11 ファーストキスはベルガモットの香り
――『もうひとつには……私が貴方を気にかけ過ぎたせいかもしれません』
「私はもともと、さほど石に興味があったわけではありません」
アルノルト様は伏し目がちに話し始める。
「式の後、突然倒れた貴方を疑問に思い、私も祝福に思い至りました。今は王政も安定していますし、過剰な力はかえって排除される可能性が高いです。ですので貴方に祝福を得たことを黙っているようにお伝えしました。
長い間、祝福を得た者はいない、そういう建て付けになっていますが、記録を見るにつけ、祝福を得た方々はそれを秘匿していただけのようです。私の祖母も恐らくそうでした。良いタイミングで王宮を逃げられたのは≪側室の耳飾り≫の助言だと考えています」
ずっと湖面のあたりをぼんやり見ながら話していたアルノルト様が、私をまっすぐに見て言った。
「はじめは貴方の命を心配していました。ですが、貴方を見守るうちに」
アルノルト様はひと息ついてから、また続ける。
「愛らしい方だ、好きだと思うようになりました。ただそれだけです」
その眼差しを受け止めて、私は全身が熱くなる。
「ですがそれを王妃様は、私が祝福の力を狙っているとお思いになられたんでしょうね。私のせいで、かえって目を付けられてしまいました。申し訳ない」
私が何か言葉をかけようと口を開くと、それを遮るようにアルノルト様は続けた。
「それに私は貴方に嘘をつきました」
≪側室の耳飾り≫の鎖を少し摘み上げて言う。
「これが家宝というのは嘘でして」
「えっっっ」
「もちろん個人的に譲られた大切なものではあるのですが。あの時はどうやって貴方の興味を引くか、そればかりを考えていました」
「そんなことしなくても、私は」
「そうですか?あの日、私がホールの前で声をかけた時も、貴方は隙を見て逃げようとしていたではないですか」
してましたね。
「私個人の思いを押し出すより、何か役目があったほうが、貴方には響くと思いました。ずるい男でしょう?」
そう言って不安そうにするアルノルト様に見覚えがある。
――『祝福が発動しなかった場合、貴方はただ私と結婚するだけになってしまいます』
と様子を伺ってきた時だ。私はその時も結婚するだけでも問題ないというふうに答えたはずだ。むしろこんな素敵な人と婚姻を結べるなんてと、その幸運に飛び上がりたい気持ちだった。でも彼は、そもそもの始まりで嘘をついた、そのことに苦しんでいる。
嘘はないほうがいい。けれどあの時、この方がうまく導いてくれていなければ、と考える。私はただその場から逃げることしか頭に無かった。あの時はもう助言をくれる≪指輪≫も持っていなかった。そのまま1人で逃げたとして、野盗に襲われて命を落とすか、父に捕まりぶたれて修道院に送られたか、というひどい人生の結末もあっただろう。
「もしこの耳飾りを使える方に出会うことがあったら、身分を問わず差し上げるように、というのが本当の祖母の遺言でした。ですので、こちらは婚約に関わらず差し上げます」
アルノルト様は鎖の留め具を片手で外し、もう片方の手で私の手をそっと引き寄せると、耳飾りを私の手のひらの上に載せた。
「明日、湖畔でお待ちしています。よく考えて、私と婚約を継続しても良いと思えたら、いらしてください」
船の停泊場を書いたカードをテーブルに残し、ガタと椅子を引いて立ち上がるアルノルト様の腕を私はガッと掴んだ。
「あの、もう決まっています」
「え?」
「明日行きますので。楽しみにしています!」
「アデリンデ?」
「今夜、アルノルト様が思い悩む必要はありません。もう、答えは決まっていますので!婚約期間は楽しいほうが良いでしょう?」
笑ってそう言うと、ふわっとアルノルト様が私に覆い被さってきた。
「貴方を騙すようにして婚約を取り付けました」
「あのとき騙されて良かったと思っています」
「アデリンデ」
「取引でも何でもないって、あれが嘘だとわかって、今とても嬉しいんです」
アルノルト様は優しい目で私をじっと見つめていたが、片膝をつき、私の頬に手を添えると顔を近づけてきた。私はその先を期待して目を閉じかける。しかし、アルノルト様は直前でその動きをぴたと止めた。
「ええと、婚前はどこまでお許しを」
「こ、これはいいと思います」
私はキスという単語すら口に出したら頭の中が爆発しそうで、ふわっと誤魔化して答えた。くらくらしている私に彼は追い討ちをかける。
「場所はどこまで、よろしいですか」
「あの、ぜんぶ、よろしいです」
そう言うと、アルノルト様の視線がまっすぐに私の唇に向かってきた。唇が重なって、先ほど二人でいただいた紅茶の匂いがした。ファーストキスはベルガモットの香り。私はこれから一生、このお茶を飲むたびに、はじめてのキスを思い出してしまうのだろう。
しかしアルノルト様はそれで終わらず、私の顔のあらゆるところにキスを落とし始めた。まるで陣地取りでもするかのように。次第にそれは首筋やうなじにまで進んだ。いったいこれはどこまで、と想像して、私は堪えきれずに声を上げた。
「ぜんぶ、とは言いましたが、あの」
「見えているところなら、ぜんぶ、にいたしましょうか」
私はその提案にこくこくと頷く。
頷きながら、明日、湖畔にはお気に入りのドレスを着ていこうと考えていたけれど、あれはちょっとデコルテが広すぎるかもしれない、などと思い直していた。
ずいぶん長い間、口付けをされていた。
その間、
「アデル」
と短く何度も呼ばれる。そのように人から呼ばれるのは初めてだった。もしかしたらキスに忙しくて、アデリンデという名は長すぎるのかもしれない。キスするのも名を呼ぶのも同じ場所だもの。
最後に小指の爪に口付けをされて、ふっと唇が離れる。おそらくアルノルト様の陣地取りが終わったのだ。私は思わず吐息が漏れる。
甘い時間の余韻に浸りながら、私は手の中にある耳飾りをぼうっと見ていた。湖面の光を受けているのか、さざなみのようにキラキラと粒が光っている。
アルノルト様はキスの後からずっと私の髪をいじっている。
「そうだ、言いそびれていました。何かあったら困るので、その≪耳飾り≫は王都に戻ってからつけてくださ……ってアデリンデ!?」
私はぼうっとした頭で、綺麗だな〜と石の輝きに魅入られているうちに、無意識にその耳飾りのカフスを右耳に差し込んでいた。自分の意思だったのか、耳飾りの誘導だったのかは定かではない。
意識が遠のきながらも、私の名前を呼ぶ声を耳が拾う。「アデリンデ!」「アデル!」
ああこの、水面に浮いてるような湖底に落とされたような不思議な体感に覚えがある。石に呼ばれたのだ。
この耳飾りでも「対話」ができるんだ。意識が戻ったらアルノルト様にも教えてあげよう。ところで石が違うと別の祝福と「対話」することになるんだろうか。
そんなことを考えていると、ふっと浮遊感かつ落下感が消える。
「やあ、久しぶり」
≪王妃の指輪≫の祝福であるムセイオンの声がした。




