閑話「鈍感」
ちょっと描いてみたかった2人です
【ゼニス歴1078年 イルル視点】
ピノが治療院に来たのは、もう7年も前のことだ。
最初は痩せた子供だった。
流行り病で死にかけて、運ばれてきた時には男か女かもわからないほど、頬がこけていた。
回復してからも、ピノは自分のことをあまり話さなかった。
年齢も、出身も、家族のことも。ただ、「男」だと名乗った。
動きやすい服と、短く切った髪と、低めに作った声。
最初の頃は誰も疑わなかった。
私も疑わなかった。
ただ、薬草を煮出す時に手を貸してもらったり、洗濯物を一緒に干したりするうちに、少しずつ気づいていった。
骨格が細いこと。
声を作っている時とそうでない時の差。
そして、月に一度、決まって調子が悪くなる日があること。
聞いたことはなかった。
聞かれたくないんだろう、と思っていたから。
ある夜、薪を割っているピノの手を見て、私はなんとなく察した。本当のことを。
それでも、何も言わなかった。
その方が、ピノにとって楽なんだろうと思ったから。
クロノとユーリも、おそらく同じくらいの時期に気づいていた。
二人とも頭が良い。
細かいことに気づくのが得意だった。
ニールも、たぶん気づいていた。
あの人は、口には出さないけれど、人のことをよく見ている。
ミラとミアは、もっと早く気づいていたかもしれない。
盗賊として生きてきた二人は、見た目で人を見分けることに慣れていた。
みんな、何も言わなかった。
ピノが訂正しないことには、理由があるはずだから。
実際、理由はあった。
「男のフリしてる方が、楽なんだよね」
いつか、ピノが小さく漏らしたことがある。
「夜中に出歩いても誰も心配しない。
荷物運びでも、薪割りでも、男だって言えば誰も止めない。
女だってわかったら——きっと色々、面倒なことが増える」
それ以上は聞かなかった。
聞かなくても、なんとなく想像はついた。
王都にいた頃のことは、ピノはほとんど語らない。
ただ、女の子だと知られると、何かと面倒なことが多かったらしい。
一人で出歩けば心配される。
可愛がられたり、構われたり——そういうのが、性に合わなかったのだろう。
だから、ピノは男になることを選んだ。
意図的に、ずっと。
そして——みんな、それを知っていた。
ただ、ガブだけは知らなかった。
その日の治療院は、いつもより少しだけ騒がしかった。
理由はわかっている。ピノとガブが、また喧嘩をしているからだ。
「だから言ったじゃん! ガブが適当に積んだから崩れたんだよ!」
「適当じゃねえ! ちゃんと考えて積んだ!」
「考えてないよ! 乾燥ハーブの上に重い瓶置いたら崩れるに決まってるじゃん!」
薬草棚の前で、二人が睨み合っている。床には、割れた瓶の欠片と、こぼれた乾燥ハーブが散らばっていた。
私はその様子を、奥の作業台から眺めていた。
正直、もう何度目かわからない。
ピノとガブが言い合いになるのは、もう日常の一部だ。
最初の頃は仲が悪いんだと思っていたけれど、今は違うことに気づいている。
ピノはガブにだけ強く当たる。
逆に言えば、ガブにしか強く当たらない。
ニールは別の患者を診ながら、ちらりとこちらを見た。
私たちは目だけで会話する。
——また始まったね。
——いつものことだけどな。
それだけのやり取りで十分だった。
「もういい! ガブの馬鹿!」
ピノが瓶の欠片を片付けようとして、ガブの腕を強く押した。
「おい、痛——って、お前こそ手伝えよ!」
ガブがその手を掴む。
ピノも引かない。両方が同じ力で押し合っているうちに、足が滑った。
「わ……」
「うわっ」
二人とも、薬草棚の脇に倒れ込んだ。
ガブが上、ピノが下。
たまたまそうなっただけだ。
よくある喧嘩の延長線で、特別なことは何もない。
私はいつも通り、またガブは怒鳴られるんだろうなぁと思って、瓶の欠片を片付けるための箒を取りに行こうとした。
その時だった。
「……あ」
ガブの声が、急に変わった。
普段の、苛立った声でも、子供っぽい怒鳴り声でもない。
短く、戸惑った声だった。
私は手を止めた。
ガブが固まっている。ピノの一部を見たまま、動かない。
ピノはまだ気づいていない。
ピノは急にガブの顔が目の前に来て、顔を赤らめている。
「な、な、なに、ガブ。急に静かになってどうしたのさ」
ピノが顔を少し赤らめながら起き上がろうとした。
