52話 【ゼニス歴1073年 ニール視点】
意識混濁剤の撒布は、ミラが段取りをした。
アステリズム神聖国からの聖水輸送に紛れこませる——という方針は俺が立てたが、実際の手順は、ミラが現場を見て一から組み直した。
「書類通りにはいかないもんなんだよ、こういうのは」
帰ってきた後でミラは言った。
疲れているのに、声は落ち着いていた。
「ご苦労だったな。で、何が違った?」
「倉庫の鍵が二重になってた。ユーリの報告では一つだったけど、実際は外鍵と内鍵の二段階。あと——搬入の担当者が途中で変わってた。ユーリが確認した人間が、三週間前から別の人間に変わってる。理由は黒吐病だ」
「対応できたか」
「もちろん。鍵師の知り合いに頼んだ。緊急で動いてもらったから、金が通常の倍かかったけど」
「クロノに言えば払う」
「もう払ってもらった。精算書なものも作ってある」
俺は頷いた。
「混入の確認は」
「直接確かめたよ。分量通りに入っている。気づかれてはいない。担当者が変わったせいでタイミングが一日ずれたけど、誤差の範囲」
「よくやった」
ミラは少しだけ目を細めた。
褒められることに慣れていない、って顔だ。
でもまんざらでもない、そんな顔だった。
「次の搬入は何日後だ」
「七日後。通常の周期通りなら」
「ならその翌々日には、城内の食料に混入している計算になる。——あと七日だな」
七日後、ミラの計算通り搬入が行われた。
その四日後の日付で最初の報告が来た。
ユーリの伝手の一人、王都で商いをしている男からだ。
「城内の近衛兵の動きが、ここ数日で変わった。
午後になると、どことなく覇気がない。
巡回のペースが落ちて、立ち話をしている時間が増えている。
以前なら上官が叱責するような態度でも、上官自身も同様の状態なので、誰も咎めない」
俺は報告書を読んだ後、テオに渡した。
テオは黙って読んだ。
「……機能している、ってことかしら」
「ああ」
「セドリックは」
「宰相府の会議を次々と短縮しているという話だ。判断を保留するケースが増えている。書類の承認が滞り始めている」
「新しい決裁書のせいもあるかしら」
「それも大きな一因だろうな。そこら中で宰相が把握できていない事象が起き始めている。今、本人はパニックだろうな。そこに混濁剤の効果で、もう理解が追い付かない状況だろう。
お前が仕込んだシステムと、両方が同時に効き始めている」
テオは少し考えた。
「この後はどうするの?」
「グレアム様に動いて頂く。正式な書状を王都に送る。
リオネッサ辺境伯の離反宣言だ。
その段取りをユーリに頼む」
ユーリは頷きながら答える。
「承知しました。どんな内容の書状にしましょうか」
「エルバート王国の統治方針に相容れない、エルバート王国からの離反、自立を宣言する、という内容だ。
穏やかな文面で。激しい言葉は要らない。」
「激しくする必要がない、といのは?」
「向こうが動く前に、まずはこちらの立場を明確にする。
書状を受け取った王とセドリック宰相は宣言に怒って国軍を出そうとするだろう。
だが、機能しない。
今はエルバート王国軍も分裂状態だ。
独自裁量を得た人間は勝手をしたがる。
だから今の状態では全軍の出兵なんて決断は絶対にできない。
精々、宰相個人あたりから書類が届くのが関の山って感じだろうな。」
テオは俺を見た。
「……全部、計算の内なのね」
「計算と予測は違う。実際に動くまで、分からない部分があるがな」
「でも、こうなると思っていた」
「思っていた」
テオは少し黙った。
「ニール」
「何だ」
「ここから先はもう後戻りはできない。すべて上手くいくとは限らない。後悔するかもしれないわよ?」
「確かに後悔するかもしれない」
「それでもやるのね?」
俺は目線を少し反らす。
部屋の端ではイルルとピノが薬草の仕分けを始めていた。
俺は改めてテオに向き合い、宣言する。
「やらないと、他の後悔をする」
テオはしばらく何も言わなかった。
窓の外で、リオネッサの子供たちが走っている。
「テオ」
「何?」
「日本に帰りたいのか?」
テオの目が少し動いた。
「……ええ、そうね」
「そうか」
「カインはどうなんだろう?」
カインはずっと出ずっぱりだ。
ここしばらく顔を見ていない。
ただ、報告書ではリオネッサ領兵の訓練精度はめきめき上がっているとの事。
指揮官として現代戦術を理解した小隊を複数動かせる状態にあるという。
流石に元自衛官で指揮官クラスだっただけの事はある。
「どうなんだろうな」
「あなたはどうなの? 日本に帰りたくないの?」
「そうだな…。今は考えられないな。まずはこちらでやり残した事をやる、それから考えるさ」
「…そう。あなたらしくていいわ。」
テオはそのまま作業に戻ると思いきや、続けて話す。
「…私は最近、刀祢の事を忘れていた。」
「そうか」
「あれだけ気になっていたのに。あれだけ心配していたのに。最近すっかり忘れていたの。」
「……」
二人で少し黙った。
外で鳥が鳴いた。
「——私は変わってしまったのかしら」とテオが言った。
「……」
「もうちょっと、ワタシに興味を持ちなさいな」
「…すまない。それに関して俺は答えを持ち合わせていない」
「…そうね。少し気後れしているのかも。忘れて頂戴。」
「ああ。そうするよ」
「ええ。ありがとう。」
気を取り直して、次の書類に向かった。




