29話【ゼニス歴1071年 ニール視点】
クロノが帳簿を持ってきたのは、数日後だった。
革の表紙がついた、分厚い帳簿が三冊。それと、薄い書類の束が一つ。
「父が15年間つけていたものです」
クロノは治療院の机に帳簿を並べた。
「全部、見ていいか」
「ええ。少し書類の整理に時間が掛かりました。申し訳ございません。ですが、これが全てです。」
俺は帳簿を開いた。
几帳面な字で、日付と品目と金額が並んでいる。収入、支出、税の納付記録——全部、記録されている。商人として正確に、丁寧に。
「お前の父親は真面目な人だったんだな」
「商人として当たり前のことをしていただけです」
クロノの声は平静だった。でも——帳簿を見る目が、少しだけ違う。
その時、扉が開いた。
「あのー……」
ユーリだった。
いつものぼんやりした顔で、頭をかいている。
「今日も来ちゃいました。眠れなくて」
「座れ」
ユーリは椅子に座った。クロノを見た。クロノがユーリを見た。
「アルバ家のユーリ様ですか」
クロノが静かに言った。
「ご存じで?」
「商人ですから。辺境領の貴族の名前くらいは」
「そうですか。改めまして僕はユーリといいます。」
「クロノです」
二人は向き合った。
表向きは——ぼんやりした貴族の三男と、きちんとした商人の娘だ。
でも俺には見えた。
二人とも、相手を品定めしている。
「ユーリ」
俺は言った。
「今日はお前の眠れない話じゃない。この帳簿を見てくれ」
「帳簿ですか」
ユーリはぼんやりした顔のまま、帳簿を覗き込んだ。
数秒後、その顔が変わった。
ぼんやりした顔のまま——でも目だけが、別人になった。
「……いつの記録ですか」
「15年分だ」
「全部?」
「全部」
ユーリはページをめくり始めた。
最初はゆっくり。次第に速くなる。
「この徴税額の変化——3年前から急に上がっていますね」
「ああ」
「この時期、エルバート王国全体の領地の徴税区画割りが変更されています。私の兄もリオネッサ辺境領の区割りには関わっている書類です」
「その書類を持っているか」
「家にあります」ユーリは言った。「取ってきます」
「今日中に頼めるか?」
「わかりました」
ユーリは立ち上がって、出ていった。
いつものぼんやりした歩き方で。
クロノはその背中を見ていた。
「あの人、演じていますね」
「気づいたか」
「最初から。商人は相手の目を見ます。あの人の目は、ぼんやりしていない」
俺は少し考えた。
「使える人間だ。信用していい」
「わかりました」
ユーリが書類を持って戻ってきたのは、二時間後だった。
書類の束を机に置く。
「区画割りの変更記録です。3年分。あと——これ」
もう一つ、別の書類を出した。
「徴税免除期間の記録です。本来、この市場の区画には免税期間が3年残っていました。でもこの書類では、免税期間が終了したことになっています」
クロノが書類を見た。
「この書類の日付——」
「2年前です」
「父の帳簿と照合すると——」
「免税期間が終了したことになった翌月から、父上の店への請求額が変わっています」
クロノは帳簿を開いて、書類と並べた。
数字が一致した。
「これが、父の店を潰した根拠だったんですね」
静かな声だった。計算している声ではない。
「クロノ」
俺は言った。
「この市場だけなのか、調べてみろ」
「どういう意味ですか」
「他の区画でも同じことが起きているかどうか」
クロノは少し考えた。
「商業ネットワークで確認できます。他の商人に聞けば——」
「僕の方でも調べてみます」とユーリが言った。
二人が初めて、同じ方向を向いた。
それから三日かかった。
クロノは商業ネットワークを通じて、リオネッサ周辺の商人たちに聞き込んだ。
ユーリは貴族社会の伝手を使って、他の区画の徴税記録を集めた。
三日後の夜、治療院の机に書類が山積みになった。
カインが腕を組んで立っている。ミラとミアが書類の端を覗いている。ガブが「なんかすごいな」と言いながら荷物を運んでいる。
俺、クロノ、ユーリの三人が机を囲んだ。
「整理する」
俺は言った。
「リオネッサ市場だけで——免税期間を無効にされた区画が12。影響を受けた商人が47人。うち廃業が11件」
「南の交易路沿いの3つの町——同じ手口で免税期間を無効にされた区画が合計23。廃業が18件」
クロノが淡々と言った。
「辺境領内の他の貴族家への圧力——徴税額の水増しが7件。そのうち異議を申し立てた貴族家が2件あったが、どちらも書類上で処理されて終わっている」
ユーリが続けた。
「全部、同じ手口だ」
俺は言った。
「恐らく王都やその他の地域でも同様の事が起こっているのだろう」
「ええ。商業ネットワークで確認しましたので、間違いないですわ」
「書類を書き換える。免税を無効にする。異議を申し立てても書類で潰す。——これはシステムだ」
「システム?」とミラが言った。
「個人が欲で動いているんじゃない。エルバート王国の組織として、この不正が設計されている。誰かが命令して、誰かが実行して、誰かが隠蔽する。役割が分担されている」
机の上に並んだ書類を見た。
廃業した商人の数。潰された店の数。
クロノの父親の店もその一つだ。
「エルバート王国の不正を、言葉じゃなく数字で示す」
俺は言った。
「この書類を、民衆に見せる」
沈黙が落ちた。
「どうやって」とユーリが聞いた。
「写しを作る。市場の商人たち、辺境領内の小規模な貴族家、治癒師が来ない土地の村——全部に届ける」
