59話 【ゼニス歴1074年 ニール視点】
バルドール帝国軍がアステリズム神聖国へ向けて動き始めたのは、冬の入り口だった。
名目は「治安維持活動」だ。
クロノのリストと、俺の公表文書が、バルドール帝国皇帝に——動く正式な理由を与えた。
自国の商人が関わっていた記録があったことも、判断を早めた。
俺はリオネッサで、その報告を受けながら荷物を確認していた。
今度はエルバート王国の様な小手先は通用しない。
アステリズム神聖国も必死で抵抗をしてくるだろう。
バルドール帝国兵1万、リオネッサ駐留軍3千、王都での治安維持以外の戦略部隊7千で総勢2万が、エルバート王国領内からアステリズム神聖国へ進軍を開始する。
攻撃目標はアステリズム神聖国の聖都アルタ・セロ
聖都の北部には広い小高い丘になっている平原がある。
【ゼニス歴1074年 リチャルド視点】
バルドール帝国中央軍——聖都アルタ・セロ北方平原
冬の平原に、霧が出ていた。
「リチャルド皇太子殿下!敵陣は近いですぞ。危のうございます」
部下が叫んでいる。
「大丈夫だ、心配ご無用!この霧だ。相手も碌に見えまいよ」
日が出ていない。
雲が厚い。
視界は五百ほどしか取れない。
俺は馬上で前方上方を見ていた。
アステリズム神聖国の陣形は——見えない。
この平原において小高い丘の上、そして霧の中にいる。
ポジションとしては向こうが圧倒的地の利がある。
だが聞こえる。
馬の蹄の音が、霧を通してこちらに届いている。
三万以上の軍が動く音だ。
地面が低く震えている。
弟のヘンリーが馬を寄せてきた。
「兄上。視界がありません。弓隊の射線が取れない」
「わかっている」
「予定では一千五百の距離から弓を——」
「霧の中で弓を引いても当たらんさ。霧が晴れるまで待つ」
「晴れなければ」
「晴れる。冬の朝霧は二時間で消える」
ヘンリーは黙った。
俺は前方を見た。
アステリズム神聖国が何を持っているか、という情報は来ていた。火薬を使う兵器だ。
エルバート王国経由でアステリズム神聖国に渡った技術だと聞いた。
実物は見たことがない。
見たことがない兵器を相手にするのは——嫌いではない。
わからないものは、観察すれば次第にわかっていく。
最初の接触で何が起きるかを見る。それを判断材料にする。
だが——霧は困る。
観察するには、見えなければならない。
俺は副官を呼んだ。
「前衛を抑えろ。霧が晴れるまで動くな」
「はっ」
角笛が鳴った。
前衛部隊が速度を落とした。
霧が薄くなり始めたのは、それから一時間後だった。
白い靄が、光を透かし始めた。
アステリズム神聖国の陣形が——輪郭を見せた。
白と金の旗が並んでいる。
第一神聖騎士団が中央だ。左右に第二、第三が展開している。
距離は八百。
「弓隊——」と俺が言いかけた時。
音がした。
聞いたことのない音だった。
雷に似ていた。
だが空ではなく地上から来た。
連続した、短い、乾いた音だ。
前衛の兵が倒れた。
何が起きたか、一瞬わからなかった。
倒れた兵のそばに、馬が倒れていた。
血が出ていた。
傷がある。
矢ではない。
矢は見えない。
だが——穴が開いていた。
「な、なんだ!」とヘンリーが言った。
声が変わっていた。
また音がした。
今度は複数だ。
連続して鳴った。
前衛に当たった。
また兵が倒れた。
「後退!!」と俺は言った。
「兄上——」
「後退だ。下がればそこまで届くまい!今すぐに後退せよ!」
俺の声が届く前に、前衛は自分たちで動いていた。
本能だ。
見えない何かに撃たれている、という恐怖が訓練を上回った。
隊形が崩れた。兵が走った。
騎馬隊が巻き込まれた。
混乱が広がった。
俺は冷静に前方を見た。
アステリズム神聖国の陣形は動いていない。
まだ同じ位置にいる。
近づいてこない。
遠くから撃っている。
距離八百から、こちらに届く兵器だ。
俺は頭の中で整理した。
矢より速い。
音がする。
金属の穴が開く。
「あれが銃というやつか」と俺は声に出した。
ヘンリーが俺を見た。
「銃?」
「転生者の技術だ。火薬で金属の玉を飛ばす。弓より遠くまで届く。防ぎにくい」
「どうする?」
俺は前方を見た。
アステリズム神聖国の陣形が、今度は動き始めていた。
前進してくる。
「散開させろ! 密集した隊形は的になる!
