65話 【ゼニス歴1074年 グレアム視点】
テオが消えた、と知ったのは翌朝だった。
部屋が空だ。荷物の大半は残っている。
ただ身回りの品といくつかの書類がない。
「ニール、心当たりはあるか」
「……昨日の午後まではいたのですが」
ニールの顔が、静かな険しさをしていた。何か考えている顔だ。
「何があった」
「テオが——テオの心が限界を迎えた、という事ですかね。
受け取れないものを手放せなかった。
そのまま限界になったみたいな」
この偏屈薬師にしてはめずらしく歯切れが悪い。
「いまいち状況が掴めんが、お前が絡んでいることはよくわかった」
「申し訳ありません」
「探すか?」
「はい。ですが、引き戻す気はないです。本人が戻るというまでは」
「カインを呼ぶか?」
「盗賊姉妹、いえ、ミラとミアに頼みます。所在だけ掴めれば十分です」
「わかった」
「——ただ、グレアム様」
「何だ」
「テオが戻るかどうかは、分かりません」
儂はニールを見る。
「……そうか」
「あいつが何をするかも、今は分からない。それだけは、言っておきます」
「わかった」
儂は窓の外を見た。
「バルドール帝国皇帝ラドゥル陛下が、王都にご到着になる。
リオネッサの今後について直接話したいというご意向だ。——お前も出てもらう」
「私が出る必要がありますか?」
「ある。お前の名前は、既に皇后エレナ様によって陛下の耳に入っている。
薬師として、防疫の設計者として。
ここで顔を見せた方が、リオネッサへのバルドール帝国の手出しを長期的に防げる」
「……わかりました。同席します」
「イルル嬢も連れてこい。エレナ様が、薬草の研究に興味を持っているという話を聞いた」
「イルルを政治の場に出すつもりはありません」
「出さなくていい。
そこにいるだけでいい。
——書類より、人が一番雄弁だからな。
リオネッサで何を守ろうとしているのかを、陛下に見せる」
ニールは儂をしばらく見た。
「……全く、グレアム様は食えない人ですね」
「何を言う。儂なんか可愛いもんだ。
元来、貴族というのはそういうものだ」
お互いに少し笑った。
「テオのことは、心配しているか」
ニールは答えなかった。
「……しています。だが、どうしてやれるか分からない」
「それで十分だ。心配している、という事実は残る。
——テオもいつか、それを知る時が来るかもしれない」
ニールは黙ったまま、窓の外を見た。
王都の朝が、静かに続いていた。
バルドール帝国皇帝ヴァルガス・バルドールとの謁見は、旧王城の一角で設けられた。
ヴァルガスは前置きを好まない男だ。
「リオネッサの自治権について、確認したい」
「こちらからも確認したかった点です」
「バルドール帝国はリオネッサを直轄にする気はない。
ただし——防疫システムの維持について、協力関係を続けてほしい。
それが条件だ」
「条件というより、相互利益と言った方が正確ではないでしょうか」
ヴァルガスはわずかに目を細めた。
「……そうだな。では、そういうことにするとしよう」
「レオネル・リオネッサが辺境伯として、リオネッサの統治を担う。
グレアム・リオネッサ、私は相談役として残る。この形は問題ないでしょうか」
「問題ない」
「薬師ニールの処遇についてですが、——バルドール帝国は彼を召し抱えるつもりがあるのでしょうか」
ヴァルガスは少し間を置き、溜息を付きながら言う。
「貴様…。昔から本当にまどろっこしい奴だな…」
「はっはっは、光栄でありますな」
「勿論ある。ただ——そこにいる本人が断るのだろう?」
「その通りです」とニールが言った。
ヴァルガスはニールを見た。
「エレナからは聞いているが、一応、理由を聞いていいか?」
「俺がいる場所はリオネッサです。
バルドール帝国に何かを提供する事。リオネッサを守ることと矛盾しない範囲でならば、拒みません。
ただ——俺がリオネッサを離れることは、絶対にない」
皇帝ヴァルガスはしばらくニールを見ていた。
皇后エレナが口を開いた。
「ねえ、薬師さん。娘が毎年冬に高熱を出すの。
今年の冬が来る前に相談したいわ」
「…症状の詳細を。今ここで話せるなら、今聞きます」
「勿論、今ここで話しましょう!」
「では聞きます。イルル、メモの準備を」
「うん。ちょっと待って」
儂とヴァルガス皇帝はその光景を、少し離れて見ていた。
ヴァルガスが、わずかに表情を緩めた。
「あの薬師——交渉の余地がないな」
「ないですな。だからこそ、信用できる」
「そうだな」
書類に署名が入った。
リオネッサ自治権の維持。
防疫協力の継続。
ニールはバルドール帝国公認の独立薬師に就く。
三点が、書面に刻まれた。
窓から王都の空が見えた。
戦争の後のにおいが、少しずつ消えていく気がした。
動き続けた時間があって、その結果がこの書類だ。
これからは、動く機会が減る。
それでいい。
儂も薬草でも育てながら妻の屋敷でのんびりしよう。
目先では皇后エレナが、イルルにニールとの馴れ初めや恋の話を根掘り葉掘り聞いている。
珍しくあのニールがたじろいでいる。
娘の高熱の話はどうなったのだ、全く…。
「グレアムよ」
皇帝ヴァルガスが言った。
「リオネッサで静かに老いる気か?」
「後身は育っておりますので」
「羨ましい限りだ」
「はい。——陛下も励みなされ」
二人して笑う。
王都の春が、窓の外で続いていた。
第3章 完
ようやく3章まで書き終えました。
閑話を挟んで次からは最終章のスタートです!
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