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32話 【ゼニス歴1072年 ニール視点】

出発の数日前、イルルが来た。


「ニール」

「なんだ」

「王都に行くんだよね」

「ああ」

「私も行く」

「……お前は」

「わかってる」

イルルは俺の言葉を遮った。

「王都がどんな場所か、わかっている。広場がどんな場所か、わかっている。それでも——行く」

俺は何も言えなかった。


―――5年前、俺たちは二人でその広場にいた。

イルルは俺の口を塞いで、地面に押し倒して、爪が腕に食い込むほどの力で抑えていた。

「ダメだよ、ニール!死んじゃダメ!!」

あの時イルルが止めなければ、俺はあの場で死んでいた。


「……お前が止めてくれた」

「うん」

「あの日のことを——」

「覚えてるよ、全部」

イルルは静かに言った。

「だから行きたい。怖いけど——ニールと一緒なら行ける」

俺はしばらく黙っていた。

「……わかった」

「本当に?」

「ただし——俺の言うことを聞け。危ないと思ったらすぐに離脱しろ」

「わかった」

「広場には——行かないかもしれない」

「行かなくてもいい」

イルルは少し笑った。

「ニールが一緒にいてくれれば、それでいい」


翌朝、カインを呼んだ。

「イルルも連れていく」

カインは少し間を置いた。

「……わかった」

「異論はないか」

「あいつが自ら行くと言ったのだろう——なら、止めても無駄だ」

「ああ、そうだな」

「ガブも行かせろ」

「ありがとう」

カインは短く言った。

「礼は要らない。あいつに外の経験を積ませるいい機会だ。治療院の中だけじゃ——使い方が盾のままで終わる」

「護衛の仕事は初めてか?」

「だから行かせる。お前が見てやってくれ。」

カインは地図を広げた。

「王都まで馬車で1か月。途中、途中、俺の伝手で用意した宿がある。

王都に入ったらここに——目立たない場所だ」

「王城への入り方は」

「クロノの商会として正面から入る。ユーリが段取りを組んでいる」

「わかった」

「ニール」

カインが言った。


「帰ってこい」

「当たり前だ」


「全員だ。誰一人欠ける事は許さん。全員、連れて帰ってこい」

俺はカインを見た。

感情を乗せない声。でも——その言葉に、全てが詰まっていた。

「ああ」


出発の朝、ガブが荷物を馬車に積んでいた。

ピノが横で手伝っている。

「ガブ、ちゃんとみんなを守るんだよ」

「わかってる」

「先生は自分で突っ込んでいくから、引っ張り戻すの大変だぞ」

「……そうなのか?」

「エルバート王国兵が商人に手を出していても市場に一人で出ていったし、攻めてきても前に立ってたし」

「なるほど」

「ガブが盾になるんだよ。先生の前に立て」

「ちょっと待て」とガブは言った。

「俺は護衛だぞ。突っ込む奴の前に立つのは―――まあ、そういうことになるか」

「そういうこと!頼んだよ!」

ピノは元気よく言って、治療院に走って戻った。

ガブはその背中を見ていた。

「……ピノ」

「なんだ」と俺は言った。

「あいつ、寂しがるかな」

「カインとミラとミアがいる」

「そうだな」

「終わったらさっさと帰ってこよう」

「約束だぞ?」

ガブは短く頷いた。


王都までの道のり、馬車の中は五人。

クロノは帳簿を膝に置いて書類を確認している。ユーリはぼんやりした顔で窓の外を見ている。

ガブは入口の席に座って、外の様子を定期的に確認している。

イルルは俺の隣に座っていた。

しばらく、誰も話さなかった。


「ニール」

イルルが小さく言った。

「ああ」

「5年前と——道、同じかな」

「たぶん同じだ」

「そっか」

イルルは窓の外を見た。

流れていく景色が、だんだん変わっていく。南の辺境から、エルバート王国の中央へ。

「あの時は——怖かった」

イルルが静かに言った。

「ニールが叫んで、私、必死で止めて。ニールの腕、爪で傷つけちゃったよね」

「覚えてる」

「ごめん」

「謝らないでくれ。お前が止めてくれたから——俺は今ここにいる」

イルルは少し黙った。

「あの時さ——ニールを押さえながら、私も叫びたかったんだ」

「……知ってる」

「でも叫んだら、お父さんが守ろうとしたものが、全部崩れる気がして」

「そうだ」

「だから——ニールを止めることしかできなかった」

俺は窓の外を見た。

「お前がいてくれてよかった」

イルルは少し黙った。

それから、静かに言った。

「今度は——私が叫ばなくていい形で、終わらせてね」

「ああ」

「約束だよ」

「約束だ」

「うん。信じてる。」

イルルは窓の外を見たまま、小さく頷いた。


しばらくして、ユーリが口を開いた。

