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76話 【ゼニス歴1079年 テオ視点】

翌朝から、ワタシはいつも通り働いた。


北部輸送路の再編案を仕上げた。

南部兵站の集中計画を修正した。

印刷工房の増産スケジュールを確認した。

識字教育の教師配置を調整した。


全部、いつも通りだった。

フィデルも普通だった。

穏やかで、冷静で、判断が速かった。

民に笑いかけ、参謀の報告を的確に処理し、夜は地図と向き合っていた。

ワタシは何も言わなかった。

言う必要がない、と思っていた。

 

元教皇の記録は、一つの参考に過ぎない。

歴史が繰り返すとは限らない。

フィデルは父とは違う。

そう言っていた。


信じていた。

信じようとしていた。


だが夜になると、あの数字が頭に戻ってきた。


南部第七集落、補給停止。

元教皇の記録の中盤以降と同じ構造。

ワタシが設計した数字が。

三日が過ぎた。

四日が過ぎた。

五日目の朝、ワタシは気づいた。

体の調子がおかしい。

最初は疲労だと思った。睡眠が二時間の日が続いていた。無理もない。


だが違った。

朝、起き上がろうとした瞬間に気持ちが悪くなった。

昨日も同じだった。一昨日も。

ワタシは少し考えた。


計算した。


最後の月経から、何日経っているか。

数えた。

もう一度数えた。

答えが出た。


ワタシはしばらく天井を見ていた。


執務室の白い天井。

何も考えられなかった。

正確には、考えすぎて何も言語化できなかった。


しばらくしてから、起き上がった。

顔を洗ってみた。

着替えてみた。


いつも通り机へ向かってみた。

書類を広げてみた。


北部農業区の収穫予測。

来月の配給計画。

印刷工房の稼働率。

全部、いつも通りだった。


いつもと同じなのに、なぜか全く違うものに見えて来た。

ペンを持つ手が、少し止まった。


妊娠。


その単語が、頭の中に静かに浮かんだ。

ワタシには似合わない言葉だった。


王城にいた十年間、いや、前世でもそうだ。

そんなことを考えたことはなかった。


刀祢ですら避妊については気を付けていた。

そういえばフィデルの元へ来てから考えた事がなかった。


いや、考えようとしなかった。

ワタシを認めてくれるフィデルに愛されることはこの上ない幸せだった。

そして自分の仕事、国家を回すことで頭が一杯だった。

それで良かった。


それが、ワタシの場所だと思っていた。

ペンを置いた。

窓の外を見た。


朝のカルディア。

荷車が動いている。

子供達が学校区へ向かっている。工房から煙が上がっている。

いつも通りの朝だった。

ワタシが設計した朝だった。


その時。

扉が開いた。

「おはよう」

フィデルだった。

珍しく早い。


「おはよう」

ワタシは答えた。

フィデルは机へ向かいながら言った。

「少し顔色が悪いな。

疲れているのではないか?

