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31話 【ゼニス歴1071年 ニール視点】

「兄上から、辺境伯様への面会の日程が取れた、との連絡がきました」


治療院に来るなり、ユーリはぼんやりした顔で言った。

「早かったな」

「兄上は辺境領の仕事をしており、辺境伯様とも面識もあります。その繋がりがありますので。三男坊の私が『ご挨拶したい』と申し上げたら、まあ、特に疑われることもなくアポイントが取れました」

「よく兄が許可してくれたな」

「そうですね。ボンクラ弟が辺境伯様に会う——表面上はたったそれだけなので、誰も深読みしません。ですので、兄も理由については深く追及してきませんでした。」

ユーリはぼんやりした顔のまま、少し笑った。


「場所はどこだ」

「リオネッサ近郊の別荘地です」

「辺境伯は王都住まいじゃないのか?」

「はい。本来は王都の屋敷にいらっしゃいます。でも——この時期、年に一度の視察でこちらに来ておられます」

「タイミングがよかったな」

「大体、暖かくなった毎年この時期なのですよ」

ユーリはぼんやりした顔をやめ、少し改まった顔で続ける。

「…辺境伯様はリオネッサの動きを全て把握しておられます。エルバート王国兵との衝突の報告も、書類の写しが広まっている話も——全部届いているはずです」

「だから視察のタイミングで現地の調査を行う、ということか」

「恐らくは。だから一発で説き伏せる必要があります。ニールさんも来て頂けますか?」とユーリは言った。

「ああ。もちろんだ」

「そうですね。でも——」

ユーリは少し考えた。


「別荘地でのお会いということは、王都の公式な場ではない。辺境伯様が『非公式に話を聞く』という姿勢で来られています。つまり——まだ判断を決めていない」

「中立の場、ということか」

「はい。こちらが何を持ち込むかで、天秤が動く」

この話をクロノに話すと、即答だった。

「私も同席させてください。商談になるなら私が前に出ます。ニールさんは補佐として後ろに立っていてください」

「わかった」


出発前の夜、カインが俺を呼んだ。

「辺境伯について、調べたことがある」

「聞かせてくれ」

カインは地図を広げた。

「グレアム・ヴィクトル・リオネッサ。辺境伯家四代目。バルドール帝国との国境紛争を二度、収めている。軍人としては有能だ」

「民政は」

「そっちが問題だ」カインは言った。

「領内予算が防衛費に全部持っていかれる。運営予算は王都から引っ張ってくるやり方で——王都に頭が上がらない構造を自分で作っている」

「管理する人間がいないから、文官が好き勝手できる」

「ああ。不正が蔓延するのはその結果だ。本人は気づいているが、手が回らない」カインは静かに言った。「東にバルドール帝国がいる限り、この人間の優先順位は変わらない」

俺は少し考えた。


「不正の話より、別の話をした方がいい」

「お前はそう読んだか」

「ああ」

カインは短く頷いた。

「俺も同じ読みだ」

「もう一つ」

「なんだ」

「辺境伯が別荘地に来た。王都の公式な場じゃない——これは辺境伯が動く気があるということだ」

「あるいは——動く前に、直接品定めしたいということだ」

「どちらにしても、悪くない」

カインは静かに言った。

「気をつけろ。品定めに来た人間は——想定外のことに敏感だ」

「わかった」


翌朝、馬車でリオネッサ郊外に向かった。

辺境伯の別荘は街道から少し外れた丘の上にある。

王都の本邸とは違い、こぢんまりとした石造りの建物だとの事。

でも——手入れは行き届いている。庭の草が丁寧に刈られていて、門の周りに花が植えてある。

「意外だな」

俺は小さく言った。

「何がですか?」とユーリが言った。

「もっと殺風景な家だと思っていた。」

「辺境伯様はこの別荘を大切にしておられると聞いています。なんでも、ここはご家族と過ごすために建てた家だとか」

「……そうか」

門の前で馬車を降りた。

待っていたのは、辺境伯の側近らしき男だった。

「ユーリ様ですね。皆様をお待ちしておりました。こちらへどうぞ」


案内されたのは、陽の当たる小さな応接室だった。

窓から庭が見える。王都の堅苦しい公式の間とは全く違う。

辺境伯——グレアム・ヴィクトル・リオネッサは、すでに席に座っていた。

50代の締まった体格の男だ。日焼けした肌、短く刈り込んだ白髪、鋭い目。政治家というより、現役の軍人の顔だ。

「アルバの三男坊か」

ユーリを見て言った。


「はい。大変ご無沙汰しております。色々ありまして、ご挨拶に参りました。

こちらが、私どもの薬師のニール。それから抱えの商会で代表を務めているクロノでございます」

グレアムはクロノを見た。次に俺を見た。

少し間があった。


「市場でエルバート王国兵を退けた薬師か」

「はい」

「わざわざここまで来たということは——話があるのだろう。聞こう」

公式の場ではない、という余裕が声に出ていた。


クロノが前に出た。

用意してきた内容を、丁寧に、的確に話した。供給できる薬の種類、価格、配送の仕組み、アステリズム神聖国の治癒師に頼らない医療の体制——。

辺境伯は黙って聞いていた。


途中、一度だけ口を挟んだ。

「アステリズム神聖国の治癒師は金がかかる。それだけじゃない——あいつらはヴォイド教の布教を兼ねてやってくる。俺の領地で好き勝手に動かれると領内統治の障害になる。だが、民衆にとって治癒師の確保は最優先だ。そこがもどかしい…」


