08 公爵様への疑念、そして婚約成立
南領に来てから2週間が経過した。
王妃教育もなく、王太子執務の補助もなく、祝賀会の仕切りもしなくて良い。楽ではあるけれど、暇だった。
のどかな南領で、仕事もなく、婚約を申し込んできた相手といるのだから連日デート三昧かと思いきや、私たちが会うのは屋敷の中だけだった。
しかも「醜聞のないように、とお父上から言われていますので」と、ノイベルク公爵は私のいる別邸には留まらず、貴族向けの迎賓館に滞在している。湖畔は保養地としても人気で、迎賓館はお客様をお招きしたときのために何代か前にシラーズが建てたものだ。
日に一度、ノイベルク公爵は約束した時間に別邸を訪問してくれ、私とともに食事やお茶をする。その時の公爵は、とても紳士で、お話しも楽しくって、私は毎日、彼が来るのを朝から心待ちにしていた。けれど食事やお茶が済むと公爵はあっさり迎賓館に戻ってしまう。
「私がいると別邸の使用人も気を遣いますし、貴方もくつろげないでしょう」
などと言うのだけれど、私はだらだらするよりどきどきしたい。勇気を出して「たまには遠出でも」とこちらからお誘いしても「まだ婚約の許可が下りたわけではないので」と正論で断られてしまう。
『婚前旅行にも丁度いいですしね』
そんなことを言っていたくせに、婚前旅行らしいことは何ひとつしていない。詐欺だあ。
南領まで送ると言ってくれた時にはあんなに強引で情熱的だったのに。いやあれは石への情熱か。もっと婚約を渋れば良かったのかしら。でもそんな駆け引きなど私にはできない。
悶々としているのには訳があった。毎日来ていたノイベルク公爵が一昨日から別邸に姿を現していないのだ。しばらく南領を離れると、迎賓館の支配人づてに聞いていた。
急にお仕事が入ってしまったのだろうか。
「女じゃないですか?」
口さがない別邸のメイドが言う。子どもの頃から保養に訪れるたびいっしょに遊んでいた仲良しだ。大人のいない場で、この子はいつもこんな調子だった。私はこのメイドが好きで本邸に連れて行きたかったが「マナーがちょっと」と家令に渋られてしまい、本人も気楽な別邸での仕事を希望したので、現職に至る。
「エマ、なんてこと言うの。公爵様はそんな方ではないわ……たぶん」
「よく知りもしないで婚約をお受けするからですよ」
「ふだんから誠実な方よ」
「貴族ですよ?しかも公爵でしょ。なんとでも化けられますよ」
エマはテラスで私にお茶を入れながら言う。
「典型的なダメ男ですけど、殿下のほうがわかりやすくて良かったと私は思いますけどね……ってなんかすごい嫌そうな顔ですが」
「あの人、祝賀会で私の胸ばかり見ていたわ」
「突然出現したお嬢様の胸を見るなと言うほうが酷ですよ?ありがちな年若い男子の反応じゃないですか」
「公爵様は見なかった」
「そりゃ相当なむっつりですね」
「違うわ、彼は紳士なのよ」
さっきからエマは突っかかってくる。
「エマは公爵様が嫌いなの?」
「だってお嬢様をほったらかしにしているから」
「ジークフリートだって、ずっとほったらかしだったわよ?」
「それ言われるとなんも言えないですね、不憫すぎて」
エマは哀れみの目で私を見たが、すぐ本題に引き戻した。
「というかですね、わざわざここまでついてきて、こんな可愛いお嬢様を前に、誘いもせず手も出さない時点で相当怪しいんですよ。どこかで発散してるんじゃないですか。領内だったら足がつくのでお調べしましょうか?」
「や、やめて!」
エマの生々しい発言に赤くなったが、私は体裁を整えて咳払いする。
「そもそも、私と公爵様の婚約は取引なのよ」
「取引ねぇ」
「内容は詳しく言えないのだけど」
「取引だろうが、今この状態をお嬢様は寂しく思っている。それは事実でしょう?」
エマに言い当てられて、私はついムキになった。
「公爵様は私を女性として選んだわけじゃないのよ」
「そーなんですか」
エマの棒読みが腹立たしくて言葉を強める。
「私だって公爵様を男性として選んだわけじゃないの。取引なの」
「あ、お嬢様」
「だから、公爵様がいなくて寂しいなんて思ったことはこれっぽっちも無いのよ」
「お嬢様」
止まらない私の口を止めようと、エマがドレスの袖をぴっぴと引っ張った。エマが目で合図する。向こうを見ろというふうに目線を飛ばした先にノイベルク公爵が立っていた。
「戻りました。シラーズ公爵令嬢」
公爵は穏やかに一礼する。テラスの入り口には戸がない。長めのストロークで母屋から続くタイルが敷かれている。
どこから聞いていた? いつから?