少し休んだほうがいい」

「拡張期だから無理ね」

いつもの会話だった。


フィデルは書類を手に取った。

「北部の件、見ておいた」

「どこか問題があった?」

「いや、完璧だ」

そう言って笑う。


ワタシはその顔を見た。

穏やかな顔。信頼している顔。

この人はワタシを必要としてくれている。

ワタシの知識を、ワタシの能力を、現実のものにしてくれた。


刀祢とは違う。


王城の誰もそうしてくれなかった。

女の戯言として笑わなかった唯一の人だった。

だから——。

「フィデル」

「なに?」

ワタシは少し考えた。

そして聞いた。

「元教皇の初期統治記録、読んだことある?」

フィデルの手が、わずかに止まった。


一瞬だけ。

すぐに動き出す。


「なぜ」

「参考資料として取り寄せてあった。昨夜読んだの」

「そうか」

フィデルは書類へ目を落としたまま言った。

「何か参考になったか」

「少し気になることがあった」

「何が」

ワタシは静かに言った。

「初期の統治方針が、今の新生アステリズムとほぼ同じだった」


沈黙。


フィデルは書類を見たままだった。

「言い回しまで似ていた」

「……」

「知識は民全員のものだ、という言葉から始まって、教育、農業改革、医療制度の整備まで」

フィデルはまだ何も言わない。

「そして対外戦争が始まった年から、数字の構造が変わっていた」


ワタシは続けた。

感情を抑えて、数字の話として続けた。

「配給が恩賜になった。

知識の共有が管理された配布になった。

民の犠牲許容ラインが、少しずつ上がっていた」

窓から朝の光が入ってくる。


「今回の南部第七集落の決定も、その構造と同じだった」

フィデルが顔を上げた。

初めてワタシを見た。


穏やかな顔だった。

だが目が、少し違った。

「テオ」

「なに」

「俺は父とは違う」

また同じ言葉だった。


ワタシは黙った。

フィデルは続けた。

「父は民を信じなかった。

知識を道具として使った。

自分の権威を守るためだけに。

でも俺は違う。

民を本当に救いたいと思っている。」

「それは——」

「バルドール帝国に勝てば証明できる」


その瞬間。

ワタシの中で何かが、静かに壊れる音がした。


証明。


誰に対しての証明なのか。

民に対してではない。

バルドール帝国に対してでもない。

フィデルが証明したいのは——。

この人も結局は——。


「わかった」

ワタシは言った。

「ありがとう」

フィデルは少し安心したように笑った。


「心配するな。俺は父とは違う道を行く」

「ええ」

ワタシは頷いた。

そして書類へ目を落とした。

北部農業区の収穫予測。

来月の配給計画。

印刷工房の稼働率。

数字を見た。


フィデルの言葉を頭の中で繰り返した。

バルドール帝国に勝てば証明できる。


元教皇の記録にも、同じ構造があった。

対外戦争が始まった年から、数字が変質した。

そしてフィデルは今、対外戦争へ向かっている。

ワタシが設計した兵站で。

ワタシが作った数字で。

窓の外で子供達の声がした。

学校へ向かう声だ。笑っている。未来を疑わない声だ。

ワタシは窓を見なかった。

書類を見続けた。


だが頭の中に、今朝の計算が戻ってきた。

その答えが。

ずっと、消えなかった。

確認したのは、その週の終わりだった。


ニールのお陰で少しは薬草の知識がある。

検査の方法も知っている。

王城にいた頃、侍女達の間でそういう話が出ることがあった。

その時に覚えた。


陽性。

結果は変わらなかった。


ワタシは検査の道具を片付けて、机へ戻った。

書類を広げた。

南部兵站の最終確認。前線への輸送スケジュール。北部農業区の収穫予測修正版。

仕事をしているその間、何も考えずにすんだ。


正確には、考えないようにした。

数字を見ていれば、他のことを考えなくて済む。それはずっとそうだった。

王城にいた十年間も、そうやって生き延びてきた。

だが三時間後、ペンが止まった。


正確には止まったまま「動けなかった」のだ。


窓の外では空が橙に染まってきている。

ワタシが設計した街だ。

ワタシが数字で動かしている街だ。

皆が生活を営んでいる。

カルディアの街並みの煙突各所から煙が上がっている。

工房の槌音が聞こえる。

子供達が夜間学校へ向かう声がする。


子供。


また、その言葉が浮かんだ。

ワタシには似合わない言葉だ。

今まで一度も、自分とその言葉を結びつけて考えたことがなかった。

王城では考える余裕がなかった。

フィデルの元へ来てからは、国家を回すことで頭が一杯だった。

それが正しかった。

フィデル。

それが今のワタシの居場所だった。


なのに。


ワタシはペンを置いた。

手をお腹の上に置いた。


何も感じない。

