第九話 顧維鈞ノ弁論
1919年1月27日 ケ・ドルセー フランス外務大臣執務室
十人会議の会場は、開会式の時計の間ではなく、フランス外務大臣ピションの執務室だ。世界を決める会議がこんな部屋で開かれているのかと最初に足を踏み入れたときは拍子抜けした。壁には古いタペストリーが掛かり、窓には分厚いカーテンが引かれていて、部屋の奥の暖炉では薪が盛大に燃えている。そこに十人の全権が肘掛け椅子を並べ、その後ろに各国の随員や書記、通訳、専門家がぎっしりと詰めかけるので、部屋の空気はいつも暑くて薄い。書記として牧野次席の後ろの椅子に座らされた私は開始から三十分でもう額に汗をかいていた。
日本の番が回ってきたのは、午後も遅くなってからだ。
牧野次席は立ち上がりもせず、手元の書類を静かに読み上げていった。膠州湾の租借地と、それに付随する鉄道・鉱山その他の権益は、ドイツから無条件で日本に譲渡されるべきである。その根拠は、日本が実際に武力でこれを攻略した事実、一九一五年に日中間で結ばれた条約、そして戦時中に英仏伊と交わした了解にある。赤道以北の南洋群島についても同じく、日本への譲渡を求める。
内容に間違いは一つもない。条約の条文も日付も、東京で私たちが徹夜で確かめたものだ。牧野次席の英語は丁寧で、発音も悪くない。それなのにロイド・ジョージは窓のほうを見ており、クレマンソーは退屈そうに手袋をいじっている。ウィルソンだけが、長い顔をまっすぐ牧野次席に向けて、一言も聞き漏らすまいとしていた。
読み上げが終わると、ウィルソンが口を開いた。
「日本と中国の間の取り決めについて、その文書を会議に提出する用意はおありですか」
牧野次席は少し間を置いてから、東京と相談したうえでお答えしたいと返した。ウィルソンは頷いて、それ以上は何も言わなかった。
1919年1月28日 同
翌日の執務室は、前の日よりもさらに混んでいた。中国、いや顧維鈞の意見陳述があると聞いて、どこの代表団も随員を多めに送り込んできたらしい。私は昨日と同じ椅子に座り、昨日と同じように汗をかきながら、部屋の反対側に座る二人の中国代表を見ていた。
最初に指名されたのは年かさの王正廷のほうだったが、彼は短く挨拶をしただけで、隣の若い男に発言を譲った。
顧維鈞は立ち上がった。原稿は少なくとも私の席からは見えなかった。
「議長閣下、ならびに各国全権の皆様。本日、中国の立場を申し述べる機会を賜りましたことに、心から感謝いたします」
最初の一文を聞いただけで、部屋の何人かが姿勢を変えた。牧野次席の英語が、丁寧に書かれた英文を丁寧に読み上げる英語だとすれば、顧維鈞の英語は、話すために生まれてきた英語だった。抑揚があり、間があり、相手の目を見て話している。
山東省の人口は三千六百万。その住民は、言葉においても、民族においても、宗教においても、完全に中国人である。鉄道は省の心臓部を貫き、首都北京へ通じる道を封じている。外国がこれを握ることは、中国の喉元に刃を突きつけることに等しい。
そう雄弁に述べた後、彼は少しだけ声の調子を落とした。
「山東は、中国文明の揺り籠でございます。孔子と孟子が生まれた土地であり、中国の民にとっては聖地と申し上げてよい。皆様のうち、キリスト教を信じる方に、エルサレムを他国に譲れと申し上げる者がおりましょうか。中国人が山東を手放せないのは、それと同じことなのです」
部屋の中で、誰かが小さく息を吐いた。ウィルソン米大統領の秘書官らしい男が、夢中で鉛筆を走らせている。
顧維鈞は続けた。中国は一九一七年にドイツへ宣戦しており、その時点でドイツが中国に持っていた権益はすべて消滅した。ゆえに、それは日本を経由せず、直接中国に返されるべきである。一九一五年の日中条約は、最後通牒という強迫のもとで結ばされたものであり、中国国民はこれを正当なものと認めていない。
