表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
30/45

27話【ゼニス歴1071年 ニール視点】

ガブリエルという名前を覚えたのは、カインが来て三日目のことだ。


部下の中で一番若い。体だけ見れば一番大きい。肩幅が広く、首が太く、動くたびに床が軋む。年齢は俺と同じか少し下——でも顔だけ見れば、もっと幼く見える。

戦闘になると別人になる。


市場での衝突で、俺はそれを見た。

路地に踏み込んできたエルバート王国兵を、ガブは盾一枚で三人同時に止めた。押し返すのではなく、受け止めて、動かない。岩のように。その間に他の部下たちが横から動いた。

「あいつには使い方がある」

カインは事後にそう言った。

「使い方?」

「盾だ。あいつが正面に立てば、後ろは安全になる。今はそれだけでいい」

今は、という言い方が少し引っかかった。


その日の夕方、ガブが治療院に来た。

右腕に包帯を巻いている。自分で巻いたのか、ぐるぐると適当だ。

「手当か」

「いや」

ガブはそっぽを向いたまま言った。

「タバサさんに言われた。ちゃんと診てもらえって」

「見せろ」


ガブは渋々、腕を差し出した。

包帯をほどく。

刃物の傷だ。こないだの戦闘時のものではない。もっと古い。ずいぶん前からある傷だが、きちんと処置されていなかったせいで、端が少し膿んでいる。

「いつ付いた傷だ」

「……先月」

「なんで放っておいた」

「大したことないから」

「大したことある」

俺は傷を洗いながら言った。


「これ、あと少し遅かったら壊疽になってた」

「壊疽?」

「腕を切り落とすことになる、という意味だ」

ガブは黙った。


怖いのか、それとも関係ないと思っているのか——どちらかわからない顔だ。

「痛いか」

「痛くない」

嘘だ。洗浄のたびに肩が微妙に動いている。

でも認めない。

「傭兵は怪我をするものだから、いちいち診てもらわない、という考え方か」

「……そうじゃないけど」

「じゃあ何だ」

ガブは少し間を置いた。


「金がかかるかと思って」

「ここは無償だ」

「知ってる。でも、なんか——」

言葉が続かない。

「悪い気がして」

俺は手を止めた。

「悪い気がする?」

「みんな、もっとひどい怪我してる。俺はまだ動けるし、大したことないから、先に診てもらうのが申し訳ない気がした」

俺はしばらく、ガブを見た。


18歳か19歳か——体は大人だが、言っていることは子供だ。でも——悪い子供ではない。


「傷は程度じゃない」

俺は言った。

「小さい傷でも放置すれば死ぬ。大きい傷でも早く処置すれば助かる。来るのが遅いほど、俺の仕事が難しくなる」

「……そうか」

「だから次からは早く来い。遠慮は要らない」

ガブは「わかった」と言った。

素直だ。


処置が終わって、ガブはまだ座っていた。

帰らない。

俺は棚の整理をしながら待った。

「なあ」

しばらくして、ガブが言った。

「ここに来る人、みんな、なんで笑ってんだ」

「患者が?」

「帰る時」

俺は手を止めた。


「来る時は暗い顔してるのに、帰る時は少し違う顔してる。なんでだろうと思って」

俺は少し考えた。

「診てもらったからじゃないか」

「診てもらったら笑えるのか?」

「自分のことを気にかけてくれる人間がいる、とわかると、少し楽になるんだろう」

ガブは黙った。

何か考えている顔だ。

「……そんなもんか」

「そんなもんだ」

また沈黙が来た。


ピノが廊下を走り抜けた。イルルが「廊下は走らない!」と怒る。

ミラとミアが鼻歌を歌いながら薬草を仕分けしている。


「俺、ここに来るまで、治療院って行ったことなかった」

ガブが言った。

「怪我したら自分で巻いて、治ったら終わり。それだけだった」

「傭兵だからか」

「それもある。でも——」

ガブは自分の腕を見た。

さっき包帯を巻き直した、きれいな白い布だ。

「誰かに診てもらうって、こういう感じなのか、と思って」

俺は何も言わなかった。


ガブは照れたように頭を掻いた。

「変なこと言ったな、忘れてくれ」

「覚えておく」

「なんで」

「お前が言ったことだから」

ガブは少し黙って、それから立ち上がった。

「……ありがとな、先生」