まだ何も変わっていない。

数字の上では確かなのに、実感がなかった。

実感がないまま、ワタシは考え始めた。


ワタシはこの子を産んでいいのだろうか。

この子はなんの為にワタシなんかのところに来たのだろうか。

ワタシはこの子を育てることが出来るのだろうか。

この国で、この子を育てるとしたら。

そもそもワタシに親になる資格なんてあるのだろうか。


ワタシとフィデルの子供。

新生アステリズム神聖国の指導者の子だ。

教育は受けられる。

食事も安定している。

医療もある。

この国は、子供に対して今のところ最善を尽くしている。

ワタシ自身がそう設計した。


元教皇の記録が、頭に戻ってきた。

初期は理想的だった。

対外戦争が始まった年から、数字が変質した。

フィデルは今、対外戦争へ向かっている。

ワタシが設計した兵站で。


その先に何があるのだろうか。


元教皇の記録の後半に何があったか、ワタシは知っている。

数字が変質した先に何があったか。ワタシは知っている。

この子が生きていく国が、その先へ向かっているとしたら。


ワタシは立ち上がった。

棚から元教皇の統治記録を取り出した。

もう一度、最初から読んだ。

今度は丁寧に。数字だけでなく、言葉も読んだ。

初期の記録は美しかった。

元教皇は本当に民を救おうとしていた。

それは記録から伝わってきた。善意は本物だった。

だが王国を巻き込んでの対外戦争の記録が始まった年から、言葉が変わった。

民への言及が減った。


代わりに「国家の使命」という言葉が増えた。

「アステリズム神聖国の栄光」という言葉が増えた。

そして記録の終盤。

元教皇が残した言葉があった。


余は正しい。

余の道は間違っていない。

歴史が『証明』するだろう。


ワタシはその一行を、しばらく見ていた。

フィデルの声が重なった。

「俺は父とは違う。」

「バルドール帝国に勝てば『証明』できる。」


だが、『証明』したいという言葉は——奇しくも全く同じだった。


誰かに向かって、何かを証明したいという燃料で動いている人間は——いつか、その証明のため暴走を始める。

元教皇がそうだった。

刀祢がそうだった。

そしてフィデルもそうなのかもしれない。


記録がそう語っていた。

ワタシは記録を閉じた。

手が冷たかった。

お腹の上に、もう一度手を置いた。

まだ何も感じない。

だがこの子は、確かワタシの中にいる。

数字ではない。

ワタシは確かに感じている。

ワタシは分析的な人間だ。

感情で動いたことがない。

王城の十年間も、フィデルの元へ来てからも、いつも数字と論理で動いてきた。


だが初めて、数字より先に答えが出た。


この子を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()


論理ではなかった。

計算でもなかった。

ただ、そう思った。

それだけだった。


夜になった。

フィデルが執務室へ戻ってきた。

「テオ、まだいたのか」

「少し資料を整理していたの」

「無理しないでくれ。君が倒れたら元も子もない」

フィデルはワタシの肩を抱き寄せる。

「していないわ」

いつもの、たわいのない会話だった。

フィデルは地図を広げ、ワタシは書類を片付け始める。


その時、フィデルが言った。

「来週、バルドール帝国との交渉の場が設けられる」

「交渉?」

「形だけだ。向こうも戦争前に一度は話し合いの場を作りたいのだろう。

リオネッサのグレアムも来るらしい」

ワタシは手を止めた。


「グレアム様が…」

「ああ。薬師のニールも同行するかもしれない」

ワタシは何も言わなかった。


書類を片付ける手を動かしながら、頭の中で考えた。

ニールが来る。

グレアム様が来る。

交渉の場。

人が多い。

警備も多い。

だが——人が多ければ、混雑する場面もある。


フィデルが地図を指で叩きながら言った。

「バルドール帝国側の出方を見極める必要がある。テオ、同席してくれ」

「わかったわ」

ワタシは答えた。

静かな声で、いつも通りに。

フィデルはまた地図へ向き直った。

ワタシは書類の片付けを続けた。


頭の中は静かだった。

決めたわけではない。

まだ何も決めていない。


ただ。

「ニールが来る」という事実だけが、頭の中に静かに残っていた。


窓の外で夜間学校の終礼の鐘が鳴った。

また子供達の声がするのだろう。


ワタシは窓を見なかった。

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基本的に毎週水曜日、土曜日、日曜日の21時頃の更新を目指しています! 長期休暇期間中は、、、頑張ります!!
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