38話 【ゼニス歴1072年 グレアム視点】
三日後、儂は書状を書いた。
私的な書状だ。バルドール帝国との国境を守る部隊の副将——ラドゥルに宛てた。
内容は短い。
「一度、顔を見たい。日時は追って伝える」
それだけだ。
ラドゥルとは、二十年来の付き合いだ。
バルドール帝国の人間だが、国境の向こうで同じように辺境を守り続けてきた武人だ。
会うことに意味がある。
言葉を交わすことに意味がある。
そういう確信があった。
机に書状を置き、窓の外を見た。
別荘の庭が夕陽を受けている。
イレーナ。
お前がいなくなって十年になる。
儂は——お前の言った通りにできていたか。
バルドール帝国を見張ることはやってきた。
だが民を見ることは——後回しにし続けてきた。
それは言い訳ではない。
事実だ。
あの薬師とその仲間が来るまで、俺は自分の失態から目を逸らしていた。
余裕がなかった。
そういう言葉で、蓋をしていた。
だが——蓋をしていても、現実は変わらない。
エルバート王国は内側から腐り始めている。アステリズム神聖国はその腐敗を利用して根を張っている。そして俺の領地の民は、その狭間で削られていく。
あの少女——テオが机に置いた書類を、俺は三日間、繰り返し読んだ。
数字は嘘をつかない。
エルバート王国の兵站費の削減は、今年で終わらない。
来年も、再来年も続く。
計画的に、組織的に——東の守りを弱体化させていく。
何のために。
答えは一つだ。
バルドール帝国との本格的な摩擦が起きた時、この辺境領を「使い捨て」にするためだ。
消耗させて、バルドール帝国との衝突の緩衝地帯にする。それが王の腹の中にある絵だ。
四代守り続けてきたこの土地を——王都の人間は、盾として見ている。
儂は筆を取った。
もう一通、書状を書く。
こちらは——王都の宰相、セドリック宛てだ。
「辺境領の防衛力維持について、ご協議申し上げたく、参上いたします」
丁寧な文面だ。
従順な辺境伯の顔だ。
セドリックはこれを見て、俺が来ることを喜ぶだろうか。
「リオネッサが大人しく王都に出てきた」と。
だが——俺が王都に行く理由は、協議ではない。
エルバート王国を見極める為だ。
今のエルバート王国が想像通りの腐り具合なのか、それとも許容できる範囲なのか。
それとも…。
儂の感覚が間違っていなければ、取るべき選択肢は一つに絞られる。
夕陽が庭の芝を赤く染めた。
庭師の老人が今日も掃いている。
腰が悪いはずだが、手は止まらない。
薬師の薬はそんなに良いのだろうか?
しまったな。
こちらにも処方してもらうべきだった。
「グレアム様、書状の準備が——」
従者が扉から顔を出した。
「ああ。もう少し待て」
「はい」
扉が閉まった。
窓を見たまま、しばらくそこにいた。
イレーナ。
儂がそちらに行くには——もう少しかかるな。
お前の言った「民を見る」という言葉の意味が、ようやく全部わかった気がする。
見るだけでは足りない。
守るためには、時に——いままで守ってきたものを、一度手放す覚悟が要る。
エルバート王国という名の鎖を、だ。
俺は二通の書状を重ねて封をした。
明日の朝、それぞれの使者に持たせる。
リオネッサの町に静かに夜の帳が落ちる。
ラドゥルから返事が届いたのは、5日後だった。
使者は国境の向こうから来た。バルドール帝国の紋章を外した平服の男で、文面は短かった。
「いつでも。待っている」
それだけだ。
ラドゥル・カーデン・フォルヴ。
バルドール帝国東部辺境軍の副将。
五十二歳。儂より三つ下だ。
最初に顔を合わせたのは、二十三年前の国境紛争だった。
あの頃の我々は殺し合う立場にいた。バルドール帝国軍の部隊が境界を越え、こちらの農村を焼いた。
こちらは軍を率いて押し返した。
国境線上で三日間、双方に相応の死者が出た。
停戦の交渉が始まった時、向こうの窓口として現れたのがラドゥルだった。
三十手前の副官。
目が笑っていない男だった。
だが——嘘をつかなかった。
「今回の越境は、本部の命令ではない」とラドゥルは言った。
「前線の指揮官が暴走した。処分は我が方でおこなう」
事実だった。
後からわかった。
そういう男だ。
面会は、国境近くの廃れた宿を使った。
お互いの部下を五人ずつ連れ、宿の広間で向かい合った。
ラドゥルは二十三年前より老けていたが——目は変わっていなかった。
