66話 ゼニス歴1079年 ニール視点
最終章のスタートです!
リオネッサの朝は、五年前とは比べものにならないほど静かになっていた。
冬明けの冷たい風が石畳を撫でる。
市場には朝から人が集まり、焼きたての黒パンの匂いと、香草を煮込んだ湯気が混ざり合っていた。
ニールは荷車を避けながら中央通りを歩いていた。
「先生ー!」
後ろから甲高い声が飛んできた。
振り返ると、小柄な少年が手を振りながら駆けてくる。
見覚えのある顔だった。
以前、肺炎で死にかけていた鍛冶屋の息子だ。
「走るな。転ぶぞ」
「へーき! もう元気だから!」
少年は胸を張った。
確かに顔色は良い。
五年前の痩せ細った姿とは別人のようだった。
「先生、今度オレ、帝国の学校に行くんだ!」
「学校?」
「うん! 文字とか計算とか教えてくれるやつ!」
ニールは少し驚いた。
旧エルバート王国領にバルドール帝国式の教育制度が入ったのは二年前からだ。
まだ一部地域のみだったが、少しずつ広がっている。
「そうか。ちゃんと勉強しろよ」
「うん!」
少年は元気よく走り去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、ニールは静かに息を吐いた。
五年前。
エルバート王国は崩壊した。
正確には『静かに壊れた』というほうがしっくりくる。。
王都で起きた混乱。
財務崩壊。
貴族達の離反。
辺境の独立。
バルドール帝国との和平。
そして民衆の疲弊。
俺達が仕込んだ『劇薬』で、あれほど巨大だったエルバート王国は驚くほど脆く崩れていった。
だが——。
その後のバルドール帝国の統治は、少なくともニールが予想していたほど悪いものではなかった。
重税は減った。
街道整備も進んだ。
バルドール帝国軍は規律を重んじ、略奪を禁じた。
もちろん不満はある。
旧貴族の残党もいる。
だが少なくとも『明日食えるかどうかわからない』という恐怖は減った。
それは大きかった。
「……ニール!」
声を掛けられて顔を上げる。
治療院の前で、イルルが腕を組んで立っていた。
「またぼーっとしてる!」
「してない」
「してたよ。完全にしてた」
イルルは呆れたように言った。
五年経った今でも、彼女の雰囲気はあまり変わらない。
ただ、変わった事もある。
俺達は結婚した。
俺達の関係はより少しだけ前に進んだ。
そして、以前よりずっと忙しくなった。
「今日も南街区?」
「ああ。腹を壊した子供が増えてるらしい」
「井戸かな」
「たぶん」
ニールが頷くと、イルルは小さくため息をついた。
「最近、人増えたからねえ……」
リオネッサは、この数年で急激に人口が増えていた。
バルドール帝国との交易拠点。
旧エルバート王国領とバルドール帝国を結ぶ中継地。
そして何より、“比較的安全な土地”。
それが人を集めていた。
治療院の規模も以前の三倍近い。
建物も増築した。
今では診療室が三つ。簡易病棟まである。
「イルル~~」
奥から慌ただしい声が飛んだ。
「ほら、来たよ」
イルルは振り返る。
そこへ、ミアが勢いよく飛び出してきた。
「大変です〜 ガブがまた子供達に~」
「また?」
「泣いてます〜」
「ガブが?」
「子供達が〜」
「紛らわしいな……」
ニールは額を押さえた。
イルルは苦笑する。
「たぶんまた怖い顔したんでしょ」
「してねえ!!」
奥から怒鳴り声が響いた。
少し遅れて、ガブが現れる。
以前より身体つきが厚くなっている。
護衛だけでなく、今では治療院周辺の警備も任されていた。
「俺は普通に歩いてただけだ!」
「普通の顔が怖いんだよ、ガブは」
ピノがちょっかいを掛ける。
どうやらガブが『少年』だと思っていたピノは『少女』だった。
ガブはそれを5年前まで知らなかった。ピノはすごくショックだったらしい。
そこからピノはガブに対して凄く強く当たるようになった。
「イルル、なんとか言ってくれよ!」
そのやり取りを見て、ミアとイルルがケラケラと笑った。
