33話 【ゼニス歴1072年 ニール視点】
王都の朝は早い。
宿の窓から外を見ると、すでに商人たちが荷車を引いている。
石畳を叩く音、馬の息、遠くで誰かが怒鳴る声——リオネッサとは違う種類の喧騒だ。
「緊張していますか?」
隣でクロノが書類を確認しながら話しかけてきた。
「少しな」
「私もです」
クロノは帳簿を閉じた。
「でも——ここまで来た。やるだけです」
「ああ」
ユーリが部屋に入ってきた。
「おはようございます。王城への入城は三刻後です。準備はよいですか」
「できている」
「私からひとつ報告があります」
ユーリは珍しく真剣な目をしていた。
「今日の面談の相手——流通局長、財務局長の上に、もう一人います」
「ああ、そうだったな。そいつはなにものだ?」
「国王ファランです」
部屋が静かになった。
「…ファラン自らが来るのか?」
「はい。薬の供給流通という案件が、なぜか王直々の案件として扱われることになりました」
「……なぜ」
「わかりません。でもひとつだけ言えるとするならば——」
ユーリは少し間を置いた。
「リオネッサでの動きが、王の耳まで届いているということだと思います。書類の写しの配布、辺境伯との接触——恐らく全部、把握されているものと思われます」
「品定めに来る、ということか」
「あるいは——直接潰しに来るか」
「どちらにしても、やることは変わらない」
「……そうですね」
俺はクロノを見た。
「クロノ。今日は商談として進める。お前が前に立て。俺は補佐だ」
「わかりました」
「帳簿を出すタイミングは俺が合図する。それまでは商談だ」
「はい!」
「ユーリ」
「はい」
「ファランの動きを見ていてくれ。俺がクロノの後ろにいる間、王の目線、反応——全部覚えておいてくれ」
「わかりました」
俺は窓の外を見た。
王都の空は高く、青かった。
心の中で言った。
(デイル、いよいよだ)
王城への入城は、ユーリが手配した商人としての正式な申請で行われた。
門番に書類を見せ、荷物を検められ、案内の文官に従って廊下を歩く。
イルルとガブは控えの間で待つことになっていた。
「気をつけてね」
控えの間の入口で、イルルが小さく言った。
「ああ」
「待ってるね」
「ああ、一緒に帰ろう」
イルルは少し頷いた。それだけだった。
ガブが俺の肩を一度だけ叩いた。
言葉はない。でも——わかった。
通された部屋は、思ったより小さかった。
王城の謁見の間ではない。執務に使うような、石造りの落ち着いた部屋だ。
長テーブルが一つ。椅子が両側に並んでいる。
こちら側——俺、クロノ、ユーリ。
向こう側——流通局長、財務局長と思われる初老の男が二人、その奥に書記が一人。
そして——上座に、ファランが座っていた。
老いた王だった。
デイルの処刑を命じた男が、目の前にいる。
あの日から5年。王は老いたのだろうが——目は異様に鋭い。
まだ転生者の「使い捨て」を続ける気でいる目だ。
「クロノ商会の方々か」
ファランが言った。
穏やかな声だった。
「はい。本日はお時間をいただき、誠にありがとうございます」
クロノが頭を下げた。
俺も頭を下げた。
その瞬間——ファランの視線が、一瞬だけ俺に止まった。
(……気づいたか)
わからない。でも——何かを見た目だった。
「楽にしてくれ。今日は商談だ」
ファランは流通局長に目配せした。
「では、内容を聞こう」
クロノが話し始めた。
エルバート王国への薬の正式な供給提案——品目、価格、流通経路、品質管理、薬に関する徴税の仕組み。
クロノは商人として完璧だった。数字は正確、説明は簡潔、相手の疑問を先回りして答える。
流通局長が何度か質問した。
クロノがそれぞれに的確に答えた。
ファランは黙って聞いていた。
その間、俺はファランを観察した。
年齢は60代半ばか。
目が——よく動く。
クロノを見ながら、実際には俺を見ている瞬間がある。
(この男は、俺が気になっている)
なぜかはわからない。
転生者の息子だと知っているのか。
それとも単に、若い男が商談に同行している理由を疑っているのか。
どちらにしても——表情を変えてはいけない。
補佐の顔のまま、静かに立っていた。
商談が一段落した時、ファランが口を開いた。
「良い提案だ」
「ありがとうございます」
「ただ——一つ確認したい」
「はい」
「リオネッサで書類を配布していたのは、この商会か」
場の空気が一気に変わった。
クロノは微笑んだまま答えた。
「エルバート王国の公式記録の写しを民衆に開示しておりました。
エルバート王国の法律に基づいた『正当な行為』です」
「『正当』か」
ファランは少し目を細めた。
「エルバート王国の不正を民衆に見せることが、正当な商売行為の一部なのか」
「商売ではありません」
クロノは静かに言った。
