77話 【ゼニス歴1079年 ニール視点】
交渉の場というのは、要するに茶番だった。
大きな円卓。
バルドール帝国側からはラドゥル様、あと将官が三人。
新生アステリズム神聖国側の参謀が四人。
そしてリオネッサからグレアム様と俺が同席するという形だった。
議題は南部自治都市の帰属問題。
だが誰も本気で話し合うつもりはない。
バルドール帝国は戦争前に「交渉の機会を与えた」という記録が欲しい。
新生アステリズム神聖国は「バルドール帝国が先に戦争を選んだ」という立場を作りたい。
どちらも形を作りに来ているだけだ。
俺はグレアム様の後ろに立って、黙って聞いていた。
円卓の向こう側に、新生アステリズム神聖国の参謀達が座っている。
その端に、テオがいた。
黒い外套。眼鏡。書類を手に持ったまま、参謀達の後ろに立っている。
テオと目が合った。
一瞬だけ。
テオはすぐに書類へ視線を戻した。
何も変わらない顔。
しかし、俺にはわかる。
何か言いたげな、そういう顔だった。
交渉は予想通り進まなかった。
バルドール帝国側が南部都市の返還を要求する。
新生アステリズム神聖国側が住民の自発的移行だと返す。
バルドール帝国側が軍事的緊張の解消を求める。
新生アステリズム神聖国側が教育と衛生への投資の成果を並べる。
数字が飛び交う。
グレアム様は黙って聞いていた。
ラドゥル様も同じだ。
どちらも結論が出ないことを最初からわかっている。
二時間が過ぎた。
一旦、休憩が入った。
人が動き始める。
給仕が茶を運ぶ。
将官達が小声で話し合う。
俺は部屋の端へ移動した。
窓の外を見るふりをしながら、人の流れを確認した。
警備が二人、扉の前。給仕が三人、室内を動いている。
グレアム様はラドゥル様と話している。
新生アステリズム神聖国の参謀達は円卓の周りで書類を広げている。
テオは——。
「邪魔するわ」
隣に来た。
自然な動きだった。
窓の外を見るように立つ。
書類を手に持ったまま。
誰が見ても、二人が並んでいるだけに見える。
「よく来れたな」
俺は窓の外を見たまま言った。
日本語だった。
「同席を頼んだのはフィデルよ」
テオも窓を見たまま答えた。
日本語で。
周囲には聞こえない。
聞こえても意味がわからない。
「元気そうだな」
「そう見える?」
「見える」
「嘘つき」
短い沈黙。
給仕が近くを通った。
二人とも黙った。
給仕が離れた。
「ニール」
「…何があった」
テオは書類へ目を落としたまま言った。
「兵站の数字が、近いうちにおかしくなる」
俺は窓の外を見たまま、何も言わなかった。
「北部輸送路が最初に綻びる。
次に南部食糧備蓄の配分がずれる。
前線への補給が三週間以内に遅延し始める」
淡々とした声だった。
いつものテオの声だった。
「わかった」
俺は短く答えた。
それだけでいい。
テオもそれ以上言わない。
転生者同士だからではない。
俺達はずっとそういう話し方をしてきた。
「一つ聞いていいか」
「何」
「お前は大丈夫か?」
テオが少し黙った。
窓の外で、カルディアの街が動いている。
荷車が通る。
子供が走っている。
「大丈夫よ」
答えた。
「お互い嘘つきだな」
俺はそう返した。
テオは小さく笑った。
声には出なかった。
だが横目で見えた。
口の端が、わずかに動いた。
「……大丈夫じゃないかもしれない」
小さく言った。
「そうか」
「でも、自分で決めたことだから」
「ああ」
「後悔はしていない」
「そうか」
また給仕が近くを通った。
二人とも黙った。
給仕が離れる。
「ニール」
「なんだ」
「イルルは元気?」
意外な名前だった。
「元気だ。相変わらず忙しそうにしてる」
「そう」
テオは少し間を置いた。
「それは良かった」
静かな声だった。
それ以上は何も言わなかった。
俺も何も聞かなかった。
窓の外を見続けた。
休憩が終わる合図が来た。
テオが書類を持ち直した。
「じゃあ」
「ああ」
それだけだった。
テオは自然な足取りで新生アステリズム神聖国側へ戻っていった。
書類を参謀に渡しながら、何か指示を出している。
いつも通りの動きだった。
誰も気づいていない。
俺はグレアム様の後ろへ戻った。
グレアム様が小声で言った。
「話せたか」
「少し」
「何か得られたか」
「ええ」
グレアム様は前を向いたまま聞いた。
「使えるか」
「十分です」
グレアムは短く頷いた。
交渉が再開された。
また数字が並ぶ。
また論理が飛び交う。
また誰も聞いていない言葉が積み重なっていく。
俺は黙って立っていた。
頭の中でテオの言葉を繰り返した。
北部輸送路が最初に綻びる。
次に南部食糧備蓄の配分がずれる。
前線への補給が三週間以内に遅延し始める。
設計した人間が言っているのだ。
これ以上確かな情報はない。
交渉が終わったのは夕方だった。
結論は出なかった。
最初からわかっていた。
建物を出る時、俺は振り返った。
新生アステリズム神聖国側の人間が出てくる。
参謀達。
将官達。
テオは最後だった。
扉を出る瞬間、一度だけこちらを見た。
目が合った。
何も言わない。頷きもしない。
ただ、見た。
それだけだった。
テオは前を向いて歩いていった。
その背中が建物の角を曲がって、見えなくなった。
グレアム様が隣に来た。