「でも最近、子供に人気あるよ〜」
「ねー。なんだかんだ面倒見いいし」
「良くねえ!」
「ガブはただの鈍感人間なんだよ」
ピノはまたガブに噛みつく。
「はいはい。仲がいいねぇ。」
イルルはそれを適当に流した。
そんな騒がしい空気の中、治療院の扉がゆっくり開く。
「……いるか?」
カインだった。
相変わらず静かな男だ。
だが五年前と比べると、表情はかなり柔らかくなった。
「ニール、少し話がある」
「カイン、昨夜、薬草の仕分け手伝ってくれてありがとう!」
イルルは言う。
「少しだけだ」
「少しじゃなかったよ~。朝方までやってた~」
ミアが言う。
カインは照れたように目を逸らした。
ニールはその様子を見ながら、小さく笑った。
こういう日常を守れた。
それだけでも、五年前の選択には意味があったのだと思う。
だが——。
「ニール」
カインの声色が変わった。
ニールは視線を向ける。
「南門の方に、また難民が来ている」
「どこからだ?」
「旧アステリズム神聖国領らしい」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
旧アステリズム神聖国。
かつてバルドール帝国とエルバート王国の狭間で崩壊した宗教国家。
今では小さな自治領に分割され、バルドール帝国の監視下に置かれているはずだった。
「人数は?」
「二十人くらいだ。ただ、少し妙な奴らだ」
「妙?」
カインは眉をひそめた。
「難民なのに……妙に統制されてる」
ニールは黙って続きを待つ。
「荷物の整理も早い。子供も騒がない。しかも、全員ちゃんと文字が読めている」
「文字?」
「ああ。衛兵の張り紙を普通に読んでいた」
イルルが怪訝そうな顔をした。
「旧アステリズム神聖国で?」
「それだけじゃない」
カインはさらに続けた。
「子供達が計算していた。
税率がどうとか、荷運び効率がどうとか……大人でも分からない事まで話していた」
ニールは少し考え込む。
商人ならまだしも、この世界の識字率、教育水準であれば大人でも中々難しい話だ。
よりよって旧アステリズム神聖国領でそんな教育が行われているとは聞いていない。
「それで、そいつらは何て言ってたんだ?」
カインは答えた。
「『新生アステリズムアステリズム神聖国』から来た、と。」
その名前を聞いた瞬間、ニールの胸の奥に嫌な感覚が走った。
まるで。
静かに終わったはずの時代が、再び動き出すような。
そんな予感だった。
南門の外には、冷たい朝霧が残っていた。
リオネッサの城壁沿いには、十数台の荷車が止められている。薄汚れた布を掛けた簡素な荷車だ。見た目だけなら、どこにでもいる流民と変わらない。
だが——。
「……妙だな」
ガブが腕を組みながら呟いた。
ニールは黙ってその様子を見ていた。
難民達は静かだった。
いや、静かすぎた。
子供が騒がない。
荷運びの順番で揉めない。
水の配給列も崩れない。
しかも、荷車の配置が妙に整っている。
「見てください〜」
ミアが小声で言った。
「あの子達、数えてます〜」
視線を向ける。
十歳くらいの子供が、木札に何かを書き込んでいた。
「……三十七、三十八……次の荷車は右側へ」
ニールは目を細めた。
計算している。
しかも暗算だ。
「旧アステリズム神聖国の子供が?」
イルルも驚いていた。
旧アステリズム神聖国は、元々そこまで識字率が高い国ではない。
教会関係者と一部商人。
文字を扱えるのはその程度だったはずだ。
「ニールさん」
衛兵が近づいてきた。
「代表者を連れてきました」
難民達の中から、一人の女が歩み出た。
三十代半ばくらいだろうか。
痩せてはいるが、目に力がある。
「私はエナと申します」
口調が妙に落ち着いていた。
難民特有の怯えがない。
「どこから来たんだ?」
ガブが尋ねる。
「南方自治領です」
「旧アステリズム神聖国領か」
「はい」
女は頷いた。
「新生アステリズム神聖国から参りました」
