50話 【ゼニス歴1073年 ニール視点】
意識混濁剤の研究を始めたのは、テオのシステムがエルバート王国内で機能し始めた頃だった。
設計の方向は最初から決まっていた。
感覚を奪わない。痛みも、空腹も、疲労も、感じさせる。ただ——戦う意志だけを、水で薄めたように希薄にする。守れ、と命じられれば守ろうとする。だが、誰かを傷つけるための意志が、霧の中に消えていく。
難しいのは、その「戦意」だけを選択的に抑制する成分の特定だ。
脳の機能に作用する薬草は、この世界にも存在する。
問題は、効果が広すぎることだ。
「戦意」だけでなく、「思考」や「記憶」や「感情」ごと落としてしまう。
それでは廃人を作るのと変わらない。
乾いた薬研の音が、部屋の静けさを刻んでいた。
すり潰された葉は青い香りを立て、粉は淡い灰色に変わる。
俺は手を止めず、鼻先でわずかに空気を確かめた。
「……まだ荒い」
机の上には、名もない草や花が並んでいる。どれもこの世界の草花だ。
山の北側で採れた細葉の草、湿地にだけ咲く白い花、そして樹皮から削り出した薄い膜。どれも単体では効きが弱い。眠気を誘うだけでは足りない。俺が欲しいのは、もっと速く、もっと確実に『戦う力』を削ぐものだった。
最初の試作は単純。鎮静作用のある草を乾燥させ、粉にして焚く。煙は出た。
だが、効きは遅く、むせるだけ。これでは普通に逃げられてしまう。
二度目は抽出して水に溶かし、霧にした。
効きは多少上がったが、今度は喉を刺激しすぎて咳き込ませる。吸い込ませる前に、警戒される。
「刺激は要らない。入口で拒まれたら終わりだ」
俺は白い花を指でつまみ、花弁を裂いた。内側にわずかな油分がある。指先でこすると、重く柔らかな香りが立つ。これ自体は強い作用を持たないが、他の匂いを丸め、尖りを消す性質がある。俺はそれを基材に選んだ。
乳鉢に花弁を入れ、ゆっくりと押し潰す。
そこへ、細葉の草の粉をひとつまみ。
さらに、樹皮の膜を細く裂いて加える。
膜は水を含むと膨らみ、乾くと薄く固まる。
霧の粒を“持たせる”ための骨格だ。
水を垂らし、練る。
ペーストは次第に滑らかになり、白濁した粘りを帯びる。
俺はそれを小さな器に移し、弱い火にかけた。
ぐつり、と微かな泡が立つ。香りが変わる。
青さが消え、丸い、柔らかな匂いになる。
「ここまではいい」
問題はここからだ。
俺は小瓶を取り出し、先ほどの液を霧状に吹き出す簡易の器具に満たす。
試しに、窓辺へ向けて一噴きする。
白い靄が、すっと広がる。
だが、すぐに消える。
粒が粗い。
重さが足りない。
俺は失敗を悟る。
棚からもう一つの瓶を取った。
山陰で見つけた苔から抽出した液。
これを加えると、粘りが増し、粒が細かく均一になるはずだ。
だが同時に、重くなりすぎる危険もある。
少し考えるが、まずはやってみるべきだ。
数滴だけ垂らし、再び混ぜる。
色はわずかに濁り、指で触れると糸を引く。
器具に戻し、今度は室内で、ごく少量だけ噴いた。
――吸うな。
自分に言い聞かせながら、布で口元を覆う。
霧はゆっくりと床近くに広がり、留まる。
さっきよりも長く、空間に残る。
「……いいね」
だが、まだ足りない。
これでは“鈍る”だけだ。
俺が欲しいのは、判断そのものに遅れを生む働き。
考えが一拍遅れ、距離を誤り、手から力が抜ける――その一線。
俺は机の端に置いていた乾燥した種子に目を向ける。
細葉の草と同じ場所で見つけたものだ。
砕くと、わずかに舌が痺れる。
単体では弱いが、神経の働きに触れている感触がある。
「これを……ほんの少し」
指先で砕き、粉にする。
乳鉢へ戻し、全体に均す。
火は使わない。
熱で変わる性質ではないと判断したからだ。
代わりに、時間をかけてなじませる。
ゆっくり、均一に。
やがて、液は静かに落ち着いた。
匂いはさらに丸くなり、刺すものが消えている。
俺は器具を手に取り、深く息を吐いた。
布を口に当てたまま、今度は自分の腕の高さで、ごく短く噴く。
霧は、逃げない。
そこに“いる”。
俺は数歩下がり、様子を見た。
時計代わりの砂が落ちる。三、四、五――。
布越しでも、空気の重さがわずかに変わるのがわかる。