「……お二人は、王都に来たことがあるんですね」

「ああ」

「5年前」

「……そうですか」

ユーリはぼんやりした顔で、でも静かに言った。

「王都中央広場の処刑——私も、遠くから見ていました」

俺とイルルは、ユーリを見た。

「デイル・オーウェン・アシュワース。元近衛騎士団長。あの日、処刑を見た人間は王都に大勢います。私もその一人です」

「……知っていたのか」

「あなたの父上だとは、知りませんでした。でも——あの処刑は、おかしかった」

いつのまにかユーリの顔はシリアスモードになっていた。


「近衛騎士団長が、自分の子供が転生者だからといって、それを匿ったことを国家反逆とする。その判決が正式な裁定を経ずに執行された。法律の手続きとして——明らかに問題がある」

「それを誰かに言ったか」

「聞いてもらえる立場ではありませんでした。ぼんやり三男坊の私には」

ユーリは少し間を置いた。


「でも——ずっと胸の中に引っかかっていて、ずっと覚えていました。」

俺は黙っていた。

「……あれがニールさんのお父様でしたか」

「ああ」

「そうですか」

ユーリはまた窓の外を見た。

「では——今回の王都行きは、私にとっても心の清算になりますね」

誰も何も言わなかった。

馬車の中に、静かな時間が流れた。


馬車の旅、最後の夜、宿でクロノが書類を広げていた。

俺も隣に座った。

「明日、王都に入ります」

「ああ」

「王城への面会は、翌日の午前中です。流通局長と財務局長との面談です」

クロノは書類を一枚、机の上に置いた。

「この帳簿も持っていきます」

父親の15年分の記録だ。

「他の商人の廃業記録、区画割りの改竄証拠、責任者の名前——全部明記したものです」

「それを財務局長の前で出す」

「はい」

俺はその書類を見た。

「クロノ」

「はい」

「すべてが終わった後、父親に見せてやれる書類を作ろう」

「……はい」

「必ずだ」

クロノは少し間を置いた。

「……ありがとうございます」

「よく眠れ」

「はい。ニールさんも」


リオネッサを出て1週間目の昼過ぎ、王都エルドラッドが見えてきた。

城壁が高い。街が広い。

イルルが俺の隣で、少し体を固くした。

「ニール」

「ああ」

「来ちゃったね」

「ああ」

「……大丈夫」

自分に言い聞かせるように言った。

ガブが外を見て言った。

「でかいな」

「ああ」

「こんなところに来たのは初めてだ」

「王都はどうだ?」

「……でかい」

語彙が少ないが、それが全部だった。


馬車が街の中に入っていく。

人が多い。石畳が続く。商人の声、馬の蹄の音、どこかで子供が走っている音。

「ニール」

イルルが小さく言った。

「ああ」

「あの広場——どっちの方向?」

「……北だ」

「そっか」

イルルは窓の外を見たまま言った。

「今回は——北には行かなくていい」

「うん」

「でも次に来る時は——行こう」

「……次に来る時は」

「そうだね。全部終わったら」

俺は少し間を置いた。

「ああ。全部終わったら——一緒に行こう」

イルルは静かに頷いた。


王都の宿に入ると、ユーリが明日の確認をした。

「明日の午前中、王城での面会が取れています。流通局長、財務局長と、その上席が同席します。名目上は薬の流通網の整備について。薬の租税についての話も出る為、財務局長の呼び出しも成功しております。上長、というのは余計でしたが。」

「了解した。交渉中、イルルとガブは外で待機だ」

「うん」とイルルは言った。

「隣の間で控えていてくれ。一刻から二刻、かかるかもしれない」

「ガブと一緒に待ってる」とイルルが言った。


ガブは少し困った顔をした。

「……俺、待つのが苦手なんだが」

「『待つ』のではなく、『動かない』という事ですよ。」とユーリが言った。

「わかった」

俺はガブを見た。

「何かあったらすぐ動いてくれ。でも——何もなければ、待っていてくれ」

「わかった」

「イルルのそばを離れるな」

「任された」

イルルがとびきりのスマイルでガブを見た。

「ガブ、よろしくね」

「……ああ」

ガブは少し照れたように頭をかいた。


夜、全員が部屋に下がった後、俺は一人で窓の外を見た。

王都の夜は明るい。街灯が並んでいて、人の声がまだ聞こえる。

北の方角に、あの広場がある。

5年前、イルルが俺を押さえていた場所が。

デイルが最後に立っていた場所が。

「デイル」

俺は小さく言った。

「着いたぞ」

「……戻ってきたぞ」

部屋の外で廊下を歩く音がした。

ガブが夜の見回りをしている音だ。

その足音が、少しだけ心強かった。

明日、動く。


ここから——全部が変わり始める。

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