「でしたら——」

クロノは書類を一枚出した。

「私どもの薬であれば、アステリズム神聖国に頼る必要がなくなります。コストも抑えられます」

辺境伯はその書類を見た。

「……お前の商会は王都にあるそうだな」

「はい。二年前まで」

「今は」

「リオネッサです」

辺境伯はクロノを見た。

「流れてきたか」

「……はい」

「なぜか聞いてもいいか?」

クロノは少し間を置いた。


「王都で、不正な徴税によって父の店を取り潰されました」

辺境伯の目が、わずかに動いた。

「……そうか」

短い沈黙があった。

辺境伯はクロノの書類から目を上げて、俺を見た。

「薬師。お前も何か言うことがあるか?」

「一つだけ」

「言ってみろ」


俺は静かに言った。

「辺境伯様がこの別荘地に来られたのは、領内で起きている事件や状況をご自身の目で見られる為、それと本日お招き頂けたのは、私達からの話を聞き、ご自身の考えと照らし合わせるためだと考えています」

辺境伯は少し目を細めた。

「……続けろ」

「辺境伯様の一族の使命は、バルドール帝国の脅威からエルバート王国と民を守ることだと伺っています」

「そうだ」


辺境伯は静かに答えた。

「四代、その一点だけのために動いてきた」

「そして、その使命を果たすためには、領地の民が安定していなければならない。民が疲弊すれば、いざという時の兵も食料も足りなくなる」

「……わかっている」

「今、この領地で何が起きているか——辺境伯様もご存じのはずです。不正な徴税で商人が潰れ、アステリズム神聖国の治癒師も来ない。民衆の不満が積み重なっている」

「わかっている」

辺境伯の声は低かった。

「わかっているが、手が回らない。俺の仕事は東のバルドール帝国を見張ることだ。民政まで目が届かない」


「その民政の部分を、私どもが担えます」


辺境伯は俺を見た。

「お前たちが?」

「薬の供給はクロノが動かします。徴税の不正の記録はユーリ殿が把握しています。民衆の信頼はすでに治療院が持っています。辺境伯様は——バルドール帝国だけを見てくださればいい」