「エルバート王国が潰しに来ます」とクロノが言った。
「来るだろうな」
「それでも、やるんですか」
「潰しに来るということは——痛いところを突いているということだ」
クロノは少し黙った。
それから、帳簿を閉じた。
「写しの作成は私がします。商人のネットワークで配布もできます」
「頼む」
「ただし——条件があります」
クロノは俺を見た。
「父の店を潰した責任者の名前を、この書類に明記してください。誰が命令したか。誰が実行したか。誰が隠蔽したか——全部、記録に残して欲しいんです」
「わかった」
「それと」
クロノは帳簿を指でなぞった。
「この書類が公になった時——父が正しかったと証明されます」
少し間があった。
「父は今、寝たきりです。王都で商売を潰されてから、ここまで流れてきて——心労で倒れた。母が看病しています」
俺は黙って聞いた。
「証明されても、父には届かないかもしれない。でも——」
クロノの声は変わらない。計算している声だ。でも——その奥に、別のものがある。
「それだけで十分です」
「ユーリ」
俺は言った。
「責任者の名前、特定できるか」
「区画割りの書類にサインと判が押してあります。最終承認は——王都の財務局長名義です」
「やはり王都まで繋がっているか」
「リオネッサの不正は、末端の話じゃないということです」
俺は机の書類を見渡した。
一地方の不正ではない。
王都から設計された、エルバート王国全土の搾取の仕組みだ。
「カイン」
俺は言った。
「次にエルバート王国兵が来た時の準備はできているか」
「いつでも」
「情報が広まり始めると、必ず動いてくる」
「わかっている」
カインは短く答えた。
「ニールさん」
ユーリが言った。
「これを公にすれば——戻れなくなりますよ?」
「最初から戻るつもりはない」
ユーリはぼんやりした顔のまま、少しだけ笑った。
「そうですか。では——僕も、戻れなくていいですかね」
その言葉は間延びしていなかった。
ミラが「なんか始まった感じがする」と言った。
ミアが「始まってるよ~、もうとっくに」と言った。
ガブが「俺、荷物運ぶ以外にもできることあるか」と言った。
「ある」と俺は言った。「
写しを配る時の護衛をしてくれ」
「わかった」
ガブは頷いた。迷いがない。
翌日から、書類の写しが動き始めた。
クロノが商人のネットワークを使って、書類の写しをリオネッサ周辺に流した。
最初は一人、二人と読む人間が増えた。市場で話題になった。貴族の間でも流れた。
1週間後——エルバート王国兵が治療院に来た。
「書類の流布を止めろ。これはエルバート王国への反逆だ」
俺は言った。
「エルバート王国の公式記録の写しだ。どこが反逆だ」
「……」
「この書類に書いてある数字は全部、エルバート王国の書類から取ったものだ。違うというなら、エルバート王国の書類が間違っているということになる。それでいいか」
兵士は黙った。
「次に来る時は、正式な停止命令書を持ってこい。王都の財務局長の判が押されたものをな」
兵士は何も言わずに引き返した。
カインが俺の隣に来た。
「財務局長の名前を出したのは、わざとか」
「ああ」
「王都に報告が上がる」
「それが目的だ」
カインは少し考えた。
「王都を動かすつもりか」
「動かして——こちらに来させる。そうすれば、王都の人間がリオネッサに来る。俺たちが王都に行かなくても」
「……なるほど」
カインは短く言った。
「お前、本当に20歳か?」
「それはこの前も言ったぞ。それに、厳密に言うと20歳にプラス35歳だ」
「確かにな」
カインは少し笑いながら、それだけ言って外の見張りに戻った。
その夜、治療院は静かだった。
ピノが机に突っ伏して寝ている。イルルが毛布をかけている。ミラとミアが小声で話している。ガブが扉の前で腕を組んでいる。
クロノが帳簿を閉じた。
「ニールさん」
「ああ」
「店が潰されてから——父はずっと一人で抱えていました。証拠はある。でも動けない。誰も聞かない。そういう状態が、2年間続いていました」
俺は黙って聞いた。
「今日、数字が並んだのを見て——父だけじゃなかった、とわかりました。同じことをされた人間が、こんなにいた」
「ああ」
「……怒りって、こういう時に大きくなるんですね」
俺は少し考えた。
「怒りは、使い方次第だ」
「どういう意味ですか」
「怒りの炎を燃やすだけなら自分が焦げる。でも——正しい方向に使えば、動力になる」
クロノはしばらく黙った。
「ニールさんは、怒っていますか」?
「ずっとだ」
「それで、動けているんですか」
「それだけじゃない」
俺は窓の外を見た。
リオネッサの夜空に、星が出ている。
「怒りの先に——守りたいものができた。そっちの方が、今は大きい」
クロノは何も言わなかった。
でも——帳簿を持つ手が、少しだけ変わった気がした。
「明日も、写しを配ります」
「頼む」
「はい」
クロノは帰りの支度をしながら俺に言った。
「……父が目を覚ました時に、見せてあげたい書類があります」
クロノは持っている帳簿を見つめて言葉にする。
「父は正しかった、という書類を」
「任せろ。必ず作るから」
俺は言った。
クロノは顔を上げた。
計算している目ではなかった。
「……ありがとうございます」
クロノは立ち上がって、頭を下げた。
治療院の扉が閉まった。
俺は机に残った書類を見た。
様々な数字の列。でもその一つ一つの背景に、人の話がある。
「……もう少しだ」
誰にも聞こえない声で言った。