間隔を広げて前進——できるだけ速く距離を詰めるっ!」
「距離を詰める?」
「そうだ!あの兵器は近づかれると弱い!
次の弾の装填に時間がかかる。一度撃ったら、次の射撃まで間がある。その間に——」
「それまでに撃ち抜かれるぞ!!」
「散開していれば当たりにくい!一か所に集まるな!とにかく前へ進め!止まるな!!」
俺は副官を呼んだ。
「全軍に伝えろ!! 隊形を崩せ!密集するな!
間隔を取って前進!銃声が聞こえても止まるな!——止まった兵が死ぬぞ!!」
副官が走った。
角笛が鳴った。
だが——遅かった。
最初の集中射撃が来たのは、その直後だった。
霧の向こうから、連続した音が波のように押し寄せた。
前衛の三列が——倒れた。
馬が何頭も倒れた。騎馬隊の隊形が完全に崩れた。
後続が前に詰まった。
密集した。
また音が来た。
今度は人の声が混ざった。
叫び声だ。金属の音ではない。
人の声だ。
俺は歯を食いしばった。
「前へ!」と俺は言った。声を上げた。
「前へ進め!止まるな!止まった者から死ぬ!!前へ——」
だが前衛は動かなかった。
止まっていた。
見えない何かに撃たれているという恐怖が、足を縫い付けていた。
これが銃の本当の力だ、と俺は思った。
傷や死よりも——恐怖だ。
見えない速度で来て、音とともに人が倒れる。
どこから来るかわからない。
どこに隠れても無意味に思える。
その恐怖が、軍を動かなくさせる。
「兄上」とヘンリーが言った。「北からの支援は——」
その時、北の方向から別の角笛が鳴った。
【ゼニス歴1074年 カイン視点】
北方戦線——エルバート王国軍 聖都北壁付近
銃声が聞こえた。
南から来た。遠い。だが聞き間違えない音だ。
一発ではない。連続している。波のように来る。
間が空く。
くそ、また来る。
グレアム様が俺を見る。
「……あれが、例の兵器か」
「はい」
「あれだけの量の銃声を聴いたは初めてだ。知っていたのか」
「いえ、あそこまでの大量の銃があるとは想定外でした。
エルバート王国に火薬技術をもたらした転生者がおり、その技術がアステリズム神聖国に流れた。
そこまでしか事前の情報にありませんでした」
「そうか。それでも想定は出来たのでは?」
「情報の確度が低く、確認が取れませんでした。
——確認が取れない情報を戦略に組み込むのは、誤判断の元になります」
グレアムは俺を見た。
「ふむ。お前は感情で判断しない男だな」
「はい」
「だが——今、その音を聞いてどう思っている」
俺はしばらく黙っていた。
「……行かなければなりません」
北側の制圧は済んでいた。
修道士たちが武器を置いて逃げ出した。
それで終わった。
血は出なかった。
だが今は、その先の話だ。
「バルドール帝国中央軍が押されています」と俺は言った。
「南西の平原です!
