28話 【ゼニス歴1071年 ニール視点】
その男が治療院に来たのは、昼過ぎのことだった。
背が高い。貴族風の服を着ているが、仕立ては良いのに着こなしが雑だ。ボタンが一つずれている。髪も寝癖がついたままだ。
年齢は20代前半か。顔立ちは整っているのに、表情がぼんやりしている。口が半開きで、目の焦点が合っていない。
「あのー……」
間延びした声だった。
「ここ、治療院ですよね?」
「そうだ」
「よかった。迷っちゃって。リオネッサって複雑ですよね、道が。あ、でも僕、方向音痴なだけかもしれないですけど」
ミアが俺の袖を引いた。小声で言う。
「なんか変な人来たよ~?」
「見てればわかる」
「何か症状はあるか」
俺は男に聞いた。
「症状? えーと……特にないんですけど、なんか最近、眠れなくて」
「いつからだ」
「二週間くらい前からですかね。あ、でも眠れないっていっても、眠れない日と眠れる日があって、眠れる日の方が多いので、大したことないんですけど」
「他に気になることは」
「食欲はあります。あ、でも昨日はあんまり食べられなかったかも。いや、食べたかな。うーん」
俺は男を見た。
眠れない。でも眠れる日の方が多い。食欲はある。でもない日もある。
これは症状の話をしているのではない。
「座れ」
「あ、いいんですか。じゃあ、お言葉に甘えて」
男はのろのろと椅子に座った。
俺は触診を始めた。
脈。呼吸。目の状態。手の皮膚。
脈は安定している。呼吸も問題ない。目は澄んでいる——焦点が合っていないのは演技だ。手の皮膚は柔らかい。でも指の付け根に、かすかな摩擦の跡がある。
ペンだこに近い。
よく書き物をする人間の手だ。
「名前は」
「ユーリです。ユーリ・アルバ。リオネッサ辺境領のアルバ家の三男で、まあ、家では特に役割もないんで、ぷらぷらしてる感じで——」
「アルバ家か」
「ご存じですか? あんまり大した家じゃないんですけど、一応、辺境領の内部の貴族で——」
「辺境領の徴税区画の割り当てを決めるのはアルバ家の長男だな」
ユーリの言葉が止まった。
一拍。
二拍。
三拍。
「……そうですね」
また間延びした声に戻った。
「兄がそういう仕事してます。僕は関係ないんですけど」
「三日前に変更された区画割りの書類に、アルバ家の判が押してある。長男名義だが——筆跡が三種類ある。どれが本物の長男の字か、わかるか」
ユーリはぼんやりした顔のまま、答えなかった。
「筆跡が三種類、というのは、書類の作成に三人が関わっているということだ。普通、区画割りの書類を一人の人間が書き直すことはない。つまり修正が入っている。誰かが最初の内容を変えた」
俺はユーリを見た。
「お前は、その修正の前の内容を知っているか」
―――沈黙。
治療院の中が静かになった。
ミアが薬草を仕分ける手を止めている。ガブが廊下の奥でこちらを見ている。
ユーリはぼんやりした顔のまま、俺を見ていた。
三秒。
それから——
「眠れない原因がわかりました」
間延びした声で言った。
「ストレスだと思います。三男って、なんか、家の中で肩身が狭くて。兄たちに気を遣って、家族の顔色見て、そういうのが積み重なると眠れなくなるんですかね」
俺は黙って聞いていた。
「あ、でも大したことないんで、薬とかはいいです。なんか話したら楽になった気がするし。来てよかったです。先生、優しいですね」
ユーリは立ち上がって、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「ああ」
ユーリはのろのろと扉に向かった。
扉を開けた瞬間、こちらに振り返らないまま言った。
「あっ。そういえばあの書類の修正前の内容ですけどーーー」
間延びした声のまま。
「二週間前に変更されてます。変更前は——この市場の区画、免税期間がまだ三年残ってたっけ」
扉が閉まった。
ミラが俺を見た。
「今の、どういうこと」
「三年分の免税を、書類を書き換えて無効にした。それが二週間前の不正徴税の根拠になった」
「じゃああの人、それを知ってて教えてくれたってこと?」
「ああ」
「なんで?」
俺は扉を見た。
「わからない。まだ」
カインがいつの間にか俺の隣に来ていた。
「面白い男だ」
「ああ」
「使えるか」
「使えるかどうかより——あいつが何をしたいのかの方が先だ」
カインは少し考えた。
「どうする」
「来るのを待つ。また来る」
「根拠は」