「父が王都で15年間、真面目に商いをしてきました。正規の税を払い続けた記録が、全部帳簿に残っています」
「……帳簿?」
「はい」
クロノは机の上に、帳簿を置いた。
俺が合図するより先に、クロノは動いた。
自分のタイミングで。
「これが——父の15年間の記録です。
不正な徴税によって店を取り潰された証拠が、全部ここにあります」
部屋が静まった。
財務局長の顔が青く変わった。自らのサインと判が押してある不正書類が王の目の前に晒されている。生きた心地がしないだろう。
ファランは言う。
「見ていいか」
「どうぞ」
ファランは帳簿を手に取った。
ページをめくる。ゆっくりと、丁寧に。
「……で、でで、殿下、ここ、こ、これは!」
財務局長の顔色が蒼白、顔から汗が吹き出ており、タオルが間に合っていない。手の震えも隠せていない。
クロノはとどめを刺しに行く。
「王都の徴税記録との照合結果も、別紙に添付しています。改竄された書類の写しと、本来の記録との差異——全部数字で示してあります」
ファランはしばらく帳簿を見ていた。
その顔は——読めなかった。
怒っているのか。それとも計算しているのか。
「お前の父は、今はどうしている」
「病に伏せっております」
「……そうか」
ファランは帳簿を閉じた。
「この記録は——正式な調査の対象とする」
「殿下!!ここ、こ、このような帳簿を鵜呑みにしてはいけませんっ!!!」
「貴様は黙っておれ!! 調査の対象とする、というておるだけじゃ!」
「ひっ!」
「ありがとうございます」
「ただし——調査には時間がかかる。その間、この商会の活動は——」
「継続させていただきます」
クロノは静かに、しかし一歩も引かずに言った。
「エルバート王国の法律に基づいた正当な活動です。停止させる根拠はないはずです」
ファランは少し間を置いた。
「……ふむ、そうだな」
財務局長が何か言おうとした。
ファランが手で制した。
「わかった。調査を進める間も、貴商会の活動は継続を認める」
「ありがとうございます」
「ただし——」
ファランは立ち上がった。
「この調査の結果、どうなるかはまだわからん。それは理解しておいてくれ」
「はい。承知しております」
ファランは部屋を出る前に、もう一度俺を見た。
今度は——一瞬ではなかった。
二秒か、三秒か。
ファランはクロノに話しかける。
「……お前の薬師は、なかなか面白い目をしているな」
クロノは微笑んで答えた。
「優秀な補佐です」
ファランは何も言わずに部屋を出た。
廊下に出た瞬間、クロノが小さく息を吐いた。
「……通りましたね」
「ああ」
「帳簿を出すタイミング、勝手に動いてしまいました」
「構わない。正しいタイミングだった」
「怒っていませんか?」
「怒るものか。お前の判断の方が正確だった」
クロノは少し黙った。
「……父の記録が、公式の調査対象になりました」
「ああ」
「父が正しかったと——証明される第一歩です」
クロノの声は静かだった。
計算している声ではなかった。
「ああ。第一歩だ」
ユーリが俺の隣を歩きながら小声で言った。
「殿下は——ニールさんのことが気になっていましたね」
「わかったか」
「目線の動きを全部見ていました。クロノさんの話を聞きながら、実際にはニールさんを見ている時間が長かった」
「気づいているのか、それとも単なる疑念か」
「……わからない。でも」
ユーリはぼんやりした顔のまま続けた。
「最後の一言——『面白い目をしている』。あれは商談の評価じゃありません。人を見る言葉です」
「ああ」
「気をつけてください」
「わかってる」
俺は廊下を歩きながら、王城の構造を頭に入れた。
通路の幅、見張りの位置、扉の数——カインが「覚えてこい」と言っていたことだ。
(この城を、いつか内側から崩す)
まだその時ではない。
でも——今日、種を蒔いた。
控えの間に戻ると、イルルが立ち上がった。
「終わった?」
「ああ」
「うまくいった?」
「ああ」
イルルは少し息を吐いた。
ガブが「お疲れ様です」と言った。
珍しく丁寧な言葉だった。
「ガブ、お前がそういう言い方をするとは思わなかった」
「イルルに教わった」
イルルが「そうだよ、ガブに教えてあげたんだ」と笑った。
控えの間で二人が何をしていたのかは聞かなかった。
でも——二人の空気が、来た時より少し違った。
「帰ろう、リオネッサに」
「カインが待ってるね」とイルルが言った。
「ピノも」とガブが言った。
「ミラさんとミアさんも」とクロノが言った。
「……みんなが待っています」とユーリが言った。
王城を出た。
王都の空は高く、青かった。
その空の下に、ファランの城がある。
(今日は退く)
俺は空を見ながら思った。
(でも——終わりじゃない。始まりだ)




