54話 【ゼニス歴1073年 ニール視点】
エルバート王国の統治機能が落ちていく様子は、ゆっくりしていた。
崩れる、というより——止まっていく、という感じだ。
宰相が決裁を保留する。書類が積まれたまま動かない。
現場の文官が判断を上位に仰ごうとするが、上位からの返事が来ない。だから動けない。
判断が遅くなると、予算の執行が遅れる。
予算の執行が遅れると、各部署への物資の手配が滞る。
物資が来なければ、仕事が止まる。
そのタイミングで起こることは、新しくルールとして定められた、部門での「緊急時独自裁量権限委譲制度」だ。
この制度は上申した決裁書について、セドリック宰相から3日間決裁に対するリアクションがない際、部門が緊急だと判断した内容については部門に決裁を自動的に委譲され、部門長が判断して進めて良いという、一見聞けばスピード感の増す制度だ。
ただしそれは性善説に基づいた制度。
人間は善人ばかりではない。
この制度の裏面に気付いた悪人は相当数に上る。
要は部門が「緊急だ」と認めればよいという側面を利用する訳である。
通常、上申された書類は、宰相が決裁書を見た段階で側近から上申した部門へ受領の旨の通達が入る。
元々宰相は書類の処理速度が速かった。
だが、テオにより決裁システムが複雑化、独自の新しい文言が加えられた書類による処理速度の低下、「緊急時独自裁量権限委譲制度」を悪用しようとした腐敗部門の上申書類の乱発、これにより宰相府の業務量はキャパを大幅に超える。
これこそ、テオが仕込んだバグの恐ろしさだった。
セドリックは必至で内容を読み込もうと、テオに難解にされた文言を読み解こうと必死に喰らいつく。
一つ一つの書類に掛ける時間が増す。
それで決裁がどんどん遅れる。
各部門は決済が遅れると、緊急度合いの高い案件であると判断し、独自決裁権限を発動させる。
組織が好き勝手に動き出し、中央集権のエルバート王国のシステムが崩壊する。
すなわち書類だけ出しておけば、後から何とでも言える訳であり、現状は上申書類の量が通常の3倍以上に膨れ上がっている状態だ。
セドリックはなぜそんな事が起きているか、全く理解できないまま、また決裁書が溜まっていくという悪循環。
じわじわと、組織の結束が離れ、組織の血が止まっていく。
テオのバグが内側から機能し、本格的にエルバート王国の崩壊が始まったと報告がきたのは、ガブが連れてきた三人の文官が王都に戻ってから三週間後だった。
「思った以上に効いているわ」とテオが言った。
「どんなふうに?」
「中央財務局の書類処理方式が、少しずつ新しいフォーマットに切り替わっている。実務レベルで三人が動かし始めた。組織の末端から変わっている」
「セドリックの反応は」
「新しい書類の一つを見て、会議を中断したらしい。書類の意味が取れない、と言ったとか」
「あいつが書類の意味を取れないと言ったのか」
「そう報告書に書いてある。——ニール」
「何だ」
「ファランとマルグリットは、どうなるかしら」
俺は少し考えた。王とその后だ。
「アステリズム神聖国に逃げるだろうな」
「追うの?」
「追う必要がない。
アステリズム神聖国に辿り着いた時点で、あの二人はすでに不要な存在になっている。
教皇にとっては、エルバート王国を操るための道具として使ってきた。
エルバート王国が崩れた後、道具の価値はない」
「マルグリットは……教皇の実子よ」
「だから余計にだ。血の繋がりは、道具の有効性とは別の話だ」
テオは少し黙った。
「…そう」
「気になるのか?」
テオはすぐには答えなかった。
「……ええ。あの人は——ただの敬虔なヴォイド教の教徒なんだと思う。
私は実際にあの人の存在のお陰で命広いしたわ。
ワタシをヴォイド教の讃美歌を歌う神官か聖女に見えたらしい」
「神官?聖女?どういうことだ?」
俺は少し驚く。
そして少し警戒を高める。
「ああ、警戒しなくていいわ。
ワタシはヴォイドとは一切関係ない。
だって私は日本では物流会社で働いていた、ただのSEだったと言ったわよね。
正社員登用制度でギリギリ正社員になれたけど、管理職ですらない。
あの人、ワタシがPCの黒画面に向かってコードを書いているのを見て、ヴォイド(闇)に奏でるメッセージを歌っていると勘違いした。だからワタシは聖女様なのよ」
「……ぷっ」俺は思わず吹き出してしまった。
「…確かに笑っちゃうわね。
ワタシのどこが聖女なのよ。」
「ああ、そうだな。テオに聖女様は買い被りすぎだ」
「なによ! 自分で言うのは良いのよ。人言われるとなんか腹立つわ」
「すまん、すまん。」
「大変だったのよ。あんたたちと違ってワタシにはこの世界で通用するチカラがない。
PCが無いこの世界ではワタシのスキルなんて無用の長物よ。
だからヴォイド教じゃないけど元の世界の神官だったフリをしながら、なんとか生きる術を探した。
暗算が得意だったのは助かったけどね。」
「…暗算姫」
「…それは忘れなさい。まさかこっちの世界でも言われるとは思ってなかったわ」
「こっちの世界?」
「日本でも言われてたのよ。暗算姫って」
「ホントかよ」
「…ええ、住んでた場所から、『上州の暗算姫』って。死ぬほど恥ずかしいわ」
俺は不覚にも爆笑してしまう。
「笑うな‼ あー、言うんじゃなかった。完全な黒歴史だわ!」
「まあ、いいじゃないか。初めてお前のことが面白いと思ったよ。上州の暗算姫様」
「よーし、アンタのこと殴るわ。」
「悪い、悪い!」
「…カインに言ったら、ぶん殴るわよ」
「わかった。わかった。」
「…ほんとかしら」
俺とテオは笑い合う。気付けば言語も日本語になっていた。
「だけど、あれがターニングポイントだったのは間違いないわ。
ワタシはそれに乗っかったの。
それで今まで生きてこられた。
もちろんニールにも感謝している。
だけどワタシはマルグリットには感謝している。
あの人はアステリズム神聖国と実の父親である教皇に最初から騙されていた。
婚姻の経緯も、自分の立場の意味も、全部。
それを知っている人間が、誰も教えないまま利用し続けた。」
「だから、教えに行く気か」
「——その機会があれば、だけど」
「ああ。終わった後なら」
テオは頷いた。
「ニール」
「何だ」
「一つだけ確認させて。
ワタシたち——エルバート王国を壊した後に、何か責任を取る必要があると思う?」
俺は少し考えた。
「壊した責任と、建てる責任は別だ。
俺には建てる能力がない。
だが——壊した後に誰かが建てやすい状態を作ることはできる。
グレアム様とレオネル様がいる。
バルドール帝国がある。
テオが作ったシステムがある」
「それで十分かしら?」
「十分かどうかは分からない。
ただ——俺にできることはやった、と言える状態にはなるだろうな」
テオは少し黙った。
「……わかったわ」
外で雨の音がした。
春の雨だ。リオネッサの春は短い。
この雨が上がれば、薬草が一段と伸びる。
「イルル」
イルルがすぐに顔を出した。
「なに?」
「今日の薬草の水やりは要らない。雨が来た」
「あ、ほんとだ。——なにか楽しそうな会話してるけど、ご飯できてるよ。二人とも来れる?」
「ええ、今行くわ」とテオが言った。
俺も立ち上がった。
外ではエルバート王国が止まり始めている。
ここは——変わらない。
ここが俺の根っこだ、と思った。




