35話 【ゼニス歴1072年 香織(テオ)視点】
財務局の執務室は、今日も書類の山だった。
セドリックから仕事を引き継いで以来、ワタシの机の上には常に三つの山がある。処理済み、処理中、未着手。これがワタシの管理ルールだ。
今日の未着手の山には、各地からの定期物資報告が混じっていた。
辺境領、北部貴族領、南の港湾都市。それぞれの物資の過不足と、王都への納入品目が細かく記されている。
ワタシは羽ペンを走らせながら、ひとつひとつ処理していく。
北部貴族領。
まただ。納入品目が全然足りていない。
貴族はいつもそうだ。恐らく自分の懐を肥やしているのだろう。
今までは良かったのかもしれない。だが、今は私腹を肥やしている事情を全て王に握られているというのに。知らないというのは幸せな事だと思う。
ふふふ。いつ天罰が下るのだろうか、楽しみだわ。
次、港湾都市。
納入品は間違っていないが、なぜか品目がおかしい。最も流通しているアイテムが外されている。もっとしっかりと徴税すべきなのに。それともなにか裏があるのか。あるのだろう。
この辺りはもっと調べる必要がありそうだな。
次はリオネッサ辺境領からの納品品目。
なるほど、巷で噂の新型薬品の納入リスト。
どれどれ。
ん、問題ない。
次。
……待って。
手が止まった。
リストの末尾。品目の最後に、一行だけ、他と違う表記があった。
現地語の文字が並ぶ中に、ひとつだけ混じった、言葉。
【納入品目】
・セイロガン 100本 丸薬 : 下痢止め薬
……。
………。
……正露丸?
ワタシは書類から目を離し、窓の外を見た。
王都の空は晴れていた。
午後の日差しが、執務室の石造りの床に細長い影を落としている。
静かだった。
周りには誰もいない。
だからワタシは、口元を手で押さえた。
目の奥が、急に熱くなった。
やめて。
ここで泣いたらダメ。
業務時間中に泣くのは、ワタシのルールに反する。
深呼吸を一回。もう一回。
ロジックで考えろ。
感情は夜にとっておけ。
現地語の薬品名が並ぶリストの中に、急に現れた「セイロガン」。
これを書いた人間は、私の仕込んだメッセージに気付いたんだろう。
そして私に対してメッセージを返してきた。
日本人である私だけが気付けるメッセージを。
この人物は日本を知っている。
こんなに嬉しい事はない。
今すぐに会いたい。
だけどダメだ。今はまだダメだ。
もっと冷静になれ、ワタシ。準備を整えるんだ・
でも、なんで正露丸?
別に他の薬でも良かったんじゃないの?
まあ、日本で一番有名な薬といっても過言ではないし、お陰ですぐ気付けたけどね。
この人物はリオネッサ辺境領にいて、薬の製造に携わっているのかな。
この一行から読み解けるのは、セイロガンという薬がリオネッサ辺境領にあるという事。セイロガンは下痢止め薬だということ。
そして間違いなく私に対する『転生人の存在』を知らしめるためのメッセージだという事。
偶然ではないだろう。
……生きている。
ワタシ以外の転生者が、この世界で生きていて、しかもワタシのメッセージに気づいて、返事を寄越してきた。
もう一度、深呼吸。
まだ目が熱い。
「テオ殿、次の報告書の確認を------」
扉の向こうから声がかかった。
「はい、今すぐ」
ワタシは羽ペンを持ち直した。声は平静だった。完璧に平静だった。
ただし、書類の上に落とした最初の一文字だけ、少しだけ筆圧がいつもより強かった。
夜、部屋に一人になってから、ワタシはじっくりと考えた。
返信しなければならない。
ただし慎重に。
あちらはワタシの存在に気づいているが、ワタシのことをまだ何も知らない。
性別も、立場も、王城のどこにいるかも。
逆もまたしかりだ。
リスクしかない。だが賭けるしかない。
どうするワタシ。
考えろワタシ。
もしあちらが敵側に取り込まれていたら、ワタシの立場が一瞬で終わる。
だがそれを言えば、あちらも同じリスクを取ってこの『正露丸』を仕込んできた。
……信用していいだろう。
ロジックとしては、そういう結論だ。
問題は、何をどうやって返すか。
「正露丸。おばあちゃんによく飲まされたっけ」
ワタシは気が付けば日本語で呟いていた。
久しぶりの日本語だ。
「まだ日本語話せるじゃん」
自分が日本語をまだ話せる事が嬉しかった。
日本人だから、アイデンティティなんてものは希薄だ。
だけど日本語をしゃべることがこんなに嬉しい事だとは思ったことがなかった。
そして3歳の覚醒時から10歳の今までの苦労や不安が一気に脳裏にフラッシュバックしてきた。
「…なによ、おっ…そいじゃ…ない・・の、うう、うっ…うわぁぁあああああぁ」