「あいつは今日、わざわざここに来た。俺に見抜かせた。向こうから来るつもりがなければ、そんなことはしない」
カインは短く頷いた。
翌日、ユーリが来た。
昨日と同じ、ボタンが一つずれた服を着ている。
「あのー、また来ちゃいました。昨日より眠れたんですけど、なんか習慣になっちゃって」
「座れ」
「あ、はい」
ユーリは椅子に座った。
俺は向かいに座って、真正面から見た。
「ひとつ聞く」
「はい」
「お前は何がしたい」
ユーリはぼんやりした顔のまま、少し間を置いた。
「眠れるようになりたいです」
「それだけか」
「……それだけです」
俺は少し考えた。
「わかった」
「え、いいんですか」
「ただし——条件がある」
「条件?」
「書類の話をする時だけ、普通に話せ。ボンクラの演技は必要ない」
ユーリは三秒、固まった。
それからぼんやりした顔のまま言った。
「ボンクラって、ひどいですね」
「演技なんだろ?」
―――沈黙をユーリが破る。
「……どこで気づきましたか?」
「手の皮膚。ペンだこがある。貴族の三男坊で、役割もなくぷらぷらしている人間には、できない種類の跡だ」
ユーリはまた少しの間、黙っていた。
それから——ぼんやりした顔が、ほんの少しだけ変わった。
笑ったわけではない。でも何かが緩んだ。
「よくわかりましたね」
今度は間延びしていない声だった。
「いつから演じている」
「15の頃からです。兄が——賢い弟は邪魔だと気づいたのが、その頃で」
「家族に消されると思ったか」
「直接的な意味でも間接的な意味でも、ですね。でもエルバート王国の貴族社会は、有能な人間が有能なまま生きられる場所じゃない。上の兄弟の立場を脅かす存在は、いなくなる。」
「だからボンクラを演じた」
「・・・10年です」
ユーリは静かに言った。
「10年間、ぼんやりした顔で的外れなことを言い続けた。そうすれば誰も俺を脅威だと思わない。誰も俺を消そうとしない。家族も兄弟も安心する」
「つらくなかったか」
「慣れました」
即答だった。
でもその即答が——慣れることの重さを伝えていた。
「二週間前の書類の件、お前は止めようとしたか」
「……しました。でも、俺はただの三男坊なので、止める権限がない」
「それで俺のところに来た」
「あなたが三日前にエルバート王国兵を退けた。数字で。法律で。俺が欲しかった武器を、あなたは持っている」
俺はユーリを見た。
10年間ボンクラを演じてきた男が、初めて本音で話している。
「俺たちに何を持ち込める」
「貴族社会の動きです。エルバート王国内部の書類の流れ、人事の変化、どこで不正が起きているか——表に出ない情報が、俺のところには来ます。ボンクラだと思われているから」
「逆用しているのか」
「それしかできないので」
俺は少し考えた。
「わかった。来い」
「ここに、ですか」
「ああ。ただし——」
「ボンクラの演技は続けろ、ですか」
「そうだ。外では今まで通りにしろ。ここに来る時だけ、普通に話せばいい」
ユーリは少し黙った。
「……それ、結構、楽ですね」
「そうか」
「ここに来る時だけ、普通でいい。10年ぶりです」
俺は何も言わなかった。
でも------ユーリの顔が、さっきより少し軽くなった。
扉に向かいながら、最後にこう言った。
「ああ、先生のおかげで今日はよく眠れそうだ」
その夜、カインに話した。
「ユーリが加わる」
「ボンクラの三男坊か」
「演技だ。本当は切れ者だ」
カインは少し間を置いた。
「10年、演じてきたのか」
「ああ」
「……消耗する生き方だな」
「エルバート王国がそうさせた」
カインは短く頷いた。
「貴族社会の内部情報が入るのは大きい。使える」
「ああ」
俺は窓の外を見た。
リオネッサの夜はいつも通り騒がしい。
ニール、イルル、ピノ、ミラ&ミア、カイン、クロノ、ガブ、ユーリ。
少しずつ、形になってきた。
「次は何をする?」とカインが聞いた。
俺は少し考えた。
「クロノの帳簿を使う。ユーリの情報と合わせれば、エルバート王国の不正の全体像が見えてくる」
「それを何に使う」
「民衆に見せる」
カインは俺を見た。
「エルバート王国の不正を、言葉ではなく証拠で示す。そうすれば——俺たちが動かなくても、人が動き始める」
カインはしばらく黙っていた。
「軍事力だけでは国は変わらない、ということか」
「ああ。変えるのは——最後は人だ」
カインは短く、しかし確かに頷いた。
リオネッサの夜が更けていく。
レジスタンスは、静かに、しかし確実に動き始めていた。