あの銃声の数から判断して、アステリズム神聖国は千丁以上の銃を保有している。
バルドール帝国軍は初見です。
対処法を知らない」
「支援に向かうか」とグレアムが言った。
「はい!
ただし——中央への直接支援は間に合わない。
迂回するには時間がかかりすぎる」
「ならば」
「側面から叩きます。アステリズム神聖国の第三騎士団——イングニルの部隊です。今、中央に向かって前進しています。後ろが空いている。そこに当たれば、中央の圧が減る」
レオムルが口を挟んだ。
「兵数は六千に対して我々は八千。だが銃があれば——」
「第三騎士団には銃がない」
「なぜわかる」
「銃は第一と第二に集中しています。
アステリズム神聖国は最初の一撃でバルドール帝国中央軍を崩すつもりだった。
だから主力の騎士団に集中配備した。
イングニルの第三は——従来の騎馬主体です」
俺は地図を広げた。
「第三騎士団の左側面から当たります。銃がなければ数の差が生きる。——行きましょう」
グレアムは俺を見た。
「カイン」
「はい」
「急ぐな。冷静に動け」
「わかっています」
「お前が冷静なのはいつもだ。だが——今日は、それを自分に言い聞かせるような目をしている」
俺は何も言わなかった。
「行け!」とグレアムが言った。
第三騎士団の左側面に当たったのは、それから二十分後だった。
予想通りだった。
イングニルの部隊は前進することに集中していた。
後ろを見ていなかった。
俺は騎馬隊を二つに分けた。
一隊が側面に当たる。
もう一隊が後方の退路を塞ぐ。
「前へ!」
俺の声に、部隊が動いた。
最初の衝突で、第三騎士団の後衛が崩れた。
イングニルが気づいて振り向こうとしていた。
だが前進の慣性が止まらない。
前と後ろで同時に圧がかかった。
俺は戦場の真ん中にいた。
剣が届く距離で、騎士と当たった。
大きな男だった。甲冑が厚い。剣が重い。
三合で——崩れた。
隙を見て、次の相手に向かった。
戦いの中で、俺は音を聞いていた。
南からの銃声だ。
まだ続いている。
間隔がある。
装填の時間だ。
一度撃ったら次まで間がある——その間隔が、俺には聞こえる。
十五秒から二十秒だ。
マスケット銃の装填速度はそのくらいだと知っていた。
前の世界の知識だ。
そしてその知識を教えてくれた人間が——この兵器の大元にいる。
火薬の調合から、導火線の燃焼速度まで。
職人として正確に、丁寧に。
何一つ隠さなかった。
俺は止めようとした。
止められなかった。
そして、処刑された。
三十年以上前の話だ。俺が七歳の時の話だ。
その火薬が今、南の平原でバルドール帝国兵を撃ち抜いている。
間に合わなかった。
俺はずっとそれだけを思って動いてきた。
あの時も、間に合わなかった。
ニールの父親、デイルの事もそうだ。間に合わなかった。
守れなかった人間の顔が、積み重なっていく。
だが——止まれない!
止まれば、また間に合わない!!
「カイン!」
レオムル様の声だった。
右から騎士が来ていた。
俺は反射で剣を上げた。
刃が弾かれた。腕に衝撃が走った。
体を回した。次の動きが見えた。
斬った。
騎士が馬から落ちた。
俺は息を吐いた。
周囲を確認した。
第三騎士団の陣形が崩れていた。
後退が始まっていた。
「押せ!」と俺は言った。
「退路を塞ぐな!逃げる者は追うな!前を押せ!旗を狙え!!」
イングニルの旗が——揺れていた。
後退だ。
第三騎士団が退いた時、南の銃声が——変わった。
数が減っていた。
単発になっていた。
レオムル様が気づいた。
「南が変わった。中央が盛り返したか」
「リチャルド殿下が立て直したのだと思います」とリオネッサ兵の一人が言った。
俺は南を見た。
霧は晴れていた。
平原に陽が差し始めていた。




