37話 【ゼニス歴1072年 ニール視点】
本日から3章スタートです! 仲間が揃いました!
稲見香織はこの世界では「テオ」を名乗っていくとの事。
リオネッサに戻ったのは、夜が明け切る前だった。
馬車の中でテオは一言も話さなかった。
眠っているわけではない。
目は開いている。ただ——窓の外を流れる暗い森を、ずっと見ていた。
俺も何も言わなかった。
言うべきことは特にない。あいつが何を考えているかは、だいたいわかる。
十年以上、敵の懐に単独で潜り込んでいた人間が、外に出た最初の夜にするのは感傷ではない。
おそらく——整理しているのだろう。
持ち出せた情報の棚卸し。次の手順の確認。自分の立ち位置の再設定。
そういう顔だった。
治療院の前で馬車が止まった時、テオが初めて口を開いた。
「辺境伯に会いたい」
「ああ」
「早い方がいい」
「わかってる」
翌日の朝、面会の段取りをユーリに頼んだ。
「辺境伯様ですね。——わかりました」
ユーリはいつもの半分眠ったような顔で言った。
「以前より伝手もできていますし、急ぎとお伝えすれば動いてくださるかと」
「その判断でいい」
「テオ殿について、どのようにご説明しましょうか」
俺は少し考えた。
「王城の財務局にいた人間だ。情報を持っている、とだけ言え」
「……かしこまりました」
あれから1か月が過ぎようとしているが、
王城でのクーデターはニュースとして入ってこない。
情報統制が行われているのだろう。
そして本日はテオとリオネッサ辺境伯グレアムとの面談が行われる。
俺とイルル、ユーリ、クロノもそれに同行する。
面会は辺境伯の別荘応接室で行われた。
「薬師、久しいな」
「はい、ご無沙汰いたしております」
「して、此度はどの様な用向きだ」
「こちらの辺境伯様に紹介したき人物がおります」
「そう堅苦しく呼ぶな。グレアムで構わん。して、お前が王都で噂の『即算姫』か」
「ぶっ!!」
テオは飲んでいたお茶を吹き出した。
「即算姫?」
俺はテオの顔を見る。
「い、いえ、確かにこっちの世界でもそう言われていたことを思いだしたわ…。完全なる黒歴史ね…」
「こっちの世界でも?? よくわからんが」
「い、いいのよ。ほっといて!」
俺はグレアム様に王都で王と面談した内容を話す。
王が商人の徴税に関する不正に関わっているという事、そしてテオを連れてきた経緯について話す。勿論、転生者であるという部分は伏せている。
ただ、恐らくグレアム様はわかっているのだろう。追及してこなかったが。
グレアム様の目が、わずかに動いた。
「王城の、財務局にいたのだな?」
「はい。ゼニス歴1066年より十年以上、王の文官として」
「何故、城を出た」
「ワタシの知識はワタシのものです。誰のものでもありません。それを証明する為です。」
テオは俺を見た。
「書類を」
俺は鞄から書類の束を出してテオに渡した。
テオはグレアム様の前にそれを置いた。
「王城の財務書類の写しです。過去三年分の収支と、兵力配置の記録。それから——アステリズム神聖国への資金の流れ」
グレアム様は書類を手に取った。
しばらく、音がなかった。
窓から庭が見える。前回と同じ風景だ。手入れの行き届いた芝と、今は人気のない石畳の小径。
グレアム様のページを繰る手が、ある箇所で止まった。
「……この数字は」
「エルバート王国がアステリズム神聖国へ毎年支払っている治癒師派遣の対価です。表向きは宗教的な協定ですが——実態は、アステリズム神聖国のヴォイド教布教を王が黙認する代わりに、治癒師の優先派遣を受ける取引です」
「それだけか」
「いいえ」
テオは静かに続けた。
「ヴォイド教の神殿が各地に増えるに従い、アステリズム神聖国は布教地域の民衆の情報収集をおこなっています。どの貴族が財政的に苦しいか。どの地域で民の不満が高まっているか。そのデータが定期的にアステリズム神聖国本部へ送られている——これは書類の隅の暗号化された数値から読み取ったものです。確証とは言えませんが、状況証拠としては十分かと」
