55話 【ゼニス歴1073年 セドリック視点】
書類が、読めない。
いや——文字は読める。数字も読める。計算は合う。
だが——意味がわからない。
こんな事は宰相になって初めての事だ。
どうしてこうなった。
この新しい帳簿の「民生流動費」という項目は、何を指しているのか。
以前の「民政管理費」とどう違うのか。
「防疫維持経費」は、どの部署の予算から引いているのか。
「地域自律枠」という概念は、いつどこで決まったのか。
私は三日間、この書類を読み続けた。
読めば読むほど、分からなくなる。
考えれば考えるほど「分からない」ということが分かる。
一つ一つの単語は辞書で引けばわかるが、文章全体として何を言っているのかが分からない状態だ。
「テフィル」
「はい、閣下」
「この書類を作成した人間は、誰だ」
「財務局の若手文官三名が担当しているとのことです。
先月からリオネッサとの取引実績を分析して——」
「名前を出せ」
テフィルが三つの名前を言った。
私は全員を知っていた。
七年前、八年前に左遷した人間たちだ。
アステリズム神聖国への批判を口にしたり、施策に疑問を呈したりして、使いにくかった人間たちだ。
「なぜ戻っている」
「財務局長の判断で、再配属が——」
「財務局長は報告が上げて来たか?」
「……確認します」
「よい。財務局長を呼べ」
財務局長が来た。
以前は頼れる部下だった。
今は——どことなく、動きが鈍い。覇気がない。
「閣下、この新しい書類は——」
「なぜあの三名を戻した」
「業務量の増加に対応するために人員が必要で、再配属できる人材として——」
「私の許可を得たか」
「……お伺いを立てたのですが、返事が——来なかったので、こちらで判断いたしました」
私は机を見た。
確かに、書類の承認が遅れている。
この難解な言葉の読解に時間を要するからだ。
それはまあ私の努力不足もあるのだろう。
それとは別に意識が、どこかに吸われているような感覚がある。
判断しようとすると、霧がかかったように遅くなる。
これは——何かがおかしい。
「この書類は私が処理した分だ——何故滞っている」
「あれ、おかしいな。さっきも同じことを思ったはずなのに。
申し訳ございません。今すぐ部門に回します」
そういって文官は下がろうとする。
「おい、書類を持っていけ」
「え? あ、そうだった。申し訳ございません。」
文官も今度こそしっかりと書類を抱きかかえるようにして下がる。
私は下がろうとしている文官に追加の質問を与える。
「この後の書類の流れはどうなっている? 通達は誰が出すのだ?」
「閣下の決裁が出た後、各部署への転送を担当する文官は、テレサです。」
「テレサ? アレックスではないのか?」
「なんでも異動あったと言って、アレックスは今は早馬の世話を任されています。
テレサもまだ不慣れなもので少し作業が止まっています」
「異動だと?」
「はい。人事の刷新だと言って、各部門で人事異動が行われております。
困ったことに各部門で一斉に起こっており、転送先の受取先が閣下の決裁を受けた後でも、再振り分けが必要とのことで」
「誰がそのシステムを入れた」
財務局長は目を伏せた。
「……財務局の三名が」
私は気づいた。
これは偶然ではない。
業務量の増加で人手が必要になった、というのも違う。
誰かが、意図的にこのシステムを設計して、意図的にこのタイミングで入れた。
私が読めない言語で。
私が判断できない構造で。
私の承認なしに動ける、別の決裁ルートがあるのか?。
「……誰が、やった」
「閣下」
「答えろ」
財務局長は静かに言った。
「このシステムを設計したのは——リオネッサにいる財務の担当者と聞いています。」
テオ。ふと思い出す。
あの転生者の子供。
財務局で十年間、私の監視下で仕事をしていた子供。
異様に仕事が早くて、数字の精度が高くて、だから手元に置いていた。
最後の方は私が動けない場合に宰相の変わりの書類仕事をさせていたこともある。
勿論出された書類の確認はしていたはずだが。
油断させる為、奴の前では奴の手伝いをする形でいたつもりだが、最後までボロを出さなかったあの子供。
私は騙されていたというのか。
これが——あの子供の仕業だというのか。
儂の手元に置いた十年間、着々と、この仕組みを準備していたのか。
「……お前は」
部屋が静かになった。
机の上の書類の山。読めない書類。未処理の決裁書。
「お前は——十年間、これを作っていたのか」
誰も答えない。
私は初めて——自分が動けなくなっているということを、悟った。




