44話 【ゼニス歴1072年 テオ視点】
治療院。
自分の部屋でニールと話をする。
ヴァルナール村とアステリズム神聖国の位置関係を睨んでいた、ニールが地図を覗き込んでいたので尋ねる。
「……施設の場所と重なる、というのは?」
「人を大量に収容している場所では、衛生管理が遅かれ早かれ破綻する。死者が出る。死体の処理が杜撰なら、感染症は広がる。これは仕組みの問題じゃなくて、規模の問題だ。どれだけ隠しても、一定以上の死者が出れば環境が汚染される」
「黒吐病というのは——どういう感染経路?」
「水の汚染経由が主だ。潜伏期間は三日から十日。発症後、治療しなければ致死率は五割って所だろうな。問題は——感染を自覚しないまま移動する感染者が多いことだ。旅人や商人に混じって、静かに広がる」
「国境を越えたら」
「今のエルバート王国に、それを制御する防疫体制はない。アステリズム神聖国も同じだ。教団の治癒師は感染症の制御には使えない。治療とは別の話だから」
ワタシは少しの間、地図を見ていた。
指先が、ある発生地点の上で止まった。
「……ここ、王都からそれほど遠くないわ」
「ああ。もう入り込み始めているかもしれない。確認中だ」
「ニール」
「何だ」
「それ——使えない?」
ニールは答えを少し保留する。
感染症を武器にする。
理屈の上では成立する。
広がり方を計算して、ワタシたちが守られている間に敵の体力を削る。
「使えるかもしれない。ただし、俺たちが制御できる感染症と、俺たちの手を離れた感染症は別物だ」
「区別できる?」
「できるように設計する。そのためには、先にリオネッサに防疫の仕組みを敷く。守りを固めてから、その外で何が起きるかを見る」
ワタシは頷いた。
「わかった。流通と配布は私が担当する。どの地域にどの薬をどの量で流すか、ルートとコストも含めて全部出す。三日でいい?」
「十分だ」
「ニールは治療薬の量産を始める?」
「そうだな。今日から始める」
「今日から?」
「今日からじゃないと間に合わない」
ワタシは少し黙った。
視線を地図に落としたまま、何か考えている顔をしていた。
これは聞いていいのだろうか。いや、やはり聞いておこう。
「……あなたは、これを最初から見えていたの? 感染症のことも、人身売買のことも」
ニールは答えなかった。
「流石に俺もそこまではわからないさ。ただ、……降りかかる火の粉が見えた時、どう振り払うか。それのほうが重要だと思う。俺は薬剤師だ。薬剤師はどちらかというと対処療法が専門になる。
クロノに人員の手配を頼む。ミラとミアには情報収集の範囲を領内全域に広げてもらう。ユーリにはアステリズム神聖国内の施設の位置を調べさせてくれ」
「グレアム様には?」
「防疫の仕組みが形になってから報告する。動く前に相談すると、余計な心配をかける」
「そういう判断をするのね」
「ああ」
ワタシは立ち上がった。
「了解。——ニール」
「何だ」
「一つだけ確認させて。今回のことは——リオネッサの民のための動きよね?」
ニールは少し間を置いた。
「いや、今は自分のやれることをしているだけだ」
「正直ね」
「お前が聞いたから答えたまでだ」
ニールは何も言わずに部屋を出た。
ワタシは地図に視線を戻す。
感染経路。発生地点。水源の位置。交易ルート。人の流れ。
点が——線になり始めていた。
線が——形になり始めていた。
防疫システムの設計は、三日かかった。
数字を出すこと自体は早い。
問題は、この世界の物流インフラがワタシの想定より遥かに手作業寄りだということだ。
王城にいた頃は「書類の上の数字」として物資を動かしていた。
帳簿の上では荷物はきれいに動く。
でも現実には、荷馬車が道に嵌まって動けなくなり、橋が増水で渡れなくなり、馬が熱を出して一週間止まる。
そういう「現実の摩擦」を、ワタシはまだ十分に把握できていなかった。
「クロノ」
「はい」
「この薬草の輸送ルート、三つ候補を出したんだけど——どれが一番現実的?」
クロノは地図を見た。すぐには答えなかった。指先でルートを辿りながら、少し考えた。
「Bルートです。Aは橋の老朽化が深刻で、重い荷は向きません。実際、去年の秋に商隊が一台落としています。Cは確かに距離は短いですが、夜間は盗賊の出没が多い街道で」
「盗賊の動向は?」
「ガブが把握しています。どの時期にどの街道が危険か、かなり正確に押さえているので、事前に相談すれば避けられます」
「じゃあガブに確認してもらえる?」
「既に聞きました。昨日のうちに」
ワタシはクロノを見た。
「……先に動いてたの?」
「テオさんがルートを考えているのが見えたので」
クロノはもう一枚の紙をテオの前に置いた。Bルートを使った場合の月別コスト計算だ。季節ごとの路面状況の補正まで入っている。
「これ、全部昨日一日で出したの?」
「好きなので。計算が」
ワタシは数字を確認した。
悪くない。
ワタシが出した計算より、実は少し効率がいい。
道の状態を考慮した迂回コストの計算が、ワタシより正確だ。
「クロノ、あなた、帳簿管理だけにしておくには惜しいわね」
「ニールさんにも先日同じことを言われました」
「二人が同じことを言ったなら、本当にそうよ」
クロノは少し困ったような顔をした。
ワタシは計算に戻る。
防疫システムの核心は三つだ。
一つ目は水源の保護。感染症の主な経路は水の汚染だから、水源に監視点を置いて定期的に状態を確認する。問題が出たら使用を止めて代替水源に切り替える。
二つ目は感染者の早期隔離。症状が出た段階で速やかに隔離できる仕組みを、各村の長に周知する。難しい判断は要らない。
「この症状が出たら、すぐここに報告する」という単純なルールだけ作る。
三つ目は治療薬の配布ルート確保。これはニールが薬を量産化させることが前提だ。
「ニールの研究は、どのくらいかかりそうか把握してる?」
「本人は『三ヶ月あれば試作品が出せる』と言っていました」
「ということは、実際には六ヶ月ね」
クロノは一瞬黙った。
「……はい、おそらく」
「でも五ヶ月で出す、と言い張ると思う」
「言うと思います」
「だから四ヶ月で機能する設計にする。それより早く完成したら、その分を余裕にすればいい」
ワタシは計算を進めた。
最悪の場合を前提にして計画を組む。
ニールの薬が遅れても、遅れた分を補える構造にする。
一点に依存しない。それがシステム設計の基本だ。王城で十年間で学んだことの、核心はそこだ。
「グレアム様への報告書、一緒に確認してもらえる?」
「はい。今すぐ持ってきます」
クロノが席を立とうとした。
「クロノ」
「はい?」
「ありがとう」
クロノは少し驚いたような顔をした。
それから少し照れたように「いえ」と言った。
クロノが部屋を出た後、ワタシは一人で窓の外を見た。
リオネッサの街が見える。石造りの通りに、午後の光が斜めに落ちている。
王城にいた頃、ワタシは数字しか見ていなかった。
帳簿の中の数字。
送金の記録。
税収の推移。
それが世界のすべてだった。
今は——街が見える。
街の向こうに、黒吐病の波が来ていることも見える。
見えた上で、手を打てる。
それがよかった、とワタシは思った。




