61話 【ゼニス歴1074年 テオ視点】
アステリズム神聖国の心臓部に入ったのは、バルドール帝国軍が外壁を制圧した翌日だった。
ワタシとユーリ、ミラが先行して内部の制御室に入り、施設の主要な門を開ける。
グレアム様とニールは三人の後から入った。
内部は——思ったより静かだった。
逃げ惑う人間はいる。だが、抵抗して戦おうとする人間はいない。
おそらく——組織として機能する前に、バルドール帝国軍が外部を制圧したせいで、命令系統が最初から切れていたのだろう。
「教団の護衛は」とグレアム様が言った。
「教皇の直近に集中しています。この先の祭殿ですね」
俺たちは廊下を進んだ。
装飾が多い。白い石と金色の細工。窓から光が差し込んでいる。立派だ。
「ここで暮らしている人間は多かったのか」とグレアム様が問う。
「常に千人以上、と聞いています。修道士、見習い、使用人、教団の役人。その外側に、巡礼者の施設があるようですね。」
「……千人」
「今は半分以上が逃げている状況ですが…」
廊下の先に、重い扉があった。
護衛が二人いた。
グレアム様の後ろにいた部下が対処した。短い時間で終わった。
扉を開けた。
広い部屋だった。
天井が高い。祭壇のような構造物が奥にある。
窓から差し込む光が、白い床の上に斜めに落ちていた。
教皇バルトロメウス3世は——そこにいた。
七十代の老人だ。白い法衣を着ている。
立ったままこちらを見ていた。
おだやかな顔をしていた。
その隣に、王府マルグリットが立っていた。
青白い顔で、動かなかった。
そして——部屋の端に置かれた椅子に、王ファランが座っていた。
目が虚ろだ。
こちらを見ていない。
生きているが、意識がどこにあるか分からない。
間違いなく薬の影響だ。
「来られたか」と教皇バルトロメウス3世が言う。
「はい」
「思ったより早かったですな」
「そうですか。準備をしていたので、遅くなったかと思いましたが」
教皇はニールを一瞥する。
まるで意を介さず、といった感じの表情だ。
くせもの という表現が一番よく似合う、そういう老人だった。
「あなたの薬の評判はよく聞いていましたよ。バルドール帝国を動かすとは、大したお方だ」
「私の薬は民に向き合っております。民に向き合わず作られた薬を扱う教皇の手腕の方が、大したお方だ、とは思いますよ。」
「ほっほっほ。褒めてくださっているのかな」
「まさか。事実を言っているだけですよ」
教皇は笑いながら、ニールとの会話を楽しんでいる。
なぜかしら。どこからこの余裕が出るのだろう。
ニールはファランを見た。
「ファラン王は」
「我が主の元に近づいておられる。もうすぐ、その魂は闇に召されるのでしょう」
「私は何人もの患者を診て来た薬師として言わせて頂きます。
薬があの状態にしてしまうというのは、これは薬を扱う生業をするものとして許せる行為ではない。
私は絶対にあなたの取った行為を許さない。彼にも平等に助けが必要です」
教皇は何も言わなかった。
目も顔も笑っている。ただ、表情は一切変わらない。
この老人とこれ以上話しても無駄なのだろうか。
ワタシは一歩前に出た。
「マルグリット様」
マルグリットは動かなかった。
「王妃マルグリット。聞いて。——あなたには、知る権利がある」
ワタシはマルグリットに書類を渡す。
受け取るその手は震えていた。
ワタシはその震えを見ながら、何も言わなかった。
「あなたとファラン王の婚姻の経緯が書かれています。
教皇があなたに語った言葉。
その全部の記録が、ここにある。
——これはワタシが王城で十年かけて写した書類の一部。
教皇バルトロメウス3世がファラン王に送った書簡の写し。
その中に、あなたの名前が出てくる。
何のために使われるかを、教皇は最初から書いていた」
マルグリットは書類を見た。
読み始めた。
最初の一ページを読んだ時、手の震えが少し強くなった。
二ページ目で、ゆっくりと、膝から力が抜けるように、床に崩れた。
声は出なかった。
ただ——その場に、座り込んだ。
「……なんで」
マルグリットが言った。声が乾いていた。
「なんで、こんなことを」
「教皇にとって、エルバート王国との婚姻は政治的な繋ぎでした。
あなたはその道具として最適だった。外見と、血筋と、扱いやすい性格」
「扱いやすい……」
「書簡の中の言葉よ」
マルグリットは書類を見ていた。
彼女は打ちひしがれているものの、泣いてはいなかった。
ワタシには、それが——泣けるより辛い状態に見えた。
泣くには、まず何が起きているかを処理しなければならない。
今は処理が間に合っていない。
「ファランは」とマルグリットが言った。
「今は動けない状態です。ニールが診ます」
「知ってた。ずっと知ってた。でも——どうにもできなかった」
「あなたも、道具だったから」
「……道具」
「でも」
マルグリットがワタシを見た。
「でも——道具が、道具でなくなることは、できる。
あなたは今ここにいる。
これからのことを、自分で選べる」
「何を選べるのかしら」
「ワタシにも分からないわ。でも——今から選べる、ということは確かよ」
マルグリットは長い間、床を見ていた。
背後で教皇が何かを言おうとした。
グレアム様がそれを静かに遮った。
「今は——この二人に時間を与えろ」
教皇は黙った。
ワタシはマルグリットの隣に、少し距離を置いて座った。
何も言わなかった。言う必要がないと思った。
外で、バルドール帝国軍の声がした。包囲が完成していた。
「……テオ」
マルグリットが言った。
「なに」
「あなたは——なぜここに来たの」
「教皇を追い詰めるために来た。
——でも、あなたに話しに来た、というのも本当よ。両方が本当」
「なぜ私に…」
「あなたが、最初から騙されていた人間だと——知っていたから。
それを誰も言わないままにしておくのは、おかしいと思った」
「……優しいのね」
「そうじゃない。ただ——知っていることを、知っていると言いに来た。それだけ」
「それだけ?」
「それだけ」
マルグリットはゆっくりと立ち上がった。
「……ファランと最期を共にしたいわ。
ここから外に連れ出してあげたい。
できればエルバート王国に戻りたいけど」
「それは難しいでしょうね」
「ここにいると——また教皇に使われるわ」
「わかりました」
マルグリットは教皇を見た。
長い沈黙があった。
その目に、もう何もなかった。憎しみも、愛情も、恐れも——全部、抜けた後の目だった。
「父上」
教皇が答えようとした。
「おお、愛しのマルグリットよ。どこへいこうというのだ。」
マルグリットはそれを聞かなかった。
振り返り、扉の方へ歩き始めた。
ワタシは後に続いた。
廊下を歩きながら、マルグリットが言った。
「どこへ行けばいい?」
「どこでもいいんじゃないかしら。
ただ、安全な場所を選ぶなら——バルドール帝国の保護を受けることができます。
それ以外でも、あなたが決めていい」
「バルドール帝国ね」
「あなたの自由よ」
マルグリットはしばらく歩いてから、言った。
「……ありがとう」
「礼はいいわ」
「いいえ。——言いたかったから、言ったのよ」
ワタシは答えなかった。
廊下の先に、出口があった。
そこから先は——選択の先だ。