グレアム様は書類から目を上げた。
「アステリズム神聖国がエルバート王国の内情を掴んでいる、と言いたいのか」
「掌握している、と言った方が正確かもしれません」
部屋が静かになった。
グレアム様はしばらく書類を見ていた。指が、ある数字の列の上で止まる。
「この——東部への兵站費用の削減は」
「今年度から始まっています。王の直属部隊の増強と引き換えに、辺境領への補給を段階的に縮小する方針です。書類の上では『効率化』と記されていますが——」
「補給を絞れば、バルドール帝国の抑止力が落ちる」
「はい」
グレアム様は書類を机に置いた。
「お前は——これをどこで手に入れた」
「十年かけて、自分の手で写しました」
グレアム様は俺を見た。
「薬師。この女は信用できるか」
「はい」
「根拠は」
「この情報で、あいつ自身の命を賭けた。それは俺も同じです。」
グレアム様は短く息を吐いた。
それから——窓の方を見た。
庭師の老人が今日も小径の石をゆっくりと掃いている。彼は腰が悪かったはずだが、今は姿勢よく掃除をしている。
「薬師」
「はい」
「前回の面会で俺にこう言ったな——儂はバルドール帝国だけを見ればいい、と。」
「言いました」
「だが——この書類が本物なら、儂が見なければならないのはバルドール帝国だけじゃないようだ」
グレアム様は机の上の書類を静かに押しやった。
「エルバート王国が、我が領地の兵站を削っている。アステリズム神聖国が、我が民の情報を抜いている。——そして王は、どちらも黙認している」
低い声だった。怒りではない。もっと深いところにある、静かな確信の声だ。
「辺境伯様」
テオが口を開いた。
「ひとつお聞きしてよいですか」
「構わん」
「辺境伯様がこの四代、バルドール帝国の脅威と向き合ってこられたのは——何のためですか」
グレアム様は少し間を置いた。
「この領地の民のためだ」
「その民が、今、エルバート王国自身によって削られています」
返事はなかった。
テオは続けた。
「ニールから伺いました。辺境伯様の奥様が——民を見ることも同じくらい大事だ、とおっしゃっていたと」
グレアム様の視線が、テオに向いた。
鋭い目だった。だが——責める色ではなかった。
「……なんだ、よく人の秘密を話す奴なのだな、薬師は」
「必要な情報でしたので」
グレアム様はかすかに笑った。
「お前は——王城でどんな役目をしていた」
「財務の帳簿管理です。数字を読んで、整理して、上に上げる仕事です」
「十年間」
「はい」
「子供の時分から、か」
「三歳で王城に参りました」
グレアムはしばらく、テオを見ていた。
「……苦労したな」
テオは少し間を置いた。
「辺境伯様の方が、ずっと長い戦をされています」
「そうでもない。儂の戦は——わかりやすかった。バルドール帝国は東に見えている。だが——」
グレアム様は書類に視線を落とした。
「内側から削られる戦は、やり方が違う」
「はい」
「儂には——そのやり方を知っている人間が必要だ」
テオは何も言わなかった。
グレアム様は立ち上がった。
「三日待て。今度は——少し大きな返答になる」
それだけ言って、辺境伯は書類を手に持ったまま部屋を出ていった。
帰り道の馬車の中、テオがぽつりと言った。
「……グレアム様は、もう決めていたわね」
「ああ」
「今日の面会の前から」
「たぶんな」
テオは少し黙り、窓の外を見た。
「……そういう人の扱いはあなたのほうが得意なのだわ」
「お前の方が上手い」
「そうですか」
「ああ。俺は必要なことしか言わない。お前は——必要なことを、相手の言葉で言える」
テオはしばらく外を見ていた。
夕暮れのリオネッサの道、石畳の上を帰宅する人たちがゆっくり歩いている。
「……帰ってきた感じがするわ」
「もう慣れたのか?」
「いえ、全然。」
テオは少し笑った。
「でも——ここは悪くないわね」
馬車は治療院へと急ぐ。




