27話【ゼニス歴1071年 ニール視点】
ガブリエルという名前を覚えたのは、カインが来て三日目のことだ。
部下の中で一番若い。体だけ見れば一番大きい。肩幅が広く、首が太く、動くたびに床が軋む。年齢は俺と同じか少し下——でも顔だけ見れば、もっと幼く見える。
戦闘になると別人になる。
市場での衝突で、俺はそれを見た。
路地に踏み込んできたエルバート王国兵を、ガブは盾一枚で三人同時に止めた。押し返すのではなく、受け止めて、動かない。岩のように。その間に他の部下たちが横から動いた。
「あいつには使い方がある」
カインは事後にそう言った。
「使い方?」
「盾だ。あいつが正面に立てば、後ろは安全になる。今はそれだけでいい」
今は、という言い方が少し引っかかった。
その日の夕方、ガブが治療院に来た。
右腕に包帯を巻いている。自分で巻いたのか、ぐるぐると適当だ。
「手当か」
「いや」
ガブはそっぽを向いたまま言った。
「タバサさんに言われた。ちゃんと診てもらえって」
「見せろ」
ガブは渋々、腕を差し出した。
包帯をほどく。
刃物の傷だ。こないだの戦闘時のものではない。もっと古い。ずいぶん前からある傷だが、きちんと処置されていなかったせいで、端が少し膿んでいる。
「いつ付いた傷だ」
「……先月」
「なんで放っておいた」
「大したことないから」
「大したことある」
俺は傷を洗いながら言った。
「これ、あと少し遅かったら壊疽になってた」
「壊疽?」
「腕を切り落とすことになる、という意味だ」
ガブは黙った。
怖いのか、それとも関係ないと思っているのか——どちらかわからない顔だ。
「痛いか」
「痛くない」
嘘だ。洗浄のたびに肩が微妙に動いている。
でも認めない。
「傭兵は怪我をするものだから、いちいち診てもらわない、という考え方か」
「……そうじゃないけど」
「じゃあ何だ」
ガブは少し間を置いた。
「金がかかるかと思って」
「ここは無償だ」
「知ってる。でも、なんか——」
言葉が続かない。
「悪い気がして」
俺は手を止めた。
「悪い気がする?」
「みんな、もっとひどい怪我してる。俺はまだ動けるし、大したことないから、先に診てもらうのが申し訳ない気がした」
俺はしばらく、ガブを見た。
18歳か19歳か——体は大人だが、言っていることは子供だ。でも——悪い子供ではない。
「傷は程度じゃない」
俺は言った。
「小さい傷でも放置すれば死ぬ。大きい傷でも早く処置すれば助かる。来るのが遅いほど、俺の仕事が難しくなる」
「……そうか」
「だから次からは早く来い。遠慮は要らない」
ガブは「わかった」と言った。
素直だ。
処置が終わって、ガブはまだ座っていた。
帰らない。
俺は棚の整理をしながら待った。
「なあ」
しばらくして、ガブが言った。
「ここに来る人、みんな、なんで笑ってんだ」
「患者が?」
「帰る時」
俺は手を止めた。
「来る時は暗い顔してるのに、帰る時は少し違う顔してる。なんでだろうと思って」
俺は少し考えた。
「診てもらったからじゃないか」
「診てもらったら笑えるのか?」
「自分のことを気にかけてくれる人間がいる、とわかると、少し楽になるんだろう」
ガブは黙った。
何か考えている顔だ。
「……そんなもんか」
「そんなもんだ」
また沈黙が来た。
ピノが廊下を走り抜けた。イルルが「廊下は走らない!」と怒る。
ミラとミアが鼻歌を歌いながら薬草を仕分けしている。
「俺、ここに来るまで、治療院って行ったことなかった」
ガブが言った。
「怪我したら自分で巻いて、治ったら終わり。それだけだった」
「傭兵だからか」
「それもある。でも——」
ガブは自分の腕を見た。
さっき包帯を巻き直した、きれいな白い布だ。
「誰かに診てもらうって、こういう感じなのか、と思って」
俺は何も言わなかった。
ガブは照れたように頭を掻いた。
「変なこと言ったな、忘れてくれ」
「覚えておく」
「なんで」
「お前が言ったことだから」
