36話 【ゼニス歴1072年 香織(テオ)視点】
新月の夜は、思ったより静かだった。
王城の夜は深く、厨房区画の廊下には誰もいない。ワタシの足音だけが、石畳の上に低く響いた。
ランプを一つ持ってきた。
火種もある。
財務局の仕事で厨房の物資管理にも関わるようになってから、ワタシはここの構造を完全に把握していた。
どの棚に何があるか。
どこに油の貯蔵があるか。
換気口がどの方向に向いているか。
全てワタシのアタマの中にある。
火は、広がりやすい場所に放つ。
そしてワタシは走る。
それだけだ。
ランプの炎を近づけた瞬間、油に火がついた。
思ったより早かった。
炎は棚を伝い、壁を舐め、天井に向かった。
ワタシは振り返らずに走った。
廊下を曲がり、階段を上り、西翼へ。
背後で、最初の爆ぜる音がした。
「火事だ!!」
誰かの声が遠くから聞こえた。
足が、思ったより速く動いた。
三歳のときにこの城に連れてこられて、十年以上この石の壁の中で生きてきた。ここはワタシの場所ではない。最初からそう決めていた。
刀祢がいない場所は、ワタシの場所ではない。
だから、惜しくはなかった。
西翼の非常用通路の扉に手をかけた。
閂を外す。重い扉が、軋みながら開いた。
その先に、暗闇があった。
【セドリック視点】
「国家反逆の疑いあり。テオを探せ!どんな手を使ってもだ!」
私は近衛兵の指揮を執る。
ただ、現場から離れて久しく、どうも私が現場でいた時とは勝手が違う。
モノの配置や保管場所、ルールが全て変わっている。
くそっ、非常にやりにくい。
また、近衛兵の動きが想像以上に悪い。
「セドリック様、東翼の火の手が勢いを増しております。ご指示を下さいませ」
「セドリック様、近衛兵長がお探しです!至急、詰所へお越し下さい!」
「セ、セドリック様、中央棟への扉がこの時間は締まっております。いかがしたら…」
なんだ、こいつらは。
命令がないとなにも出来ないのか。
宰相セドリックの溜息は増える。
近衛兵がいつの間にか腑抜けになっている。
「神速のデイル」が率いてた時とは大違いの体たらくだ。
こんなのが近衛兵ではいざという時に使い物にならない。
テオに逃げられる。
それだけは避けなければならない。
逃げられるくらいなら消すまでだ。
いずれにせよ、この平和ボケしたこいつらの訓練を早急に組み直さねば王に危険が迫る。
まさか、テオの仕業ではないだろうな。
流石に子供相手にそこまでは考え過ぎか。
ただ、外部の協力者とコソコソと通じていた事はわかっている。
命惜しくてリオネッサに逃げるつもりだろう。
辺境伯に手を回して潰すか、いや、最近は辺境伯自身にキナ臭い感じがある。
ひょっとしてバルドール帝国と繋がっているのではないだろうな。
そうなったら最悪だ。
「やってくれたな、転生人め…」
その時、廊下の奥から一人の女性が現れた。
炎の明かりを受けた顔は、 いつもの穏やかさとは別の色をしていた。
「セドリック」
「王妃様。避難を——」
「テオはどこなの?」
俺は足を止めた。
「恐らくこの混乱に乗じて、逃亡を図ったものかと」
「…そうですか。」
「はい。このセドリック、一生の不覚です」
「そうね。あの子も中々やるわね」
マルグリット様が静かに続ける。
「この炎もあの子が?」
「恐らくは」
「ふふふ…。凄いのね、あの子は」
私は少し違和感を覚える。
マルグリット様にとって、あの子供、テオはどういう存在なのだ、と。
ただ、それは今考える事ではない。
「今はまずテオを捕らえます」
「ええ。そうね——あの子は危険よ。あの子は闇だもの。
私の勘だけど、あの子には底知れぬ闇があるわ。
そして、あの子の闇は人を惹きつけ、捕らえたものを離さなくするの。
あの子の闇を利用されると非常に厄介なことになる気がするわ。特にお父様とか、ね」
私は頷いた。
「王妃様は今すぐ避難を。 あとは私が引き受けます」
「お願いします。——でも、セドリック」
マルグリットは振り返った。
「あの子を、傷つけないで」
「…御意に」
私は短く答える。
その間にも王城は更に激しく燃え、暗闇を煌々と照らしていた。
【香織視点】
城の外。
夜風が頬に当たった。
煙の匂いが混じっていた。振り返ると、東の空が赤く染まり始めていた。炎が上階に届いたのだろう。王城の塔の一つが、火を纏って夜空に浮かび上がっていた。
「あんたが転生者か?」
低い声が、闇の中から聞こえた。
ワタシは動かなかった。
現地語だった。だが、ワタシが聞き取れる現地語だ。
「……リオネッサから来た人ですか」
「ああ」
暗闇から、青年と女性が出てきた。
男性の年齢もワタシより上。おそらく一世代前の転生者なのだろう。
女性もワタシより年上でとてもやわらかい表情をしている。
そしてこの青年に全幅の信頼を置いている、そんな感じに見受けられる。
おそらくこの青年の事が好きなのだろう。
青年は静かな目をしていた。
薬草か何かの匂いがした。
「ニールだ。迎えに来た」
ニール。
その名前を、ワタシは初めて聞いた。
暗号のやり取りで何度もやり取りをしてきた相手が、今、目の前に立っている。
「稲見香織です。こちらの世界ではテオと呼ばれています」
日本語で言った。
青年は一瞬、目を細めた。
そして、小さく頷き、日本語で言った。
「坂口壮真だ。……行こう。仲間が待っている」
背後では王城が燃えていた。
ワタシは一度だけ振り返り、それから前を向いた。
「はい」
三人の姿は、燃える王都の夜の中へ消えていった。
第2章 完