その瞬間、ガブの視線が自分のどこにあったかに気付く。
ガブは慌てて視線をそらした。
「い、いや……何でもない」
声が裏返っていた。
私はその様子を見て、何が起きたのかすぐにわかった。
倒れ込んだ時、ピノの服の襟元が大きくはだけていたのだ。
普段、ピノは動きやすい簡素な服を着ている。
胸の辺りを布で軽く巻いて、見た目はずっと少年そのものだった。
男の子だと思われていることを、ピノ自身も特に否定したことはなかった。
便利だったから、というのが本当の理由だったと思う。
でも今、その布が、喧嘩の最中にずれてしまっていた。
ガブの位置から見えてしまったのだろう。
ピノは自分の襟元を見て、それからガブの顔を見た。
数秒、何も起きなかった。
それから、ピノの顔が真っ赤になった。
「な、ななななな、なんで見るのッ!」
「見てないッ! 見てないから!」
ガブが叫びながら、後ろに飛び退いた。
勢いよく薬草棚にぶつかって、棚の上の乾燥ハーブの束がまた崩れた。
ピノはガブに詰め寄る。
「いや見たでしょ! 今絶対見たでしょ!」
「見てねえって言ってんだろ!」
「顔真っ赤だよ!」
「お前もじゃねえか!」
ピノは目に涙を浮かべながらガブを責め立てている。
私は箒を持ったまま、その場に立っていた。
ニールが患者の処置を終えて、こちらに歩いてきた。
状況を一目見て、すぐに察したらしい。
「……何かあったのか?」
「今は説明できないよ、すくなくとも今は」
私は小さく言った。
ニールは黙って頷いた。
賢明な判断だ。
「ガブの、バカぁぁぁあああ!」
ピノのビンタがガブの頬に炸裂し、ガブはノックアクトされた。
その夜、井戸端の水を汲みに行く途中、私は右頬を赤くしたガブを見かけた。
治療院の裏手、薪小屋の脇に座り込んでいる。
膝に肘をついて、頭を抱えていた。
「ガブ?」
「……うわっ」
声をかけただけで、ガブは大げさに跳ね上がった。
「な、なんだイルルか。びっくりさせるなよ」
「何してるの、こんなところで」
「いや……別に」
ガブは膝を抱え直した。
月明かりの下で、その顔は分かりやすく赤かった。
「考え事してるだけだ」
「ピノのこと?」
ガブはぴたりと固まった。
「な、なんで分かるんだよ」
「分からないわけないでしょ」
私は薪小屋の壁にもたれて、ガブを見た。
「7年も一緒にいて、今日初めて知ったんだ?」
「……うるさい」
「自分でも驚いてるんでしょ?」
ガブは何も言わなかった。
しばらくして、ぽつりと言った。
「俺、何やってたんだろうな」
「何が?」
「7年だぞ。同じ部屋で寝てたこともある。
喧嘩して、取っ組み合いになったことも何度もある。
なのに、全然、気づかなかった」
沈黙が流れる。
「ガブはそういうとこ、見ないからね」
「見ないって、どういう意味だよ」
「危険なものはしっかりと見るでしょ。
誰かが近づいてくる足音とか、変な動きとか。
そういうのは誰よりも早く気付く」
私はガブを見た。
「でも、目の前にいる仲間にどう見てほしい、とか、敵意以外の人の気持ちとかあんまり気付けないんだよ」
ガブは少し黙った。
「……それは、悪いことか?」
「悪いことじゃないよ。ただ、仲間とか大事な人にはそうあってほしくないかな」
「ピノは——怒ってるか?」
「すごく怒ってると思う」
「やっぱりか」
ガブは深いため息をついた。
「どうすればいいんだ?」
「明日、ちゃんと話す。それしかないでしょ」
「……そうだよな」
ガブはまた頭を抱えた。
私はその様子を見ながら、少し笑ってしまった。
「何だよ、笑うところじゃないだろ」
「ごめんごめん。でも、ガブがこんなに悩んでるの、珍しいから」
「悩むだろ、これは」
「うん。悩んでいいと思う。しっかり悩みなさい」
私はそれだけ言って、井戸の方へ歩いていった。
背中から、ガブのため息がもう一度聞こえた。
その夜、治療院の片付けが終わった後、私はミラとミアに事の次第を話した。
二人は最初、黙って聞いていた。
それから、ミアが静かに言った。
「……え、それって」
「うん」
「ガブ、今まで知らなかったってこと?」
「そうみたいだね」
ミラが眉をひそめた。
「7年もここにいて?」
「7年もここにいて」
部屋がしばらく静かになった。
「あいつ、本当に何も見てなかったんだ……」
ミラが呟いた。
呆れているのか、感心しているのか、よくわからない声だった。
ミアが少し笑った。