「ニールでいい」

「ニール。でも、やっぱり俺の中であんたは先生だ!」

ガブは一度だけ頷いて、出ていった。


翌日の朝、ガブがまた来た。

今度は怪我じゃない。

薬草の束を抱えている。

「ミラとミアに言われた。足りないやつがあるって」

「どこから取ってきた」

「市場の外れに生えてた。これじゃないか」

俺は見た。

正しい薬草だ。しかも状態がいい。どれを取ればいいか、ちゃんと判断できている。

「誰かに教わったか」

「いや」

「じゃあどうして正しいものを選べた」

「昨日、棚にあるやつをよく見てたから。なんとなく覚えた」

俺はガブを見た。

「お前、観察力があるな」

「そうか?」

「ただ力が強いだけじゃないな」

ガブは少し困った顔をした。

褒められ慣れていないのかもしれない。

「……役に立てるなら、手伝う。戦い以外でも」

ぼそっと言った。

「助かる」

それだけ言うと、ガブは「じゃあ」と言って出ていった。


その夜、カインに話した。

「ガブが薬草を取ってきた」

「ああ」

「あいつ、使い方は盾だけじゃないぞ」

カインは少し間を置いた。


「知ってる」

「知ったから、「今は」なのか」

「あいつはまだ、自分が何者かわかっていない」カインは静かに言った。

「戦うことしか知らない人間に、いきなり別のことを押しつけると壊れる。自分で気づくまで待つ方がいい」

俺は少し考えた。


「あんたはガブのことをよく見ているんだな」

「部隊長の仕事だ」

「でも——部下を道具として見ていない」

カインは何も言わなかった。

しばらく沈黙が続いた。

「ガブは大丈夫だ」

俺は言った。

「ここにいる間は、俺が診る」

カインはこちらを見た。

それから、短く頷いた。

「頼む」


数日後の朝。

イルルが俺を呼んだ。

「ニール、倉庫の前に来て」

行くと、倉庫の扉の前にガブが座っていた。

膝を抱えて、うずくまっている。

「どうした」

「なんでもない」

「顔が赤い」

「日焼けだ」


嘘だ。目が潤んでいる。


イルルが俺の袖を引いた。

「市場のところのおじいさんが、昨日亡くなったんだって」

俺は少し考えた。

先々週、市場で転んで頭を打った老人だ。ガブが担いで治療院に連れてきた。あの時は大事に至らなかったが——その後、急に容態が悪化したらしい。

「ガブ」

俺は隣に座った。


「俺のせいだ」

ガブは言った。

「違う」

「でも、俺が担いで運んだ時に、もっとそっと運んでいれば」

「それは関係ない。頭部の打撲は、運び方で悪化するものじゃなかった」

「でも!」


「ガブ」

俺は静かに言った。

「お前が担いでこなかったら、あの人はあの場所で死んでいた。お前のおかげで、家族と一緒に最後の時間を過ごせた」

ガブは黙っていた。

「それで十分だ」

しばらく沈黙が続いた。

「……俺、泣きたかったんだな」

ガブが小さく言った。

「泣いてるじゃないか」

「泣いてない」

「頬が濡れてる」

「……汗だって言ってるだろ」

俺はそれ以上何も言わなかった。

イルルが黙ってガブの隣に座った。

三人で、しばらくそこにいた。


それから、ガブは治療院に入り浸るようになった。

戦闘の時は前衛で盾を張る。戦闘以外の時は、薬草を取ってきたり、重い荷物を運んだり、患者を担いで連れてきたりする。

誰かに頼まれたわけじゃない。気づいたらそうなっていた。

「ガブって結構、気ぃ遣いだよね~」とミアが言った。

「そうか?」とガブが言った。

「うん。さりげなくみんなのこと見てる」

「そんなことない」

「あるよ~」

ガブは「うるさい!」と言って、薬草の束を抱えて倉庫に入っていった。


カインが遠くからその背中を見ていた。

俺はカインの隣に立った。

「だんだん変わってきたな」

「ああ」

「戦う理由が、できてきたのかもしれない」

カインは短く言った。

「それでいい」


リオネッサの朝は、今日も騒がしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
基本的に毎週水曜日、土曜日、日曜日の21時頃の更新を目指しています! 長期休暇期間中は頑張ります!!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