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【閑話】鷲と獅子

国境の冬は、人を殺す。


雪ではない。風だ。

険しい山々から吹き下ろす乾いた寒風は、鎧の隙間から骨へと入り込み、兵士の体温を奪っていく。凍えた指では剣が握れず、感覚の消えた足では踏ん張りが効かない。

だからこそ、国境の戦は短い。

奪って、燃やして、引いていく。

長引けば、敵より先に自然が牙を剥く。

リオネッサ辺境領東部、カルド渓谷。争っているのは峡谷を挟んだ隣国のリムザック辺境領。

その狭い谷間に、怒号と鉄のぶつかる音が響いていた。

「押し返せ!! 谷へ近づけるな!!」

若き日のグレアムは剣を振るった。


二十九歳。

まだ辺境伯ではない。


先代リオネッサ伯の嫡男として、前線を任され始めたばかりの頃だ。

若かった。

そして、血気盛んだった。


目の前の敵兵を斬り伏せ、返す刃で槍を弾く。

足元には雪と泥と血が混ざり、踏み込むたびに赤黒い飛沫が散った。

「グレアム様! 左翼が押されています!」

「放っておけ! 中央を割る!」

「しかし——」

「敵将は中央にいる!」

グレアムは叫び、馬腹を蹴った。


敵将を討てば崩れる。

若き日の彼は、それを戦の真理だと信じていた。

そして実際、その日まで彼は負け知らずだった。


敵軍の中央に、一人の男がいた。

黒髪。

長身。

鷲を思わせる鋭い目。

まだ若い。


だが、周囲の兵の動きが明らかに違う。

中心にいるその男へ向かって、兵たちの動きが自然に流れている。


指揮官だ。

グレアムは直感した。


「貴様か」

男もまた、こちらを見ていた。

その目に恐れはない。

ただ、冷静な観察だけがあった。


グレアムは剣を構えた。

「道を開けろォ!!」

馬を駆り、突撃する。

敵兵が槍を向ける。

だがグレアムは止まらない。


槍を斬り飛ばし、馬上から敵兵を叩き落とす。

一直線だった。

若き獅子は、自分の力を疑っていなかった。

男の前へ辿り着く。


まだ帝国ではない、地方の将校ではあるが間違いなく強者。

その男は静かに剣を抜いた。

細身の軍刀。

無駄のない構え。


その瞬間、グレアムは理解した。

——強い。

直後、剣がぶつかった。


凄まじい衝撃だった。

「っ!」

グレアムの剣は重い。

力で押し切る戦い方だ。

だが男は受け流した。


流し、逸らし、踏み込み、返す。

鋭い。

まるで鷲の爪だ、とグレアムは思った。


「貴様、名は!」


打ち合いながら叫ぶ。

男は短く答えた。

「リムザック周辺領のラドゥル!」

「覚えたぞ、ラドゥル!!」

グレアムは笑った。


強敵だった。

それが嬉しかった。

辺境の小競り合いでは、ここまで渡り合える相手はいなかった。


父は強い。

だが父は高みにいる。

同世代で、自分と真正面から斬り結べる相手。


それが初めて現れた。

ラドゥルの剣が閃く。

喉を狙った一撃。

グレアムは首を捻って避け、肩で体当たりを入れる。

二人の兵が巻き込まれて吹き飛んだ。


「無茶苦茶な戦い方だな」

「正面から来い!」

「来ている」

ラドゥルは冷静だった。

熱くなっていない。

怒鳴らない。

感情を乱さない。

なのに、一歩も引かない。


グレアムはさらに笑みを深めた。

「面白い男だ!!」

「戦場で言う言葉か?」

「戦場だから言うのだ!」

剣戟が続く。

互角だった。

周囲の兵たちは二人を避け始めていた。

巻き込まれる。

本能的に理解していた。


若き獅子と若き鷲。

二頭の猛獣が、中央で噛み合っていた。


その時だった。

足元の雪が崩れた。

「——!」

カルド渓谷の崖際。

踏み固められていた雪の下は空洞になっていた。

二人は同時にバランスを崩した。

咄嗟に互いの腕を掴む。

そのまま。

崖下へ落ちた。


意識が戻った時、グレアムは雪の中に倒れていた。

「……生きているか」

低い声。

起き上がると、数歩先にラドゥルがいた。

額から血を流している。

だが立っていた。

「死なんさ」

グレアムは周囲を見回した。


谷底だった。


両側を切り立った岩壁に囲まれている。

上は遥か遠い。

兵の声も聞こえない。

「……落ちたか」

「ああ」

「どちらの勝ちだ?」

「知らん」

ラドゥルは剣を拾い上げた。

グレアムも構える。


だが次の瞬間。

風が吹いた。

猛烈な冷気。