話は二十分ほどで終わった。顧維鈞が一礼して椅子に座ると、部屋には一瞬、完全な静けさのあと驚嘆と戸惑いの入り混じったざわめきが沸き起ころうとしていた。
そこに牧野次席が発言を求めた。
日本は、中国との間に一九一八年に交わした交換公文......対華21ヶ条を持っている。その中で中国政府は、山東の鉄道に関する日本の提案に「欣然同意《喜んで同意》」している。強迫ではない。戦争が始まって三年以上経ってから、中国政府が自ら同意したものである。
法的にはこれ以上ない反論だった。しかし「欣然同意《喜んで同意》」という言葉が通訳を経て英語になった瞬間、部屋の何人かがかすかに眉を上げた。喜んで同意した。三千六百万人の聖地を、喜んで。顧維鈞の演説を聞いた直後の耳には、その言葉は、日本がどれほど強く中国の腕をねじり上げたかの証拠のようにしか響かなかった。
会議が終わって廊下に出ると、各国の随員たちが顧維鈞の周りに集まって握手を求めていた。顧維鈞は一人ひとりに丁寧に応じながら、一度だけ、廊下の端に立つ日本の随員の一団のほうを見る。
その目に勝ち誇った色がなかったことのほうが、私にはよほど堪えた。
1919年1月29日 ホテル・ブリストル
翌朝、本部の食堂のテーブルは新聞で埋まっていた。パリで発行されている新聞のすべて、それにアメリカやイギリスの新聞に関する電報もある。松岡さんがそれを一枚ずつ広げては、次から次へと床に落としている。
松岡洋右。全権団の報道係で、若い頃にアメリカのオレゴンで苦学したという、三十代も終わりの外交官だ。本部の誰よりも声が大きく、誰よりも喋る。
「見ろ、これを見ろ。『若き中国の雄弁、パリを魅了す』。こっちは『日本、平和会議で泥棒』だ。なにが泥棒だ、戦利品だぞ戦利品。青島の要塞に何人の日本兵が突っ込んだと思ってるんだ。こいつら日本のことを火事場泥棒か何かだと思ってる。いや、実際そう書いてある新聞もあるんだ、この漫画を見ろ。着物を着た猿みたいなのが、中国の爺さんの懐に手を突っ込んでる。これが俺たちだ。これが、世界を決める十人のうちの二人を出してる国の扱いだ」
誰も返事をしなかった。重光さんは黙ってコーヒーを飲み、吉田さんは例のパンをまた親の仇のような目で眺めている。私は床に落ちた漫画を拾い上げた。着物姿の出っ歯の男が、辮髪の老人の懐に手を突っ込んでいる。教科書で見たことのある種類の絵だ。
「アメリカの新聞ってのはな、八幡」
松岡さんが私の手元に気づいて、今度はこちらに話を向けてきた。
「正しいかどうかで記事を書くんじゃない。面白いかどうかで書くんだ。俺はポートランドで皿洗いをしながら、毎朝ゴミ箱から新聞を拾って英語を覚えた。だから分かる。アメリカ人は『かわいそうな弱い奴が、強い奴に一発かます話』が何より好きなんだ。西部劇って知ってるか?
顧維鈞は、同じことをやったんだ。あれは議論じゃなくて演説なんだよ。記者は何も考えずに、あいつの言ったことをそのまま書けばいい。それに比べてうちは何だ。一九一五年の条約第何条、一九一八年の交換公文。そんなもの、どこの記者が見出しにする。『日本、条文を読み上げる』か? 誰が読むんだ、そんな記事」
「松岡さん、声が大きいです」
「大きくもなるさ。俺は開会式の晩から毎晩、東京向けの電報を書いてたんだぞ。日本は十人会議で堂々たる地位を占めた、ってな。今ごろ東京の新聞は、それを一面に載せてる。それだってのにパリの新聞には、猿の漫画が載ってる。同じ日の、同じ会議の記事がだ」
松岡さんはそこまでまくし立ててから、急に黙った。床に散らばった新聞を見下ろして、それから、ずいぶん低い声で言った。
「......俺が間違えてたんだ。電報を打つ相手を」
誰も何も言わなかった。いつもなら三十分は喋り続ける人が、それきり椅子に腰を下ろして、冷めたコーヒーをすすっている。そのほうがさっきまでの大声よりもずっと、食堂の空気を重くしている。