その名前を聞いた瞬間、周囲の衛兵達がわずかにざわついた。
最近、各地で耳にする名前だった。
だが実態はほとんど分かっていない。
「何しに来た」
ガブの声は警戒を隠さない。
女は静かに答えた。
「交易です」
「難民じゃねえのか?」
「難民でもあります」
「どっちだ」
「両方です」
その答えに、ガブが眉をひそめた。
俺が確認する。
「病人はいるか?」
「三人。熱病が一人、咳が二人。ただし隔離済みです」
「……隔離?」
「はい」
女は当然のように言った。
「感染拡大防止のため」
イルルとニールが同時に顔を見合わせる。
普通の難民がそんな言葉を使う事はまずない。
「それを誰に教わった?」
俺は聞く。
女は少しだけ誇らしげに笑った。
「神学校です」
「神学校?」
「新生アステリズムアステリズム神聖国では、全ての子供に教育を受ける義務があります。
また大人も学ぶ気がある人には教育を受ける機会を得る事が出来ます。
私も神学校で様々な事を学ばせて頂きました」
その言葉に、周囲が静まった。
「…一体、何を学んだんだ?」
「はい。まずは文字を学びました。
その後に計算です。
その後は個人によって違います。
経済学、衛生学、建築学等と様々ですね」
ガブが呆れたように言う。
「……それを全員?」
「はい」
「金持ちだけじゃなく?」
「はい」
「女子供も?」
「もちろんです。そんな事で差別はされません」
——差別——
なんでこの差別だらけのこの世界において、そんな概念を持てるんだ。
俺は理解が追い付かなかった。
イルルも横で小さく息を呑む。
この世界では、それは異常な事だった。
「それを誰がやってる」
俺は聞く。
エナと名乗った女は答えた。
「フィデル様です」
初めて聞く名だった。
だが、その場にいた難民達の表情が変わる。
尊敬。
信頼。
感謝。
そんな色が混ざっていた。
「フィデル様は、私達に文字をくださいました」
エナは続ける。
「仕事をくださいました」
「食事をくださいました」
「学ぶ機会をくださいました」
まるで祈りのようだった。
ガブが顔をしかめる。
「宗教かよ」
「違います」
女は即答した。
「救済です」
その言葉に、ニールは妙な寒気を覚えた。
エルバート王国にも。
旧アステリズム神聖国にも。
こんな空気はなかった。
もっと違う。
これは——。
『思想』だ。
「ニール…」
イルルが小声で言う。
「……なんか怖い」
「ああ」
俺も同意だった。
だが同時に、彼らの目に宿る光は本物だった。
偽物の熱狂ではない。
本当に救われた人間の目。
「ところで」
エナが穏やかに言った。
「こちらでは薬草を買い取っていただけると聞きました」
「薬草?」
「はい」
エナは荷車を開く。
そこには丁寧に乾燥処理された薬草が並んでいた。
しかも分類札付きだ。
「これは……」
俺とイルル、ガブも驚いた。
とにかく品質が高い。
下手な薬卸商会より良い。
「誰が加工した?」
「我々です。特に加工業は子供達が中心になって行っております。」
「子供が?」
「はい。新生アステリズム神聖国では、知識は民全員のものですから」
その瞬間。
脳裏に、ある女の顔が浮かんだ。
テオ。
「……まさか」
だが、すぐに頭を振る。
あり得ない。
テオが神聖国などに関わるはずが——。
「ニール?」
「……いや」
俺は荷車を見つめた。
乾燥薬草。
整理された分類。
効率化された輸送。
識字教育。
衛生管理。
そして、思想。
どれも、どこか『現代的』すぎた。
まるで。
誰かが最初から設計したように。
ガブが小声で呟く。
「こいつら、本当に難民なのかよ…」
俺は答えなかった。
ただ胸の奥に、嫌な予感だけが広がっていく。
五年前。
エルバート王国は終わり、アステリズム神聖国も終わった。
だが——。
本当は『終わった』のではなく、『始まった』のだとしたら…。
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