「帰るぞ」
「はい」
俺は前を向いた。
馬車へ向かいながら、グレアム様が低く言った。
「あの女、何を考えている」
俺はしばらく黙った。
それから答えた。
「さあ」
嘘だった。
だがそれ以上は言わなかった。
テオが何を考えているかは、だいたいわかる。
わかるからこそ、言葉にしたくなかった。
馬車が動き出した。
窓の外にカルディアの街が流れていく。
煙突から煙が上がっている。夜間学校の灯りが見える。巡回兵が歩いている。
整然とした街だった。
まだ動いている。
だが——俺には、その整然さが、今日から少しだけ違って見えた。
精巧に組まれた歯車が、一つ欠けた時のことを、俺は静かに考えていた。
テオが消えたという報が来たのは、交渉から十日後だった。
朝だった。
治療院の薬草整理をしていた俺のところへ、ユーリが来た。
「ニールさん」
いつもの半分眠ったような顔ではなかった。
「何だ」
「カルディアから情報が入りました」
ユーリは小声で言った。
「テオ殿が、姿を消したとのことです」
ニールは薬草を仕分ける手を止めなかった。
「いつだ」
「三日前の夜、との事です。
気づいたのが昨日で、情報が届くまでさらに一日かかりました」
「新生アステリズム神聖国側の反応は」
「混乱しているようです。フィデルが直接捜索を指示したとの話ですが、詳細はまだ」
俺は手を止めた。
薬草を棚へ戻した。
「わかった」
「……それだけですか」
「それだけだ」
ユーリは少し間を置いた。
「ニールさんは、驚かないんですね」
「驚いてるさ」
「そうは見えません」
「そういう顔なんだ、俺は」
ユーリは小さく息をついた。
「グレアム様にはどう伝えましょうか」
「お前に任せる。俺が行くより話が早いだろう」
「かしこまりました」
ユーリが出ていった。
俺は一人になった。
薬草の棚を見た。
センブリ、カージの根、乾燥ハーブ。整然と並んでいる。
三日前の夜。
交渉から十日。
テオが動くとしたらそのくらいだと思っていた。
早すぎず、遅すぎず。準備に必要な時間を考えれば、そのくらいになる。
あの交渉の場で、テオは全部決めていたのだろう。
兵站の数字が近いうちにおかしくなる、と言った。
設計した人間がいなくなれば、という意味だった。
俺はわかっていた。
だから何も聞かなかった。
棚の整理を再開した。
センブリを奥へ。カージの根を手前へ。順番通りに並べていく。
その時、扉が開いた。
「ニール」
イルルだった。
その顔を見て、気づいた。もう知っているのだ。
「聞いたか」
「ユーリから。今聞いた」
イルルは部屋へ入ってきた。
扉を閉めた。
それから、俺を見た。
「テオ、大丈夫かな」
「さあ」
「さあって」
「わからん」
イルルは少し黙った。
「どこ行ったんだろ」
「わからん」
「ニール」
「本当にわからん」
嘘だった。
方向はだいたいわかる。
カルディアから離れるなら南か東だ。
北はバルドール帝国の目が多い。
西はリオネッサに近すぎる。
だがそれをイルルに言う必要はない。
「心配なの」
イルルが言った。
「そうか」
「ニールは心配じゃないの?」
俺は棚へ目を向けたまま答えた。
「心配しても仕方ない。あいつが決めたことだ」
「でも——」
「イルル」
俺はイルルに振り返った。
「あいつは自分で決められる人間だ。ずっとそうだった」
イルルは黙った。
俺は続けた。
「だから大丈夫だ」
「……根拠は」
「あいつが大丈夫じゃない時は、もっと手を抜かずに助けを求める」
イルルは少し呆れたような顔をした。
「なにそれ」
「経験則だ」
イルルはしばらく俺を見ていた。
それから小さく笑った。
「ニールって、たまにすごーく適当だよね」
「そうか」
「うん」
扉の向こうから患者の声が聞こえた。
イルルが振り返る。
「行かなきゃ」
「ああ」
イルルは扉へ向かった。
途中で立ち止まった。
「ニール」
「なんだ」
「テオが戻ってきた時、ちゃんと迎えてあげてよ」
俺は何も言わなかった。
「お前も、な」
「私は大丈夫だよ」
「どうして?」
「だって…」
「?」
「友達だもん!」
イルルは扉を開けて出ていった。
一人になった。
テオは戻ってくる、とイルルは言っていた。
俺にはわからなかった。
テオがどこへ向かっているのか。
戻るつもりがあるのかないのか。
ただ一つだけわかることがある。
あいつはもう、あの街にはいない。
自分で決めて、出たのだ。
それだけだ。
俺は棚の整理を再開した。
カージの根を奥へ。
センブリを手前へ。
さっきは逆に並べてしまっていた。
窓の外では、リオネッサの朝が普通に続いていた。
市場の声。荷車の音。子供の笑い声。
何も変わっていない朝だった。
だが俺の頭の中では、テオの言葉が静かに繰り返されていた。
北部輸送路が最初に綻びる。
次に南部食糧備蓄の配分がずれる。
前線への補給が三週間以内に遅延し始める。
三日前に消えた。
つまり、あと十七日。
俺は棚を見た。
薬草が整然と並んでいる。
全部、正しい場所にある。
俺は静かに息をついた。
そしてまた、仕事を始めた。
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ラストスパートに向け、やる気があがります(^^)




