【閑話】ボンクラ
【ゼニス歴1057年 ユーリ視点】
気づいたのは、ある日の夕食の席だった。
特別なことは何も起きていない。いつも通りの夕食だ。
父と、長兄エドワルドと、次兄クラウスと、私の四人。母はその年の春に亡くなっていた。
話題は領地の税収についてだった。
長兄が今月の徴税額を報告した。
私は聞きながら、数字を頭の中で処理していた。
おかしい。
去年の同じ時期と比べると、東の区画の数字が合わない。作付けの記録と照らせば、収穫量はむしろ増えているはずで、それなら税収はもう少し高くなるはずだ。計算が——。
「ユーリ」
父が言った。
「何か言いたそうだな」
私は顔を上げた。
父が私を見ていた。長兄も次兄も、私を見ていた。
何も言うつもりはなかった。でも——考えていたことが顔に出ていたらしい。
「いえ」
私は言った。
「なんでもないです」
「言ってみろ」と父は言った。「気になることがあるなら」
私は少し考えた。
「東の区画の数字が、去年と比べて少し——」
「合わないな」
父は頷いた。
「私も気になっていた。原因はわかるか」
私は答えた。
作付けの記録と収穫量の推移、天候の記録、前年の税収との比較——頭の中にある数字を順番に並べて、考えられる原因を三つ挙げた。
部屋が静かになった。
父は私を見ていた。
長兄エドワルドは——私を見ていた。
笑顔だった。いつもの笑顔だ。
なのに、なのになぜあんなに笑顔が怖いんだ…。
「なるほど」と父は言った。「よく見ているな、ユーリ」
夕食はそのまま終わった。
でも——私は気づいた。
長兄エドワルドの目が、その夜から変わったことに。
それから数週間、私は観察した。
変わったのは長兄だけではなかった。
家臣の何人かが、私を見る目が変わった。父が私に話しかける回数が増えた。次兄が私を避けるようになった。
全部、あの夕食の後からだ。
私は自分の部屋で、夜遅くまで考えた。
何が起きているのか。
何が変わったのか。
答えは、単純だった。
「私が——使えると思われた」
それだけだ。
今まで誰も私に期待していなかった。三男で、おとなしくて、特に何もしない子供。それが普通だった。
でも一度「使える」と思われると——話が変わる。
貴族の家で、三男が「使える」人間だとわかると、どうなるか。
私は考えた。
跡継ぎは長男のエドワルドだ。次兄のクラウスは軍に入る予定だ。三男の私は——本来、何もしなくていい立場のはずだ。
でも「使える」とわかれば、使われる。
政略婚姻の道具にされるか、家臣のまとめ役に据えられるか、あるいは——兄の立場を脅かす存在として、静かに消されるか。
どれになるかは、わからない。
でも——どれも、私が望む未来ではない。
私は窓の外を見た。
リオネッサの夜空は広い。星が出ている。
「どうすればいいんだ」
私は小さく言った。
誰も答えない。
夜が更けるにつれて、私は一つの考えに辿り着いた。
シンプルな考えだ。
「使えないと思われれば、使われない」
使えないと思われれば——誰も期待しない。誰も脅威だと思わない。誰も消そうとしない。
長兄は私を消さない。たぶん。でも——私が長兄の立場を脅かし続ければ、いつか限界が来る。
家族だから、という理由だけで、人はいつまでも待てない。
だとすれば。
私が「ボンクラ」になれば——全部、解決する。
私は少し考えた。
できるか。
生まれてからずっと自分の頭で全て考えてきた。
数字を見れば自然に処理してしまう。
問題を見れば原因を探してしまう。
それは——やめられるのか。
やめる必要はない。
考えることはやめない。
ただ——それを、外に出さなければいい。
頭の中でだけ、考える。
答えを出す。でも、言わない。
誰も知らない答えを、一人で持ち続ける。
それで——生き延びる。
私は深く息を吸った。
「できる」
声に出して言った。
誰にも聞こえない声で。
明日から、ぼんやりした顔をする。
間延びした声で話す。的外れなことを言う。
誰かが困っていても、気づかないふりをする。数字がおかしくても、見えないふりをする。
それを——何年でも続ける。
長兄が安心するまで。家族が私を忘れるまで。
私は立ち上がった。
窓の前に立って、もう一度夜空を見た。
星が出ている。
「これでいい」
私は言った。
自分に言い聞かせるように。
「これしかない」
翌朝、私は食卓に座った。
父が税収の話をしていた。
長兄が頷いていた。
次兄が黙ってご飯を食べている。
私は——ぼんやりした顔で、窓の外を見ていた。
父が私を見た。
「ユーリ、昨日の話だが——」
「あ、すみません」私は少し首を傾けた。
「昨日って、何の話でしたっけ?」
父は少し黙った。
「……東の区画の税収だ」
「あー、そうでしたっけ。あんまりよくわからなかったんですけど」
「昨日はよく分析していたじゃないか」
「あれ、そうでしたっけ?
それよりも父さん、あの雲を見てください。
このパンと同じ形をしていますよ。
珍しいなぁ」
私はぼんやりした顔で、頭をかいた。
父はしばらく私を見ていた。
そして私を見るのをやめた。
長兄はいつもの笑顔だった。
いつもの笑顔だ。だが、どこか寂しそうな気がした。
これでいい。
これが——正しい選択だ。
だからこそ。
なぜだろう。
胸の奥に、小さな穴が開いたような気がした。