二人は同時に顔をしかめる。

谷底は異様に冷える。

日が入らないのだ。


このままでは凍死する。


ラドゥルが先に剣を下ろした。

「休戦だ」

「……敵に背を向けろと?」

「今戦えば、どちらが勝っても死ぬ」

正論だった。

グレアムは数秒黙り、そして剣を納めた。

「いいだろう」

二人は雪の中を歩き始めた。

谷底には浅い洞窟があった。

風を防げる。


ラドゥルが火打石を取り出す。

「火が起こせるのか」

「リムザック兵は野営が多い」

「便利なものを持っているな」

「辺境伯の息子は野営で料理も出来んのか?」

「馬鹿にするな。…肉くらい焼ける」

「…それは料理ではない」

「うるさい!」


火が灯る。

赤い炎が洞窟を照らした。

ようやく、人心地つく。

グレアムは壁にもたれた。

「……お前、強いな」

「お前もだ」

短いやり取り。

だが不思議と嫌な気はしなかった。

「そっちは何をしている」

「東部方面軍の副官だ」

「若いな」

「お前も若い」

「確かに」


グレアムは笑った。

「リオネッサの次期当主だ。いずれこの辺境を継ぐ」

「そうか」

「リムザックを押し返してやる」

「それは困る」

「ならお前が来るな」

「仕事だ」

「こちらもだ」

ラドゥルは少しだけ口元を緩めた。


初めて見る表情だった。

「お前は何故戦う」

ラドゥルが聞いた。

「領地を守るためだ」

即答だった。

「俺達はお前たちの領土を侵したりはせん。

その代わり先代からずっと守ってきた土地だ。

貴様らなどには渡さん」

「民のためか」

「当然だ」

ラドゥルは火を見つめた。

「……リムザックにも民はいる」

「知っている」

「飢える村もある。税で潰れる農民もいる。だから国は外へ広がろうとする」

「侵略の言い訳か」

「現実の話だ」

グレアムは黙った。


ラドゥルは続ける。

「お前は若い。強い。だが——戦を知らない」

「なんだと?」

「お前は勝つことしか考えていない」

グレアムの眉が動く。

「違うか?」

「敵を倒さねば守れん」

「その先だ」

ラドゥルの声は静かだった。


「村を焼いた後、そこに残るものを考えたことはあるか」

グレアムは答えなかった。

「死体だけでは終わらん」

ラドゥルは火を見ながら言った。

「飢えた子供が残る。畑は荒れる。恨みが残る。十年後、二十年後、また火種になる」

「……」

「勝つだけでは終わらない」

グレアムは少し苛立った。


「では戦うなと言うのか」

「違う」

ラドゥルは首を横に振る。

「戦うなら、その先まで見ろと言っている」

洞窟の外で風が唸った。

しばらく沈黙が続いた。

やがてグレアムが口を開く。

「……お前、変な奴だな」

「よく言われる」

「軍人らしくない」

「お前も辺境貴族らしくない」

「どこがだ」

「楽しそうに戦う」

グレアムは笑った。


「実際楽しい」

「馬鹿だな」

「褒め言葉として受け取っておく」

ラドゥルはため息を吐いた。

だが、その目には僅かな笑みがあった。

          

翌朝。

二人は谷を登った。

凍った岩壁は滑る。

何度も手を貸し合いながら、ようやく崖上へ辿り着いた。

上では両軍が睨み合っていた。

グレアムが現れる。

リオネッサ兵が歓声を上げた。

「グレアム様!!」

リムザック側もざわつく。

そして、その隣からラドゥルが現れた瞬間、空気が凍った。


双方の兵が武器を構える。

だがグレアムは手を上げた。

「待て」

ラドゥルも部下を制した。

二人は少し離れて向き合う。

「次は落ちるなよ」

ラドゥルが言った。

「貴様こそ」

「次は決着をつけるか」

「当然だ」

グレアムは笑った。

「次は勝つ」

ラドゥルは静かに頷く。

「ぬかせ。俺も負けん」

二人は背を向けた。


敵同士。


立場は変わらない。

だが、その日からだった。

国境の戦場で、若き獅子は若き鷲を探すようになったのは。

そして若き鷲もまた、戦場の向こうに金獅子の旗を見つけるたび、わずかに口元を緩めるようになった。

後に人は語る。

東の辺境を支えた二人の武人がいたと。

一人は王国の獅子。


一人はリムザックから帝国の鷲へと変わる。

敵として出会い、

幾度も剣を交え、

それでも最後まで互いを認め続けた男たち。


——これは、その最初の物語である。

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