「急ですが、シラーズ公爵に呼ばれて、王都で婚約を締結してまいりました。こちらは貴方への書状です」
私は慌てて椅子から立ち上がって書面を受け取った。父上の字だった。
それよりも。先ほどの会話はどこから聞かれていた?
気がかりはまだある。私は今日、ずいぶんリラックスした普段着を着ていた。ゆったりした綿モスリンのドレスで部屋着と言っても良いくらい。どうしてこんな日に。まさか今日いらっしゃるとは思わず、すっかり気を抜いていた。
いちいちのタイミングが悪い。
「あの、ごいっしょにお茶でも」
「婚約にかかる準備もありますので、残念ですが、今日はこれで失礼します」
公爵はこちらを見ないで返事をする。
くるりと背を向けてノイベルク公爵が遠ざかっていく。その背を見つめているうちに、思わず涙が溢れた。
婚約前だからと公爵から距離を置かれていたが、婚約が成立してもこれが続くのだろうか。それとも、新しい関係が始まろうとしていたのを、今さっき私がぶち壊したんだろうか。
小さな意地で本意ではないことを口にした自分が情けない。このまま今日が終わるのは嫌だ。
私は駆け出していた。立ち去ろうとする公爵に追いつくと、彼の腰に両手を回し、後ろから抱きついて捕まえた。
「さっきのは嘘です。ずっと寂しかったのです。取引でお受けしましたが、それだけの関係は嫌なのです」
私は公爵が逃げないように、彼の腰に回した自分の手首を掴んだ。
「シラーズ公爵令嬢」
「その言い方も嫌です。私たちは婚約したのでしょう? アデリンデとお呼びください」
訴えも虚しく、公爵は私の両手を自分の腰から引き剥がした。ああ、終わったと思った。こんな、はしたないことをして。せっかく結ばれた婚約もすぐにまた解消されるかもしれない。
後悔で頭がいっぱいになっていると、ノイベルク公爵はくるりと向きを変えて両手を軽く広げた。そうして次の瞬間、ぎゅっと私を抱きしめた。その腕の力はあまりに強くて、引き上げられた私は、つま先しかタイルに足が着いていない。
「アデリンデ」
突然のことで私は全身が硬直する。夢かと思った。だって都合が良すぎるもの。彼はもう一度私の耳元で「アデリンデ」と囁いた。ああ、夢ではない。
しばらく私はノイベルク公爵からほのかに香る甘い匂いを味わっていたが、ふっと体が離れる。私はそれがとても名残惜しかった。
「お伝えしたいことがたくさんあるのですが。すみません、やはりお茶をいただいてもよろしいですか」
もちろんですというふうに私は頷く。
「ただ貴方のドレスは私には刺激が強すぎるようです。お召し替えをお願いしても?」
こんなもっさりした綿のドレスが?
そう思っていると「ああ、なるほど」とエマが小さく呟くのが聞こえた。あとでちょっと教えてもらおう。
「わかりました。少しお待ちを」
「良かった。どうやら私はむっつりらしいので」
そこから聞いてたんですか!?
いつも飄々としているエマが「ひっ」と小さく声を上げた。