そこから涙が止まらなくなった。
息を殺しつつ、しばらく枕を濡らし、そこから気持ちを切り替え明日以降の行動を模索する。
ワタシは刀祢の元に帰るんだ。
翌日の財務書類の下書きを広げ、しばらく考えてから、各地への物資割り当て指示の備考欄の片隅に、小さく書き込んだ。
現地語のサインの最後に書いた小さな記号。
〇の中に楽器を書いた。
日本で一番有名な正露丸の「金管楽器のマーク」だ。
「あんたのメッセージ、受け取ったわよ」
日本人ならこれを見て反応できるだろう。
届けばいい。
届かなければ、また別の手を考える。
ワタシは書類を処理済みの山に重ね、羽ペンを置いた。
そして次の手を考える。
今夜は、泣かなかった。
「楽器のマーク」への返信が来たのは、三週間後のことだった。
辺境領からの定期報告書。品目の表の正露丸の本数がメッセージになっている。
いわゆるガラケーメッセージ入力だ。
始め見た時は「なんだ、このでたらめな数字は」と思ったけどね。
【納入品目】
・セイロガン 100本 丸薬 : 下痢止め薬 製造番号5121711293
・セイロガン 100本 丸薬 : 下痢止め薬 製造番号5152324493
ワタシは書類を顔に近づけて、もう一度見た。
間違いなかった。
こりゃこっちの人間じゃわかんないわ。おもいっきり日本語だ。
母音のナ行を5、子音の1つ目という事で「ナ」
ガラケーのメッセージの打ち方じゃん。
すなわち、製造番号5121711293は「ナカマイル」 仲間いる。
製造番号5152324493「ナニシテル」 何してる?
…おいおいおい! 熱い展開じゃないの! ラノベっぽいわー。
嫌いじゃない! むしろ、大好きだ!!
それからのやり取りは、月に一度か二度の書類の往来に合わせて続いた。
阿吽の呼吸で、ガラケーからポケベルっぽく、日本人なら文脈で意味を読み取れるキメ数字を作り、製造番号の数字表記に紛れ込ませる。
020と書けば「王城」。
0120と書けば「無料、つまりリスクなし」
110と書けば「緊急、急ぎの連絡」
あちらからの返信も、同じような形で来た。
最初のうちは互いの存在確認と、状況の把握だった。
あなたは今、どこにいますか。
ワタシは答えた。王城の財務局。王の側近の文官として動いている。脱出は単独では難しい。
こちらはリオネッサ辺境領にいます。仲間がいる。
仲間。
その単語が、書類の数字の羅列の中に紛れていたとき、ワタシはしばらくその箇所を指で押さえていた。
仲間がいる。
ワタシ以外に、この世界で戦っている人間がいる。
やり取りが数回を重ねた頃、あちらから情報の要請が来た。
王城内部の情報を送ってほしい。兵力の配置、警備の交代時間、財務上の弱点。使える情報は何でも。
ワタシは3か月かけて整理した。
財務書類をすべて頭に入れているワタシには、エルバート王国の金の流れが見えている。
どの貴族家が王城への資金供給を担っているか。
どこで不正が起きているか。
王の直属部隊にかかっているコストと、その資金源。
兵力配置については、城内の人事記録と警備シフト表を照合した。
毎月第三週の木曜深夜から金曜早朝にかけて、近衛の交代タイミングが重なる時間帯がある。二十分ほど、王城の西翼の警備が手薄になる。
ワタシはそれをすべて、数字と記号に変換して書類に仕込んだ。
返信が来た。
受け取った。
そこにはこう書いてあった。
【納入品目】
・セイロガン 100本 丸薬 : 下痢止め薬 製造番号102086
・セイロガン 100本 丸薬 : 下痢止め薬 製造番号5255133
『準備終わる』
『にがす』
来た。
遂に来た。
脱出のタイミングについて、次の便で詳細を送る。
その文字を目で追いながら、ワタシは静かに息を吸った。
もうすぐだ。
脱出のロジックは、シンプルだった。
あちらが王都に入る。
ワタシが城内から火を放ち、混乱を作る。
その混乱に紛れて、あちらが城内に入り、ワタシと合流して脱出する。
合流地点は、城の西翼の非常用通路の出口。警備が手薄になる時間帯に合わせる。
日時は「次の新月の夜」。こちらから変更の連絡がなければ決行。
そう返信が来たのは、一週間前のことだった。
ワタシは書類を処理しながら、頭の中で何度もシミュレーションを回した。
火はどこに放つか。城内の混乱はどの程度まで広がるか。警備がどこに向くか。
答えは一つに絞れた。
王城の東翼の厨房区画。油と薪が集中しているあそこに火をつければ、炎は上階に向かって広がる。警備の主力は東翼に引き付けられる。西翼が手薄になる。
準備は、もう終わっている。
あとは、新月の夜を待つだけだ。