「でもガブらしいかも〜」
「らしすぎる」
私もそう思った。
ガブは決して頭が悪いわけではない。
むしろ護衛としては優秀だ。
誰かが治療院に近づく足音、不審な動き、危険の匂い——そういうものには誰よりも早く気付く。
でも、目の前にいる人間の細かい変化には、驚くほど無頓着だった。
ピノの服が少し大きくなったことにも、声が高いままだということにも、髪を伸ばし始めたことにも、たぶん何も気づいていなかった。
ガブにとってピノは、ずっと「うるさい弟みたいな奴」だったのだろう。
そしてピノも、それを特に直そうとはしなかった。
翌朝、ピノは部屋から出てこなかった。
朝食の時間になっても、扉が開かない。
私は様子を見に行った。
「ピノ」
「……」
「入るよ」
扉を開けると、ピノはベッドの上で膝を抱えていた。
「具合悪い?」
「……違う」
「じゃあどうしたの?」
ピノはしばらく黙っていた。
それから、ぽつりと言った。
「7年だよ?」
「うん」
「7年間、男だと思われてたんだよ?」
「うん」
「ショックすぎる……」
ピノは膝に顔を埋めた。
私はベッドの端に座った。
「最初から訂正すればよかったんじゃない?」
「最初は特に考えてなくって、ただ面倒だったから。
男だと思われてた方が、力仕事も受けやすいし、夜中に一人で出歩いても変に思われないし……だから、わざと訂正しなかった」
「それで」
「そしたら、いつの間にか五年経ってた」
ピノは顔を上げた。
「でも、まさかガブのバカ、昨日まで気付いてないとか、そんなの思わなかった」
「ミラとミアは知ってたの?」
「すぐ気づいてたよ。クロノもユーリも。たぶんニールも」
「ニールは——」
私は少し考えた。
「気づいてたと思う、たぶん」
「ほら! みんな気づいてたんだよ! なのにガブだけ!」
ピノの声が大きくなった。
「あいつ、本当に何にも見てないの? 一緒の布団で寝たこともあったのに!」
「同じ布団では寝てなかったでしょ」
「廊下で雑魚寝してたことはあるじゃん!」
「それは数えるの?」
「数える!」
私は少し笑った。
ピノはまだ膝を抱えていたが、さっきよりは少し落ち着いていた。
「ショックなのは、わかる」
「わかってない!」
「わかってないかもしれないけど」
私は言葉を選んだ。
「ガブは、ピノのこと、ちゃんと見てたと思うよ。性別とは別のところで」
ピノは何も言わなかった。
「いつもピノの分だけ多めにご飯持ってくるの、知ってる?」
「……知らない」
「ピノが寝てる時、毛布かけ直してるのも、ニールが見てるよ」
「……」
「お土産も、いつもピノの分だけ別に選んでる」
ピノは黙ったまま、膝に顔を埋め直した。
声がくぐもって聞こえた。
「……知ってる」
「知ってるんだ」
「知ってるよ。馬の置物、まだ持ってる」
私は何も言わなかった。
それ以上、言う必要がなかった。
その日の昼過ぎ、ガブが治療院の裏口に立っていた。
中に入ってこない。
扉の前で、何かを言いかけて、やめている。
私が様子を見に行くと、ガブは私を見て、少し動揺した顔をした。
「あ……イルル」
「ピノに会いに来たの?」
「いや、別に——」
「会いに来たんでしょ?」
ガブは黙った。
それから、小さく頷いた。
「謝ろうと思って」
「何を謝るの?」
「……分かんねえ。
ピノの、、見ちまったことか。
今まで気づかなかったことか。両方かもしれねえ」
ガブは頭をかいた。
「ピノが、すごく嫌な気持ちになったなら——悪かったって、言いたい」
私はガブの顔を見た。
いつもの仏頂面とは少し違う。困った顔をしていた。
「ガブ」
「ああ」
「ピノが何で怒ってるか、わかってる?」
「……見られたから、じゃないのか」
「半分は正解だね」
「半分?」
「もう半分は、7年間気づかなかったこと」
ガブは少し考えた。
「そうだな。気づくべきだった、ってことか」
「何に気づかなかったんだと思ってる?」
「え?ピノが女だってことだろ?」
「違うよ」
「え? じゃ、じゃあなんだよ」
「ピノの気持ちに、だよ」
「…あ」
「うん」
「……すまん」
「私に言われても、ね」
「いや、わかってる。ちゃんと、ピノに言う」
ガブは扉を見た。
「中にいるか?」
「いる。部屋にこもってる」
「呼んでもらえるか?」
「自分で呼べばいいじゃん」
「いや、それは——」
ガブは口を濁した。
「気まずい」
私は少し笑った。
