48話 【ゼニス歴1073年 グレアム視点】
バルドール帝国の法務官は、予想より仕事が早かった。
翌朝の交渉で、骨格がほぼ固まった。
治療薬の独占配給権をバルドール帝国が持つ。供給元はリオネッサ。配給先の選定はニールが決め、バルドール帝国はそれに従う。
また、リオネッサ辺境領へは不可侵とする。
儂はその場で証人として署名した。
法務官が書類を整えている間、皇后エレナは窓の外を見ていた。
「グレアム」
「はい」
「あの薬師は——お前の何なの?」
「配下の者ではありません。ただ、儂の領でやりたいことをやっている人間です」
「…なにか隠しているんでしょう?」
「滅相もありません」
「エルバート王国がやっている『転生術』関連の生き残りか?」
「仰っていることの意味がわかりませんな」
「ふん。どうせそんなことだろうと思ったわ。何人抱えている?」
「仰っていることの意味が全く分かりませんな」
「…何人かいるのでしょう? 教えて。教えなさい。教えてちょうだい。」
「はっはっはっはっは。ご勘弁を。」
「…ちっ。これだから嫌いなのよ、このジジイは」
「恐悦至極に存じますな」
「うるさい! はぁ…。旦那が来たくない理由もわかるわ。あんたらに絡むとロクな事がない。
エルバート王国なんてアステリズム神聖国と共に自滅すればいいのよ。
バルドール帝国は知ったこっちゃない。
そもそも、なんであんたが動くのよ。
さっさとくたばっちまえばいいのに。もう」
エレナ様はそう言い、出しておいた菓子を食べる。この地方の名物だ。土産にも丁度良いだろう。
「…ふむ。そうですなぁ。儂もそろそろ隠居を考えておりましてな」
「57だっけ? 老け込むにはまだ早いでしょう」
「息子が育っておりましてな。道を譲ってやるいいタイミングだと考えております」
「ここにきての親バカ? …それで、その子はデキるわけ?」
「剣の腕は当の昔に負けておりますな。
頭の方は、そこそこ。
ですが、ここにきていい補佐が出来ましてな」
「もう取込んでいるって訳なのね!
もー、信じらんない‼
あんた、ヒトをこんな辺境まで呼びつけておいて自慢したかった、ってことなのね!
すーーっごい腹立つ! もー、知らない。やっぱりリオネッサ、潰してやろうかしら」
「はっはっはっはっは。お戯れを。エレナ様にとっても里帰りの良い口実だったのでは?」
「ふん。そうね。そう思う事にするわ。
でも、グレアム・ヴィクトル・リオネッサとあろう人物が、このタイミングでなぜエルバート王国に牙をむくの?
私にはそれが分からない。
リオネッサはエルバート王国の盾じゃないの?
それが例え腐ったエルバート王国だとしても。
色々あるでしょうけど、あんたの家は先代先々代の王への忠義は本物だったはずでしょう。」
「そうですなぁ。儂にも譲れないものがあるのですよ」
「例えば?」
「例えば…。守るべきモノが身内によって傷付けられていた。
それも他のモノの導きによってなされている悪行に、罪のないモノが巻き込まれていた。
それを気付かずに馬鹿の如く、身内にご機嫌を伺っていたと知った時、エレナ様ならどうなさりましょう?」
「……私なら死ぬわね」
「儂は悔しくて、情けなくて。ですが、それでもまだ儂を領主と慕ってくれる者等が大勢おりましてな。
この屈辱は儂の代で終わらせねばならんのです。
だから、儂は王から賜った『ヴィクトル』という名前を捨てることにしました」
エレナ様は立ち上がり、窓の外を眺める。
「小さいころ、あの山の形が好きだった。さっきのお菓子も大好き。」
「はっはっは。それは職人が喜びますな」
「そうね。チュラムさんだっけ?」
「今は息子のチューイが店を引き継いでおりますな」
「そう。小さいころ、母とよく買いに行ったわ。
国境を超えるのが面倒だったけど、今ほど警備も何もなかった。」
そういってエレナ様はまた窓の外を眺めた。
条約締結の捺印式が始まる。
【バルドール帝国・リオネッサ辺境領 安全保障及び経済協力条約】(通称:リオネッサ条約)
バルドール帝国皇后エレナ・バルドールとグレアム・リオネッサは、双方の領民の安寧と大陸の長期的安定に寄与するため、対等の立場において以下の条項を締結する。
第一条:領土の相互不可侵と国境の確定
1バルドール帝国及びリオネッサ辺境領は、現行の国境線を尊重し、互いの領土を侵さないことを誓約する。
2紛争回避のため、国境付近における軍事演習を行う際は、事前に通知を行う義務を負う。
第二条:エルバート王国側との摩擦に対する安全保障協定
1 両者は、エルバート王国中央がリオネッサを緩衝地帯として利用しようとする策動に対し、共同してこれに抗する。
