42話 【ゼニス歴1072年 ニール視点】
イルルが倒れた夜、外はやけに静かだった。
遠くで誰かが咳き込む声だけが、大きく響く。
「……イルル?」。
昼過ぎまで、彼女は他の患者の看病をしていたはずだった。
だが今は肩で息をしている。
「……なんか、変……ちょっと、気持ち悪い」
額には汗。顔色は悪い。
「イルル!」
駆け寄り、抱き起こす。
体がやけに熱い。嫌な予感が走る。
「水は飲んでないよな?」
「……うん……井戸、怖いから……」
声が弱い。
だが、はっきりと答えている。
(じゃあ、なぜだ)
次の瞬間、イルルが身をよじった。
「……っ、吐く……」
俺はとっさに器を差し出す。
激しく吐き出された中身は、どろりと黒ずみ、鼻を刺す臭いを放った。
(……毒)
直感だった。
だが、確信に近い。
(あの水だ……死体が流れ込んだ川……腐敗した何かが混じってる)
飲んだ者が倒れる。
それは見てきた。
だが――
(イルルは飲んでいない)
なのに同じ症状。
いや、もっと速い。
(看病だ……触れたか、吸い込んだか……)
思考が一気に繋がっていく。
「イルル、聞こえるか。今すぐ飲め」
俺は水を汲み、塩と砂糖を放り込む。
乱暴に混ぜ、そのまま差し出す。
「……無理だ、よ……気持ち、悪い……」
「いいから少しでいい、口に含め」
「わかった」
強引に口元へ運ぶ。
だが、すぐにむせて吐き出した。
「……くそ」
時間がない。
症状の進みが早すぎる。
(これは……中毒に近い)
最初の一撃が強い。
体に入った“何か”が、一気に暴れている。
(なら、まず内部から毒を削るしかない)
俺は炉へ走る。
燃え残りの炭を掴み、石で叩き割る。
粉にする。粗いままでいい。
(全部は無理でも、抱え込ませる)
水に混ぜる。黒く濁る。
「イルル、これを飲め」
「……なに、それ……」
「毒を鎮める!」
説明は短く。時間がない。
そのままイルルへ流し込む。
ざらついた液体がイルルの喉を通る。
一瞬、えずく表情を見せる。だが――飲み込んだ。
「……そうだ、偉いぞ。そのまま」
もう一度。
さらにもう一度。
少量ずつ、確実に。
数分後。
吐き気が、わずかに落ち着いた。
「……少し、楽……かも……」
イルルがかすかに呟く。
(効いてる……いや、『削れてる』だけだ)
ニールはすぐに次を考える。
その瞬間、イルルの呼吸が変わった。
「……っ、は……ぁ……」
浅い。速い。
胸が追いついていない。
手首を掴む。脈が弱い。
(血が回ってない)
ここで、はっきりと理解した。
(違う……毒だけじゃない)
体が、干上がっている。
水も、血も、足りない。
「ニ、ニール…」
「ああ、どうした?」
「あ、りがと…ね…。だ…、…き、だよ…」
既に意識が朦朧とし始めている。
不味い。ここままではイルルが死ぬ。
俺は、再び水に塩と砂糖を混ぜる。さっきよりも意識して濃さを整える。
要は簡易「経口補水液」だ。
「イルル、聞け」
顔を近づける。
「今からお前に無理やりにでも飲ませる」
「…………」
既に意識はないのか、イルルは答えない。
「俺は! お前を死なせない!」
迷いはない。
(多すぎるか?……だが今はいい、吸わせる)
器を持ち、俺は簡易「経口補水液」を自分の口に含む。
そのまま、イルルの口に流し込む。
喉に手を当てる。
――動いた。
「いいぞ……飲め」
繰り返す。
間を置きながら、何度も。
(急ぐな、吐かせるな)
体勢を変える。
横向きにし、肩の下に布を入れる。
顎を軽く上げる。
(詰まらせるな。通せ)
呼吸が、わずかに楽になる。
突然、イルルの体が跳ねた。
「……っ!」
痙攣。
指が強張る。
(来た……回ってる)
ニールはすぐに判断する。
再び炭を少量。
だが今度は――控えめに。
(これはメインじゃない)
流し込む。
その後も続ける。
補水。
様子を見る。
また補水。
間に、少量の炭。
一度、イルルが吐いた。
「……いいぞ出せ。出すなら出すで、それでいい。また飲ませてやる。」
外に出るなら、それでいい
時間が進む。
「……っ、は……」
呼吸が変わった。
さっきまでの浅さが、わずかに深くなる。
胸がしっかりと上下する。
額に触れる。
――汗。
「……来た」
体が反応している。
水が巡り始めている。
脈を測る。
弱いが、さっきより確かだ。
(戻ってきてる……血が動いてるんだ)
さらに少量の補水。
今度は、イルル自身がわずかに飲み込む。
「……ニー…ル……?」
かすれた声。
目が、わずかに開く。
「……ああ、いる。俺はここにいる。お前のそばにいるぞ」
それを聞いたイルルは、さっきよりも落ち着いた状態でまた眠りについた。
その瞬間、俺の中で確信に変わった。
(最初は毒だ……だが、それだけじゃない)
(体を潰して、血を止める)
(だから死ぬ)
ならば――
(順番だ)
毒を削る。
水を戻す。
血を回す。
「……いける」
小さく呟く。
これは偶然じゃない。
やり方がある。
俺は立ち上がる。
外では、まだ咳と呻きが続いている。
「――助けてやるぞ」。