「気まずいなら、馬鹿正直に謝るのが一番だよ。ガブ、回りくどいことできないでしょ」
ガブは何も言えなかった。
それから、深く息を吐いた。
「……わかった」
ガブは扉の前で姿勢を正して、それから声を張った。
「ピノ!」
返事はなかった。
「ピノ、出てこい!」
しばらくして、奥の部屋の扉が小さく開いた。
ピノが顔だけ出した。
目が赤く腫れている。
夜通し泣いていたんだろう。
「……何?」
「悪かった」
ガブはまっすぐ言った。
「今まで気づかなくて、悪かった」
ピノは何も言わなかった。
「見たことも、悪かった。わざとじゃないけど、悪かった」
「……」
「お前が嫌な気持ちになったなら、それは悪かった。本当に」
ピノはしばらく黙っていた。
それから、廊下に出てきた。
ガブをまっすぐ見て、言った。
「7年だよ」
「……うん」
「7年も気づかなかったんだよ」
「……そうだな」
「あんた本当に鈍感すぎる」
「……否定はしない」
ピノはガブを見たまま、しばらく動かなかった。
それから、急に顔を赤くした。
「もう、いい! 別に大したことじゃないし!」
「いや、お前さっきまですごく怒ってたじゃ——」
「言葉のあやだから! もういいの!」
ピノはそう言って、足早に台所の方へ歩いていった。
ガブはその後ろ姿を見て、戸惑った顔をしていた。
「……あれ、許してもらえたのか?」
私はその様子を見ながら、小さく息をついた。
「許してもらえたと思うよ。たぶん」
「たぶんって」
「あとはピノに聞いてください」
「聞けるかよ、あの空気で」
ガブは頭をかいた。
それでも、その横顔は——少しだけ、安心した顔をしていた。
夕方、片付けをしていると、台所からピノの声が聞こえた。
「ガブの分、多めに作っといたから」
「……は?」
「多めに作ったって言ってるの! 別の意味じゃないから!」
「いや、何も言ってねえだろ」
「言いそうな顔してた!」
私は廊下でその声を聞きながら、小さく笑った。
ミアが隣に来て、同じように笑っていた。
「相変わらずだねぇ」
「相変わらず」
「でも、ちょっと変わったかも」
「うん」
私もそう思った。
その日の夜、夕食が終わってからのことだった。
ピノが薪小屋から戻ってくる途中、足を滑らせて転んだ。
大したことはない。
ただ、薪の束を抱えていたせいで、両手が使えず、肘を擦って小さな傷ができていた。
「痛っ……」
「大丈夫か」
すぐに駆けつけたのはガブだった。
いつもなら「気をつけろよ」とか「鈍いな」とか、軽口の一つでも飛ばすところだ。
でも、今夜は何も言わなかった。
ガブはピノの肘を見て、それから黙って自分の上着を脱いだ。
袖の部分を裂いて、傷口に巻きつけた。
手際は悪い。
包帯と呼べるようなものではない。
それでも、丁寧だった。
「……何これ。包帯くらい治療院にあるじゃん」
「治療院まで歩く方が、傷が開く」
「そんなの大した傷じゃないし」
「いいから黙ってろ」
ガブはそう言って、結び目を確認した。
ピノは何も言わずに、その様子を見ていた。
「……ガブ」
「ああ」
「これ、自分の上着でしょ。汚れるよ」
「上着くらいいくらでもある」
「……そう」
それだけだった。
ガブは立ち上がって、薪の束を拾い直した。
「俺が運ぶ。お前は治療院戻って手当てしてもらえ」
「自分で運べるって」
「いいから」
ガブはピノの分の薪まで両手に抱えて、先に歩いていった。
ピノはその背中を、しばらく見ていた。
私はその様子を、窓から見ていた。
何かが大きく変わったわけではない。
ピノはまだガブに強く当たるし、ガブはまだ察するのが下手なままだ。
ただ——少しだけ、お互いの間に流れる空気が変わった気がした。
喧嘩の理由は、たぶんもう前とは違う。
それに気づいているのは、本人たちだけじゃないだろう。
私は窓の外を見た。
リオネッサの夕暮れが、いつものように静かに降りてきていた。
台所から、また小さな言い合いの声が聞こえた。
「もっと味見してから言って!」
「味見した! うまい!」
「適当に言ってるでしょ!」
「適当じゃねえ!」
私はその声を聞きながら、夕食の支度を始めた。
いつもと同じ、騒がしい治療院の夜だった。
ただ、少しだけ——あたたかい騒がしさだった。
引き続きお付き合いいただければ幸いです。
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