窓から庭の風景が見える。

手入れの行き届いた庭。丁寧に刈られた草。

辺境伯は少し視線を窓に向けた。


「……ここの別荘は、妻が好んでいた場所だ」

唐突な話だった。


「もう亡くなって十年になる。王都には戻れと言われても、ここには毎年来ている」

「……そうですか」

「妻はよく言っていた。バルドール帝国を見張るのはあなたの仕事。でも民を見るのも同じくらい大事だ、と」

辺境伯は窓から視線を戻して、俺を見た。

「俺はその言葉に答えられてこなかった」

静かな告白だった。


「今日——お前たちの話を聞いて、少し思い出した」

「辺境伯様」

俺は言った。

「民を見る仕事を、私どもに任せてください。その間、バルドール帝国を見張ることに集中してください」

辺境伯はしばらく黙っていた。


「……一つ聞く」


「はい」

「お前たちは何のためにこれをやっている」

俺は少し考えた。

「この国の仕組みを変えるためです」

「エルバート王国に反旗を翻す気か」

「反旗ではありません。正しくない仕組みを、正しく直す。それだけです」

「その過程で——リオネッサが巻き込まれる」

「それに関しては申し訳ございませんが、リオネッサ辺境領はすでに巻き込まれています」


辺境伯は少し間を置いた後、かすかに笑った。

「……正直な男だ」


それから——ユーリを見た。

「アルバの三男坊」

「は、はい」

「お前、普段はそんなにぼんやりしているのか?」

ユーリは三秒間、固まった。

それからぼんやりした顔のまま言った。

「…生まれつきでして」


辺境伯は初めて、少し声を出して笑った。

「はっはっはっ、そうかそうか。アルバにそんな子がいたとはな!知らなかったぞ!今後も遠慮なく訪ねてくるがよい」


面会は一時間で終わった。

「三日待て。返答する」

それだけ言って、辺境伯は席を立った。

立ち際、辺境伯は庭の方をもう一度見た。

それから——俺を振り返らずに言った。

「薬師。この別荘の庭の手入れをしてくれている老人がいる。腰が悪くて、毎年この時期になると辛そうにしている」

「……はい」

「診てやってくれるか」

「もちろんです」

辺境伯は何も言わずに部屋を出た。


帰りの馬車の中、三人はしばらく黙っていた。

「どう思いますか?」とクロノが口火を切る。

「悪くない」と俺は言った。

「根拠は?」

「あの人は民政が手薄なことを、自分の失点だとわかっている。使命感のある人間に刺さる言葉を使った」

「奥様の話は——想定外でしたね」

「ああ。でも——ああいう話が出てくる時は、相手が本音で話し始めている証拠だ」

「庭師の件は」とユーリが言った。

「あれが答えだ」

「……と言いますと?」

「辺境伯は俺たちを試した。『民を見てやってくれ』と言えるかどうか。『もちろんです』と即答できるかどうか」

「正解した、ということですか」

「たぶんな」


クロノは少し黙った。

「……父の店を潰された話を、辺境伯様は黙って聞いてくれました」

「ああ」

「あの目——怒っていたように見えました。エルバート王国への、ではなく——自分への」

俺は頷いた。

「あの人は、自分の国で何が起きているか、知りたくなかったんじゃない。知っても自分が対処出来る余裕がなかっただけだ」

「……そういう人なんですね」

「だが、動ける余裕ができた」

ユーリはぼんやりした顔で窓の外を見たまま言った。

「ボンクラの演技も——今日は少し役に立ちましたかね」

「最後の場面でな。辺境伯が笑った。あれは今日初めてだった」

「……10年間、無駄じゃなかったかもしれませんね」

「ああ。無駄じゃなかった。だが、今日で卒業だ」

ユーリは窓の外を見たまま、何も言わなかった。

でも——その横顔が、いつもより少し軽かった。


帰り道、俺は別荘の庭師の老人を診た。

腰の古傷だった。完治はしない。でも——痛みを和らげる薬草の調合と、動き方のアドバイスをした。

老人は「ありがとうございます」と深く頭を下げた。

「グレアム様が——先生を連れてくると言ってくださいまして」

「そうですか」

「毎年この時期に来てくださる。ここの庭を、奥様が好きでしたから——今でも手入れをしていると、グレアム様が喜んでくださいます」

俺は何も言わなかった。

「来年もまた——来ていただけますか?」

「もちろんです」

「ありがとうございます」

老人はもう一度、深く頭を下げた。


三日後、辺境伯から返答が届いた。

ユーリの兄・エドワルドが直接、治療院に来た。

「弟が世話になっているようだな」

エドワルドは俺を見た。

笑顔だった。でも——目が笑っていない。

「いえ、こちらこそ」

「辺境伯様からの返答を預かってきた」

エドワルドは書状を差し出した。

短い文章だった。


『エルバート王国兵の駐留については、辺境領の安定に帰さない為、領兵で補うものとする。

徴税の是正については、正式な手続きを経て対応する。

なお、薬の供給については前向きに検討する。

以上。

リオネッサ辺境伯グレアム・ヴィクトル・リオネッサ』


「……薬の供給まで入っている」

「辺境伯様は実利で動かれる方ですから」

エドワルドはユーリを見た。


「ユーリ」

「は、はい、兄上」

「何か言うことはあるか」

「……いえ、特には。なんか気づいたら巻き込まれてたって感じで」

エドワルドは少し笑った。

「そうか。——お前らしい」


エドワルドは俺に向き直った。

「ニール、貴様に一つ言っておく」

「はい」

「王都はすでにリオネッサの動きを把握している。辺境伯様がどう動かれようと——王都は黙っていない」

「わかっています」

「それでも進むのか?」

「はい」

エドワルドはしばらく俺を見ていた。

それから、静かに言った。


「弟を——よろしく頼む」


それだけ言って、エドワルドは出ていった。

扉が閉まった後、全員が静かに息を吐いた。

「通った」とカインが言った。

「ああ」

「次は王都か」

「ああ」

俺は書状を机に置いた。


カインが地図を見ながら言った。

「準備に1週間はかかる」

「わかった」

クロノが帳簿を胸に抱えた。

「王都——父の店がある場所ですね」

「ああ」

「私も一緒に行けますか?」

「もちろんだ。来てもらわないと困る」

ユーリが口を開いた。

「ニールさん」

「ああ」

「エドワルド兄上が——弟をよろしく、と言っていましたね」

「ああ」

「兄上が、そんなことを言うとは思いませんでした」

ユーリはぼんやりした顔のまま、少し黙った。


「……10年間、ぼんやりしていたのは——兄上を守るためでもあったんです。兄上の立場を脅かさないために」

「わかっている」

「兄上も——わかっていたのかもしれませんね」

「そうかもしれないな」

「それなら——少し、楽になりますね」


ピノが廊下から顔を出した。

「先生、ご飯できましたー!」

「今行く」


リオネッサの夜が、静かに更けていった。

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