笑わない目だ。
だが、嘘をつかない目でもある。
「来てくれたか、グレアム」
「久しぶりだな、ラドゥル」
「六年ぶりか」
「七年だ」
「そうか」とラドゥルは言った。
「俺は年を数えるのが下手でいかんな」
席に着いた。
互いの部下が酒と食事を用意する。
外交でも密談でもない。
古い知人の会合だ。
表向きは。
「わざわざ呼んだということは——」とラドゥルが先に切り出した。
「そちらで何かあったのだな」
「察しがいいな」
「お前が俺を呼ぶという事は何かが動く前なのだろう。二十年の経験がある」
俺は少し間を置いた。
「エルバート王国が、東部の兵站を削っている」
ラドゥルは杯を置いた。
「急だな」
「ああ。来年も続く見込みだ」
「…知っていた」
「そうか」
「うちの情報部も掴んでいた。グレアムの領地への補給が段階的に縮小される、と。バルドール帝国本部はその情報を喜んでいた」
俺は頷いた。
「喜ぶだろうな。辺境が弱れば、バルドール帝国には好都合だ」
「そうだ」とラドゥルは言った。
「本部はそのまま待てと言っている。リオネッサが疲弊すれば、越境が楽になると」
「お前はどう思う?」
ラドゥルは少し沈黙した。
「俺は——越境した後の話の方が心配だ」
「というと」
「消耗した辺境を取った後、バルドール帝国は何を得る?
そこに残るのは疲弊した民と荒れた農地だけだ。
二十年かけて作り上げた国境の安定が崩れた後の統治コストがいくらかかるか——本部はそこまで考えていない」
「兵站を削れば双方が損をする、か」
「そういうことだ」
ラドゥルは俺を見た。
「お前が呼んだ理由は、それだけか」
「いや」
俺は書類を出した。テオが持ち込んだ写しの一部だ。
アステリズム神聖国との資金のやり取り、布教ルート、情報収集の痕跡。
ラドゥルはそれを受け取り、ゆっくりと読んだ。
部屋が静かになった。外で風が鳴った。
「……アステリズム神聖国がエルバート王国の内情を抜いているのか」
「ああ。それだけじゃない——バルドール帝国の辺境についても、布教を通じて情報を集めている形跡がある」
ラドゥルの目が、書類の上で止まった。
「これは——どこから」
「王城の内側にいた人間が持ち出した」
「まだ生きているか?」
「ああ。今はリオネッサにいる」
ラドゥルはしばらく書類を見ていた。
それから、静かに返した。
「グレアム」
「ああ」
「お前は——エルバート王国を見限ったか」
俺は少し考えた。
「見限る、という言葉が正確かどうかはわからない」
「じゃあどういう言葉が正確だ」
「エルバート王国が、この土地の民を守る気がないとわかった。
ならば——俺が守るしかない。
その手段を選ぶ、ということだ」
ラドゥルは杯を持ち直した。
「手段の中に——バルドール帝国との和平が入っているか」
「入っている」
ラドゥルは杯の中の酒を、しばらく眺めていた。
「俺が本部を説得できるかどうかはわからない」
「わかっている」
「だが——動く理由はある。お前の言う通り、疲弊した辺境を取ってもバルドール帝国に益はない。長期的な安定には、均衡が必要だ」
「俺もそう思う」
「グレアム」とラドゥルは言った。
「お前は俺に何を求めている」
「時間だ」
「時間」
「俺がエルバート王国と正面から向き合う間、バルドール帝国に動くなと伝えてくれ。
半年——いや、三ヶ月でいい。
その間に、こちらで片をつける」
ラドゥルはしばらく俺を見ていた。
「……片をつけた後、お前はどうする」
「この土地を守る。それだけだ。旗がどこになびこうとも、民が生きていける場所にする」
ラドゥルは低く笑った。
「変わらないな、お前は」
「変わる必要がなかった」
「そうか」
ラドゥルは杯を上げた。
「三ヶ月、いや半年間を約束しよう。——本部には、国境の再調査が必要だと報告しておく。
その名目で時間を作る」
「助かる」
「礼はいらない。俺にも——益のある話だ。あと…」
「なんだ?」
「一度、皇帝に会ってくれ。ここまで引っ張り出してやる。」
「そうか。こちらも面白そうな人物を数名抱えている」
杯が触れ合った。
外では風が止んでいた。
夕暮れ時の国境の宿、二人の武人は杯を干した。
どちらも多くを語らなかった。
だが——必要なことは、全て言った。
それで十分だった