胸の奥が、ほんの少しだけ静かになる。
さらに一歩、近づく。意図的に、浅く吸う。
――遅れる。
思考が、わずかに遅れた。
危険だと理解してから、身体が引くまでに、ほんの一拍。
距離の感覚が、ほんの少しだけ狂う。
手を伸ばせば届くはずの器具に、指が空を切る。
「……これだ」
すぐに窓を開け、外気を入れる。
新しい空気が流れ込み、頭の霧が薄れる。
数十秒で感覚は戻った。
残るのは、軽い疲労と、確かな手応え。
俺は机に戻り、配合を紙に書きつけた。
花弁の量、草の粉、膜の比率、苔の液は三滴、種子の粉は耳かき一杯。
加熱は弱火で短時間、最後は冷却してから混和。
「眠らせない。止めもしない」
ペン先が、紙を強く押す。
「ただ、少しだけ――ブレーキをかける」
出来上がったものを入れた小瓶を掲げ、光に透かす。
中の液はほとんど透明で、わずかに白い影を宿している。
器具に取り付け、軽く振ると、静かな音が返る。
―― 鎮静ミスト ――
その名を、まだ口にしない。
ただ、必要なときに、確実に『戦いを終わらせる』ためのモノがここに出来た。
次は、範囲と持続の調整だ。風のある場所でどう振る舞うか、密閉に近い空間でどこまで保つか。
やるべきことは多い。
だが、核心は掴んだ。
俺は布マスクを外し、深く息を吸った。澄んだ空気が胸に満ちる。
「……ようやく、辿り着いた」
翌朝、完成品をみんなに見せる。
「で、どうやって撒くわけ? まさか空気にそのまま流すって訳じゃ無いでしょうね」
テオが聞いた。
「水源?食料経由?」
「水源は検出されやすい。食料経由が現実的だろうな」
「王城の食料の調達先は」
「三カ所。王都の中央市場、城内の畑、それから——毎日運び込まれる黒パンだ」
テオは少し考えた。
「パン、ね」
「ああ。これに関しては王城で真っ先に必要とされるものだ。逆に検査が甘い」
「ユーリに裏を取らせるわ。ワタシが作成したマニュアルがまだ生きているのか。物資の搬入ルートを、人と時間まで含めて」
「頼む」
「ミラには現地確認をさせる」
「ああ」
「ニール」
「何だ」
「この薬——使い終えた後、どうするつもり?」
「使う必要がなくなったら、廃棄する。製法は残さない」
「本当に?」
「本当に。こういうものは、無い方がいい」
テオは少し黙った。
「……信じるわ、あなたのその判断を」
「ありがとう」
「でも——一つだけ言っておく」
「何だ」
「失敗した時は、一緒に対処する。一人でやろうとしないで」
俺は少し間を置いた。
「……わかった」
ユーリからの報告は二週間後に届いた。
詳細な地図付きだ。
アステリズム神聖国から王城への物資の搬入口、搬入の曜日と時間帯、担当する人員の名前と人数、倉庫の鍵の管理者まで。
テオが作成したものと何も変わっていなかった。
ユーリは「貴族のボンクラ」を演じてきたが——その十五年分の観察眼が、情報収集に出ていた。
無駄がない。
「ミラ」
と俺は呼んだ。
「なに」
「王都に入れるか?」
ミラは腕を組んだ。
「一人でならな。ミアは連れていけない。どんくさいからな。」
「一人でいい。——この倉庫を確認してくれ。搬入のタイミングと、鍵の管理を直接見てほしい」
「書類と実物は違うってこと?」
「大抵、違う」
ミラは地図を眺めた。しばらく指で道順を辿った。
「いつ行ったらいい?」
「次の搬入日の十日前。余裕を見る」
「わかった。二日あれば確認できる」
ミラが出ていった後、イルルが言った。
「……本当にやるの?」
「ああ」
「死んだりしないよね?」
「この薬は人を殺さない。体が動かなくなるわけでもない。ただ——誰かを傷つけようとする意志だけが、薄れる」
「全員に効くの?」
「個人差がある。特に強い意志を持つ人間は、効果が出にくい可能性がある。そのことは計算に入れてある」
テオが口を開く。
「一つだけ聞いていい?」
「何だ」
「セドリックが、最初に気づいたとして——何と言うと思う?」
俺は少し考えた。
「やってくれたな、と言うんじゃないか」
テオは少し笑った。
「……だとしても、その時はもう遅いかもね。」
俺は何も言わなかった。
窓の外で、リオネッサの夕暮れが始まっていた。