ガブは少し黙って、それから立ち上がった。
「……ありがとな、先生」
「ニールでいい」
「ニール。でも、やっぱり俺の中であんたは先生だ!」
ガブは一度だけ頷いて、出ていった。
翌日の朝、ガブがまた来た。
今度は怪我じゃない。
薬草の束を抱えている。
「ミラとミアに言われた。足りないやつがあるって」
「どこから取ってきた」
「市場の外れに生えてた。これじゃないか」
俺は見た。
正しい薬草だ。しかも状態がいい。どれを取ればいいか、ちゃんと判断できている。
「誰かに教わったか」
「いや」
「じゃあどうして正しいものを選べた」
「昨日、棚にあるやつをよく見てたから。なんとなく覚えた」
俺はガブを見た。
「お前、観察力があるな」
「そうか?」
「ただ力が強いだけじゃないな」
ガブは少し困った顔をした。
褒められ慣れていないのかもしれない。
「……役に立てるなら、手伝う。戦い以外でも」
ぼそっと言った。
「助かる」
それだけ言うと、ガブは「じゃあ」と言って出ていった。
その夜、カインに話した。
「ガブが薬草を取ってきた」
「ああ」
「あいつ、使い方は盾だけじゃないぞ」
カインは少し間を置いた。
「知ってる」
「知ったから、「今は」なのか」
「あいつはまだ、自分が何者かわかっていない」カインは静かに言った。
「戦うことしか知らない人間に、いきなり別のことを押しつけると壊れる。自分で気づくまで待つ方がいい」
俺は少し考えた。
「あんたはガブのことをよく見ているんだな」
「部隊長の仕事だ」
「でも——部下を道具として見ていない」
カインは何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
「ガブは大丈夫だ」
俺は言った。
「ここにいる間は、俺が診る」
カインはこちらを見た。
それから、短く頷いた。
「頼む」
数日後の朝。
イルルが俺を呼んだ。
「ニール、倉庫の前に来て」
行くと、倉庫の扉の前にガブが座っていた。
膝を抱えて、うずくまっている。
「どうした」
「なんでもない」
「顔が赤い」
「日焼けだ」
嘘だ。目が潤んでいる。
イルルが俺の袖を引いた。
「市場のところのおじいさんが、昨日亡くなったんだって」
俺は少し考えた。
先々週、市場で転んで頭を打った老人だ。ガブが担いで治療院に連れてきた。あの時は大事に至らなかったが——その後、急に容態が悪化したらしい。
「ガブ」
俺は隣に座った。
「俺のせいだ」
ガブは言った。
「違う」
「でも、俺が担いで運んだ時に、もっとそっと運んでいれば」
「それは関係ない。頭部の打撲は、運び方で悪化するものじゃなかった」
「でも!」
「ガブ」
俺は静かに言った。
「お前が担いでこなかったら、あの人はあの場所で死んでいた。お前のおかげで、家族と一緒に最後の時間を過ごせた」
ガブは黙っていた。
「それで十分だ」
しばらく沈黙が続いた。
「……俺、泣きたかったんだな」
ガブが小さく言った。
「泣いてるじゃないか」
「泣いてない」
「頬が濡れてる」
「……汗だって言ってるだろ」
俺はそれ以上何も言わなかった。
イルルが黙ってガブの隣に座った。
三人で、しばらくそこにいた。
それから、ガブは治療院に入り浸るようになった。
戦闘の時は前衛で盾を張る。戦闘以外の時は、薬草を取ってきたり、重い荷物を運んだり、患者を担いで連れてきたりする。
誰かに頼まれたわけじゃない。気づいたらそうなっていた。
「ガブって結構、気ぃ遣いだよね~」とミアが言った。
「そうか?」とガブが言った。
「うん。さりげなくみんなのこと見てる」
「そんなことない」
「あるよ~」
ガブは「うるさい!」と言って、薬草の束を抱えて倉庫に入っていった。
カインが遠くからその背中を見ていた。
俺はカインの隣に立った。
「だんだん変わってきたな」
「ああ」
「戦う理由が、できてきたのかもしれない」
カインは短く言った。
「それでいい」
リオネッサの朝は、今日も騒がしかった。