2 エルバート王国軍による一方的な軍事行動、あるいは不当な圧力がリオネッサに加えられた場合、バルドール帝国はこれを静観せず、必要に応じた後方支援、あるいは牽制行動を実施する。
3 バルドール帝国が動く際の条件として、リオネッサはバルドール帝国の安全を脅かす勢力に対し、領内を通過させない義務を負う。
第三条:医薬品配給拠点の設置と防疫協力
1バルドール帝国領内の指定地域に、リオネッサが管理・監修する「医薬品配給拠点」を設置する。
2当該拠点における治療薬(黒吐病特効薬等)の配給権はリオネッサ側が保持し、バルドール帝国はその運営に必要な敷地、警備、物流資材を提供する。
3感染症(黒吐病等)の発生時において、両者は情報を即時共有し、対応策に準じた隔離・治療措置を共同で実施する。
第四条:人員交流及び経済的交流の促進
1両者は、商人の往来を奨励し、街道の安全を保障する。
2両者が構築していく新・物流網に基づき、薬草、食料、鉱物資源の優先的な交易路を確立する。
3技術交流の一環として、治癒、土木、財務管理に関する専門的人員の相互派遣を認める。
第五条:リオネッサ辺境領の自治権及び独立性の認知
1バルドール帝国は、リオネッサ辺境領がエルバート王国から独立した自治権を有する「独立行政領域」であることを認知する。
2バルドール帝国は、リオネッサの国内政治に干渉せず、その独自の法体系及び管理体制を尊重する。
3リオネッサがバルドール帝国に組み込まれることはなく、永続的なパートナーシップに基づく「対等な同盟関係」であることを再確認する。
条約の締結に署名した後、エレナ様はわずかに笑った。
「帝都を出る時はこうなるとは夢にも思わなかった。」
署名が終わった後、エレナ様はニールと別室で少し話した。
儂はその場に同席しなかった。
ニールが戻ってきた時、表情は変わっていなかった。
「何を話した?」
「治療薬の研究について、いくつか質問されました」
「答えたか」
「答えられる範囲で」
「エレナ様はなんと?」
「『十年後のことを教えろ』と言われました」
「何と答えた」
「『分かりません。ただ、今やっていることの延長にある』と言いました」
儂は少し間を置いた。
「……正直だな」
「嘘をつく必要がありませんでしたので」
その日の夜、儂はレオネルに書状を書いた。
リオネッサに戻る。
エルバート王国への対応を準備しろ。
軍を動かせる状態にしておけ、ただし実際に動かすのは儂が判断してからだ、と。
翌朝、バルドール帝国の一行が引き上げた。
見送りの後、儂はニールを呼んだ。
「一つ聞いていいか」
「はい」
「お前は——エルバート王国をどうしたい」
「壊します」
短い答えだった。
「建て直すつもりはないのか」
「俺には、できません。
俺がやれることとやれないことがある。
建て直しは——俺のやれることではありませんので」
「では誰がやる?」
「あなたがおられるでしょう。俺の役目は、建て直せる状態を作ることです」
儂はしばらく考えた。
「ニール」
「はい」
「お前は——デイル近衛騎士団長、お前の父上のために、これをやっているのか」
ニールは少し間を置いた。
「一つの理由ではありません」
「だが、理由の一つにはある、ということか」
「……はい。あります」
儂は頷いた。
「儂も、同じだ。民のためでもあり、先代から引き継いだ責任のためでもある。
一つだけ、ということはない」
ニールは何も言わなかった。
「グレアム様」
「何だ」
「一つ、お願いがあります。
この先——俺たちが動く時、あなたに矢面に立っていただく必要があります。
政治的な決断を、グレアム様の名前でしていただかないといけない」
「お前に使われろ、ということか」
「結果的にそうなのかもしれません」
「なぜ正直に言う」
「騙して動かすより、分かった上で動いていただく方がいい。それだけです」
儂はしばらく黙った。
それから——笑った。
久しぶりに、腹の底から笑えた気がした。
「気に入った。——やってやろう。ただし、
矢面に立つのは儂ではない。レオネルだ。」
「レオネル様…」
「心配せんでいい。ああ見えても、奴は儂以上に武人、そして頭もキレる。
経験が足りないだけよ。
それに儂も共に立つ。
そして全ての責任は儂が取ってやる」
「十年後のために、ですか」
「そうだ。それくらいやれ。儂もお前に使われっぱなしでは癪に障るでな」
ニールはニヤッと笑い、そして頭を下げた。
「ありがとうございます」
「感謝は後でしろ。全部終わってからだ。その時、とっておきの酒を出してやる」
儂は立ち上がった。
積み上げてきた四代分の時間が、やっと——使い道を見つけた気がした。




