が、昼前には広まっていた。講和会議の議長が、会議の真っ最中に、パリの真ん中で撃たれたのだ。各国の代表団は一斉に警備を増やし、ホテル・ブリストルの玄関にも、午後からフランスの憲兵が二人立つようになった。
騒然とした本部の中で、牧野次席の部屋の扉だけは、朝から一度も開かなかった。
夕方になって、ようやく扉が開いた。出てきたのは吉田さんで、手には電報の原稿を持っている。
「八幡君。これを暗号係に持っていってくれ。至急だ」
受け取った原稿の一枚目には、牧野次席の丁寧な字で、宛先が書かれていた。内田外務大臣。その下に、原内閣総理大臣と並べて書いてある。
私はそれを抱えて、暗号係の部屋へ向かった。廊下の窓の外では、憲兵が寒そうに足踏みをしている。クレマンソーがどうなるのか、この会議がどうなるのか、今夜のパリの誰にも分からない。それなのに、この電報が東京で何を引き起こすのかだけは、手に取るように分かる気がした。
陸軍は怒るだろう。吉田さんの言うとおりに。
暗号係の扉を叩きながら、私は、自分がもう知っている歴史の外側に一歩足を踏み出してしまったのだということを、ようやく実感し始めていた。




